またこれも前に述べたことだが、日本を外交的に承認しているはずの韓国の一部マスコミは、いまだに「天皇」を「天皇」と呼ばず「日王」と呼んでいる。これは朱子学に基づく中華思想によるもので、「日本の如き小国が『国王』よりも格の高い『皇帝』の『皇』の字を使うのは許せない」という差別感情の発露だ。だから私は昔から断固抗議しているし、韓国人も日韓友好を本気で進める気持ちがあるなら、この点を真っ先に改めるべきだ。
立場を逆にして考えればわかることだが、私が「韓国など小国で人口も日本の半分しかない。だから元首が大統領などというのは片腹痛い。〈小統領〉などと呼べばじゅうぶんだ」などと言ったら、どんな気がするか、それと同じことを、いまの韓国人はやっているのである。これは改めるべきことだということはおわかりになるだろう。
同じことで、現在の中国をシナとかチャイナなどと呼ぶべきではない、もちろん、思想上の理由であえてそう呼びたいというならばその気持ちは尊重する。あくまで思想は自由であるべきだからだ。しかし、歴史家としての私はそういう態度は取らない。少し長くなったが、これが私の歴史家および著述家としての原則である。
以上、この長い連載のなかでもうすでに何度も述べた原則であるが、新たにまとめて述べた。あえてそうしたのは、冒頭に述べたようにこの原則を述べてから何年も月日が経ったということもあるのだが、最大の理由はいま述べている青島要塞が陥落した一九一四年十一月の時点で日本人の「民族感情」がどのようなものであったか、実感してもらいたかったからである。
早い話が、当時の日本人は「天皇を日王としか呼べない」きわめてレベルの低い、外交的にも問題のある一部の韓国マスコミと同じレベルだったということだ。もちろんそうなってしまったのには長い経緯があるが、一言で言えばそれは朱子学という亡国の哲学のなせる業である。この悪影響からなんとか脱し、近代化に成功した日本人は、朱子学の呪縛を自力で解くことができず簡単に近代化できなかった朝鮮人や中国人を軽蔑するようになった。
勝海舟は「日中朝の三国が団結して欧米列強の侵略を跳ね返すのが本筋だ」と主張し、日本の草創期には朝鮮人のおかげで国土建設がスムーズに進んだなどという実例も紹介し、なんとかこの路線を発展させようとしたが失敗した。それは勝海舟の責任では無く、あまりにも朱子学の説く祖法にこだわり近代化の道を進むことができなかった中国人、朝鮮人のせいなのだが、それであるがゆえに最初は朝鮮の自力近代化を応援していた福澤諭吉も絶望し、「脱亜入欧」すなわち「欧米列強クラブ」への、孫文の言葉を借りれば「西洋の覇道」への加入をめざした。別の言葉で言えば帝国主義、とくにアジアにおける植民地獲得競争への参加である。
その分岐点となったのが日露戦争であった。桂太郎内閣は日本と同じくアジアへの「参入」が遅れたアメリカのフィリピン領有を支持し、その代わりに日露戦争への応援を獲得して南満洲に足がかりを築いた。そして第一次世界大戦の青島の戦いにおいて、欧米列強の中国からの植民地獲得レースにおいて白人国家では最下位を走っていたドイツを追い抜き蹴落とし、ようやくほかの列強に追いつき追い越し、「金メダル」を狙える順位に入ったのである。
問題は、その取っ掛かりとなった第一次世界大戦という「レース」への参加にあたって、時の大隈重信内閣は「中国への領土的野心は無い」、日露戦争のとき世話になった同盟国イギリスへの恩返しだという立場を表明して、このレースに参加つまりドイツに宣戦布告した。もちろん、その表明を一〇〇パーセントまともに受け止めていた国はいない。戦場となった中国つまり中華民国も日本が膠州湾をドイツから奪い、それを「人質」にしてなんらかの領土的要求をすることは覚悟していた。
それは前回紹介した中国の各紙が予想していたところでもある。しかし、実際はこの先大隈内閣は領土的野心を剥き出しにしたとしか思えない主張を中国に突きつけることになる。なぜそんなことになったかと言えば、最大の理由はこの時点における日本人の中国人に対する差別感情にある。人間は感情的動物だからである。
(第1399回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2023年11月17・24日号