テレサ・テン激動の人生年表
「努力と感性の賜物」
「テレサの2曲目をどうするか」でポリドール社内は紛糾したという。
「制作会議で『少し演歌調にするのはどうか』という案が出た。社内にはアイドル路線を主張する抵抗勢力もかなりあったが、沢田研二などを担当していた敏腕プロデューサーの佐々木幸男が、『方向を変えて演歌でやりたい』と頑張り、用意したのが『空港』でした。
佐々木は『これが通らないなら俺は降りる』とまで言い、じゃあ、佐々木に任せてみようとなった」(同前)
1974年7月に発売された『空港』は大ヒットし、レコ大新人賞を獲得した。
「授賞式には両親を招待し、涙を流して喜んでくれた。私もメンツが立ちましたね(笑)。『空港』はカテゴリーとしては演歌だがド演歌ではなく、ポップスでもニューミュージックでもない。当時は“テレサ演歌”なんて言い方をしていました」(同前)
来日当初から中国語でのテレサの相談相手で、日本公演の演出を手がけた元テレビプロデューサーの王東順氏が語る。
「『空港』からがテレサの本領発揮となり、その後のヒットに繋がりました。『空港』は音域が上から下まで非常に広く、あの曲で聴かせる歌声は彼女の真髄だなとつくづく思いました。そして『空港』でテレサが日本の大衆の心をとらえた理由は彼女の努力と感性の賜物です。
日本語の習得が早くて、あっという間に覚えた。『空港』の時には、日本語の発音と発声が素晴らしく綺麗で、歌でも『が』などの鼻濁音をとてもうまく発声していた。これは外国の人には難しいことです。中国語も台湾語、北京語、広東語が喋れたし、日本語も英語も。そうした魅力が合わさって、テレサ・テンが日本の人の心に染み込んでいったと思います」
王氏も舟木氏も、テレサのマンションを訪ねては、母親が作る本場の水餃子を振る舞われるなど交流を深めたという。
『空港』のヒット後、香港を拠点に日本や台湾など各地を行き来して多忙を極めるなか、1979年に“事件”が起こる。台湾から日本に移動する際、「テレサが偽造パスポートを使って入国した」と、当局に摘発されたのだ。