『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』/梯久美子・著
【書評】『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』/梯久美子・著/文春文庫/770円
【評者】澤田瞳子(小説家)
──天才であるより、いい人であるほうがずっといい。
かつてやなせたかしの元で仕事をし、彼を「先生」と敬愛する著者・梯氏が聞いたこの言葉。本書では多くの悲しみと情熱の果てに、与えられた命を誠実に、ひそやかに生きんとしたやなせの姿が静謐に浮き彫りにされる。
早すぎる父の死と母との別れ、弟への拭いがたいコンプレックス。その後訪れる学生生活は幼少時とは裏腹の活気に満ち、だからこそやがて彼を戦地へと送り込む戦争の悲惨さをより際立たせる。だがやなせを何より傷つけたのは敗戦そのものではなく、それまで信じていた「正義」の逆転だった。その現実はやがて彼に本当の正義とはなにか、それはおなかが空いている人に食べ物を分け与えることではないかとの信念を与える。
令和に生きる我々は、アンパンマンという万人に愛されるヒーローを知っている。しかしその「ヒーロー」を生んだやなせの姿は、分かりやすい英雄性とは遠い。幾人もの身近な人々との別れを繰り返してきた彼はただ、生きるとは何か、命は愛はそして死はという問いを、戦死した弟にどこか似たアンパンマンを通じて投げかけ続ける。
本書によれば、やなせが作詞した「アンパンマンのマーチ」の冒頭は当初、今日親しまれるそれとは異なり、「そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ いのちが終るとしても」だったという。生は必ず、死によって終わる。だがそれは万物の終わりではなく、人との関わりの中で亡き人は生き、命は更に次の命へ引き継がれる。
本書は多くの詩を引き、丹念な取材によってやなせのみならず周辺の人々の生き様をも浮き彫りにする。この労作もまた引き継がれた命の一つだと気づく時、我々自身の中にもまた知らず知らずのうちにやなせたかしの信念が息づいていると顧みさせられるのである。
※週刊ポスト2025年6月20日号