大礼服姿の宮川舩夫(1939年ウラジオストク総領事就任当時)
総領事館員たちが残した「ソ連軍侵攻」のリアル
ソ連軍の侵攻開始以来、総領事館の内外で繰り広げられた経緯を、戦後に帰国した総領事館員たちが記録に残している。
〈昭和二十年八月九日、ソ連軍の満洲国攻撃が開始されるや、ハルビンには同日午前三時ごろソ連軍の爆撃機が飛来し、市内浜江(ひんこう)駅に爆弾を投下、倉庫一棟が炎上した。
ソ連軍は瞬(またた)く間に国境線を突破し、刻々牡丹江(ぼたんこう)、ハルビン方面に進撃中との報道あり、市内には逐次(ちくじ)日本軍の数も増加し、人心は漸次(ぜんじ)緊張の度を加えて行った。
総領事館においては、緊急事態に備えて宮川[舩夫]総領事指揮の下に各館員の分担を定め、電信コード、機密書類の焼却に着手すると共に、本省に資金を請求し、防空施設の強化、籠城物資の購入等万全の策を決定した。〉(外務書記生・大神田(おおかんだ)敬二「終戦後における哈爾賓(ハルビン)総領事館員の動静」外務省資料より)
当時、日本国内では、東京や大阪、広島など主要都市への「本土空襲」が頻発していたこともあり、満洲は相対的に安全な場所だという認識も広がっていた。そのため、ソ連軍の“奇襲”に人々は騒然となったという。
〈邦人居留民は勿論(もちろん)、市民一般の生活も漸(ようや)く窮屈になりつつあったとはいっても、空襲などもなく、戦局頓(とみ)に急迫していた日本内地等に較べれば、まさに別天地の感があった。[中略]
従って、八月九日の突如のソ連軍の満州侵攻に人々が強い衝撃を受けたのも無理ないことであった。[中略]以来、日増しに市内は騒然となり、市街戦に備えてか、各所で、街の情趣の一部でもあった美しい石畳の路を掘り返して野砲陣地が構築される一方では、居留民男子の即日動員が行われた[中略]
ソ連侵攻のニュースが伝わるや、私達は一部館員と共に、総領事館に保存されていた文書類の焼却を指示され、連日炎暑(北満もこの時期には摂氏の三十度余になる)の中を流れる汗を拭いつつこれに当ったが、刻々と伝えられる、意外と速いソ連軍進撃のニュースに、気は焦るばかりで、叩いても、油をかけても捗(はかど)らず[中略]〉(ハルビン総領事館留学生・大田泰彦「忘れ得ぬ日々」霞関会会報より)