降伏の決定以前にハルビンの「非武装都市化」を模索
大神田書記官の報告書によれば、8月9日未明の空爆から始まった侵攻に対して、満洲国の首都・新京にあった日本大使館をはじめ各地の領事館が連携して対応を模索したという。
その中で、宮川総領事は在留邦人らの安全を最優先すべく、ハルビン市を管轄する浜江省の日本人次長を巻き込んで、特筆すべき行動に出る。ハルビンを「非武装都市」として宣言しようとしたのだという。
〈宮川総領事は田村[敏雄]浜江省次長等と諮(はか)って、ハルビンを非武装都市として宣言するよう軍[関東軍]に要請する所あったが、軍作戦はハルビンを第一戦防禦(ぼうぎょ)陣地とすることになって容れられず、市内の各要所には陣地の構築が開始された。
十四日夕刻、総領事以下総領事館に集合、大使館に合流のため通化に移動するか、または大使館とは別箇に京城[現在の韓国ソウル]まで避難するか、あるいは最後までハルビンに踏み止まるべきかについて熱烈な討議が行われたが、討議続行中、十五日に重大放送がある旨のラジオニュースあり。結局、重大放送を俟(ま)って総領事館としての態度を決定することとなったが、翌十五日は無条件降伏の詔勅(しょうちょく)があったので、館員および家族は総領事官邸ならびに官邸に隣接の官舎に集結することとなり、一部の女子雇員を除き牡丹江館員、留学生を加え、十七日、集結を完了した。〉
「ハルビンを非武装都市として宣言する」──日本が国として降伏を受け入れる以前に、文官が自身の所管する地域を“無血開城”するよう関東軍に要請したのだという。田村敏雄次長は、満洲国統治のため大蔵省から派遣された若手官僚の一人で、現地で地方官に転じて理想国家の建設を支えた人物だった(戦後は池田勇人首相を裏から支える「陰のブレーン」として知られた人物である)。
宮川は、そんな田村らと協力して在留邦人保護を優先させようとしたが、軍はハルビンが「第一戦」防御陣地となることを理由に拒否した。
そのため、総領事館員とその家族も、南下して通化まで移動するか、朝鮮まで避難するか、ハルビンに居続けるかが討議されたが、翌日に終戦の詔勅が発表され、無条件降伏することになったことから、ひとまず官舎に踏みとどまることにしたという。
その後の展開がまったく見えない中で、宮川総領事以下、領事館員たちは「籠城」という選択をしたのだった。しかしこの後、容赦ない仕打ちが彼らを待っていた。
【プロフィール】
斎藤充功(さいとう・みちのり)/1941(昭和16)年東京生まれ。東北大学工学部を中退後、民間の機械研究所に勤務。その後、フリーライターとなる。共著を含めて50冊以上のノンフィクションを手がけ、中でも陸軍中野学校に関連する著作が最も多い。主な著書に、『謀略戦 ドキュメント陸軍登戸研究所』(時事通信社)、『昭和史発掘 幻の特務機関「ヤマ」』(新潮新書)、『日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実』(Gakken)、『ルポ老人受刑者』(中央公論新社)、『陸軍中野学校全史』『日本の脱獄王 白鳥由栄の生涯』(いずれも論創社)などがある。最新刊は小学館新書『消された外交官 宮川舩夫』。