「帰国送還リスト」は「強制連行リスト」に変わった
再び大神田報告書より引く。
〈九月八日夕刻、ソ連軍将校来訪「三十分程お話を承りたい」とて予(かね)て進駐軍司令部に提出せる館員リストに基づき太田領事、古屋領事、道正[久]副領事、目代、大神田、綱島、柘植、藁谷、村上、中島、丸山、酒井、鋤本、押野、各書記生、宮本、鐘撞各通訳生の氏名を読み上げ、厳重な警戒の下にトラックにてハルビン市車站街(しゃたんがい)満洲航空会社事務所に連行、各自の経歴に関する簡単な訊問が行われた。なお海軍武官府からは前田[直]大佐以下七名が我々と同時に連行され、同事務所においては先着の元満洲国外交部大石[重雄]特派員以下一〇名が既に訊問中で[中略]以来二週間、寝具の給与なく、南京虫と寒さに痛められつつ、二十四日迄(まで)同所[道裡(どうり)地区の監獄]で過ごした。〉
いったんは連行を免れた宮川総領事と大田ら留学生たちだったが、それから2週間ほど過ぎた9月24日、再びソ連側の訪問を受ける。その際に活用されたのが、前述した総領事館側が作成した館員リストだった。結局、日本への帰国目的ではなく、強制連行の対象者リストとして使われたのだった。前出・大田「忘れ得ぬ日々」では、当時の様子が記録されている。
〈慥(たし)か九月二十四日の、これも夕刻近くと記憶するが、またしても、前回と同様のソ連側の一隊が到来、偶々、官舎の入口にいた私は総領事の処へ案内させられた。この時の情景は今でも私の脳裏に焼き付いて離れないが、隊長の保安軍将校は、腰の吊り鞄から前述のリストを取り出すと、さきに連れ去られた一行の消息如何との総領事の問いには言葉を濁す一方で、今度は総領事および残余の雇員、それに留学生にも同行して貰いたいという。
これには総領事も驚かれ、かくては後に残るのは婦女子と言葉も解さぬ下働きの人間のみになるとして、せめて留学生、それも駄目なら、留学生のうち年長の者だけでも残すようにと強く抵抗、厳しい応酬の結果、先方は、「それではここ迄は残そう」と、リストに線を引いたので、思わず覗き込むと、丁度私の名前の上であった。〉
かくして、宮川総領事から大田ら留学生までがソ連側に連行されるに至った。