「日本人狩り」に脅えながら
また、同じくハルビン総領事館に在籍していた外務省留学生・大田泰彦の「忘れ得ぬ日々」には、当時の総領事館員たちの焦燥が描かれている。
〈私達は総領事公邸に籠(こも)っていたが、屢々(しばしば)銃声が聞える一方で、夜となく、昼となく、居留民の人々から、ソ連兵や満人が侵入して来たので助けて欲しい等悲痛な連絡が入るのだが、一切の権力、権威を失った館側としては、ソ連側領事館を介して頼んでも、なかなか埒(らち)が明かず、日本人会に集まるよう勧告するのが精一杯で、なんとも歯痒(はがゆ)い限りであった。[中略]
食料は終戦間際に畜産公社等の倉庫(関係者によれば膨大な物資が蓄積されていた由)から手に入れたものがかなりあり、それに当時はまだ満州国通貨が通用したため、満人行商より饅頭や野菜等も買えたので、特に不自由はなかったが、何分軟禁状態でもあったし、また、ウッカリ街中に出ると、ソ連軍や満人による「日本人狩り」に遭うとの噂もあって、外部の動き、特に居留民の様子等も一切不明の日が続いた。〉(大田泰彦「忘れ得ぬ日々」霞関会会報)
そうした中で、館員たちを集め、今後の対策や見通しを説明していたのが宮川総領事だったという。
〈皆、時折、宮川総領事の下に集まって、今後の対策や見通し等話し合ったが、前記のような境遇なので、妙案が浮ぶ訳でもなかった。その折、総領事から[中略]当時、関東軍としては、いずれはソ連の満州侵攻必至とはみていたものの、日ソ中立条約が効力を有していたことから、その時期は早くとも翌年三月以降と踏んでいたようで、どうも見方が甘かったようだとの述懐をうかがった[中略]
総領事は度々ソ連側に対し、館員・家族の早期帰国手配方要請されていたが、これに対し、ソ連側は“帰国送還計画作成のため”として、館員リストの提出を求めて来た。
このリストが実は、却(かえ)って仇(あだ)となることは間もなく判明することになるのだが、当時としては已むを得ないことであった。〉
日本への「帰国送還計画作成のため」にソ連側に提出した館員リストが、「却って仇」になったという。いったい何が起きたのか。