“カラス”という名の護送車で連行された
そして最後は、宮川総領事と太田領事の2人だけが他の館員たちから引き離されて、モスクワへと移送されることになった。
〈さて、同年も暮れ近くなって[実際は翌1946年2月]、私達の気持ちをまた、一段と暗くしたのは、宮川、太田両氏の連行であった。
その日、護送車(格子付きの小窓のある箱型の車で、前記防諜本部などでよく見掛けたものだが、黒く塗ってある処から不吉な使いを意味するのか、帝政時代から“鴉(カラス)”と渾名(あだな)されていたらしい)がやって来ると、御二人とも既に万事を達観されていたのか、いとも泰然たる出立ぶりであったが、私はまさか、これが同総領事との永遠の御別れになろうとは夢想もしなかった。〉(前出・大田「忘れ得ぬ日々」)
その後、大神田や大田たちは、ほかの領事・理事官・書記生らとも「分離」させられ、複数の収容所へと抑留された。さらに1948(昭和23)年9月、日本への帰国準備を命じられる。ハルビンでの拘束・連行から約3年が経っていた。
大神田が報告書をまとめた同年12月時点で、外務省関係の残留者は宮川舩夫ハルビン総領事以下、15名。多くはその後、日本に帰国したが、宮川と太田日出雄領事の「分離」後の足跡は杳(よう)として知れなかった。
その足取りが明らかになるのは、1956(昭和31)年末に太田領事が帰国を果たすまで待たなくてはならなかった。宮川総領事の死の真相が明かされるのは、さらにその後のことである。
日ソ外交を陰で支え続けた敏腕の外交官・宮川舩夫は、起訴されることもなく、隠密裡に1950年3月29日、モスクワの監獄で獄死していたのだった。
【プロフィール】
斎藤充功(さいとう・みちのり)/1941(昭和16)年東京生まれ。東北大学工学部を中退後、民間の機械研究所に勤務。その後、フリーライターとなる。共著を含めて50冊以上のノンフィクションを手がけ、中でも陸軍中野学校に関連する著作が最も多い。主な著書に、『謀略戦 ドキュメント陸軍登戸研究所』(時事通信社)、『昭和史発掘 幻の特務機関「ヤマ」』(新潮新書)、『日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実』(Gakken)、『ルポ老人受刑者』(中央公論新社)、『陸軍中野学校全史』『日本の脱獄王 白鳥由栄の生涯』(いずれも論創社)などがある。最新刊は小学館新書『消された外交官 宮川舩夫』。