無言は拒絶とイコールではない
「野辺の人々の沈黙は、今の風潮と正反対ですよね。今は自己主張だけならまだしも、そのついでに人を貶めたりして、言論の自由はこんな場所に行き着いたのかとすら思う。だから、そのことに絶望した人達が社会の片隅に安住の地を見つける風景を、つい想像してみたくなったんですね。
現代社会の最大公約数的な能力を持てない人にもちゃんと居場所はある、世界のどこかにはあってほしいというのが、今回書きたかったもうひとつの柱です」
「ありがとう」はあっても「おはよう」はなく、ごく限られた事柄だけを伝える指言葉にも使い手の個性は様々に宿る。例えば羊達の毛を刈る行事で〈羊のための毛刈り歌〉を物陰で人知れず歌うリリカは、〈毛刈り担当さん〉の「さようなら」を最も美しいと感じるのだ。
「無言は拒絶とイコールではなくて、むしろ彼らとのやり取りに深い繋がりを感じとれる彼女だからこそ、この職業に就けたと思う」
ある時は童謡を内蔵した〈ポピーちゃん人形〉の声、ある時はアシカの声やアイドルの仮歌等々、リリカはどんな注文にも全力で応えた。そんな彼女にとって、幼い頃に聞いた役場の青年の〈歌は分かち合うものだ〉という言葉は、自分を空っぽにするおまじないだった。
やがて〈料金所の人〉と家を行き来する仲になったリリカの淡い恋の行方や、森で迷子になった男の子が寂しくないようにとおばあさんが手製の人形を並べた〈人形公園〉が朽ちてゆく様など、時が巡り、会員や羊の数も年々減る中、〈帰る、というそこはかとなく心細い歩みに寄り添う〉リリカの歌声だけが変わらず森に響き渡るラストがいい。
「最初は不安でした。ここまで喋らない人の話が小説になるのかなって(笑)。無言って忍耐力が要ると思うんです。物事を深く考えず、思ったままを言葉にして発散する典型がSNSだとすれば、野辺の人達のように舌より耳を大事にすればするほど、心の容積は増えていくのかもしれません」
物言わぬ人や羊の沈黙に両手を浸し、そっと何かを掬い取って差し出すように、リリカは歌った。
「自らは語らず、名乗らず、かと思うと売り物の菓子に〈わざと小さな不完全〉を忍ばせて幸運の印にしたりする心の広い人達のことを私は書く。それがいいとか悪いではなく、読者にただ差し出すだけなんです」
そのこれ見よがしではない豊かさに触れ、文字で描かれた歌声に耳を澄ます読書は、確かに堪らなく贅沢だ。
【プロフィール】
小川洋子(おがわ・ようこ)/1962年岡山市生まれ。早稲田大学第一文学部卒。1988年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞、2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞と本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、2006年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、2013年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、2020年『小箱』で野間文芸賞を受賞。また『密やかな結晶』の英語版は2019年全米図書賞及び2020年ブッカー国際賞最終候補に。157cm、A型。
構成/橋本紀子
※週刊ポスト2025年7月11日号