小川洋子氏が新作について語る(撮影/国府田利光)
元々は別荘地として開発された住宅街と温泉街とを結ぶ森の先に、いつからか〈内気な人の会〉と称する人々が住み着き、羊を飼うなどして共に暮らす、〈アカシアの野辺〉はあった。
小川洋子氏の新作『サイレントシンガー』の主人公〈リリカ〉は、野辺の雑用係として働く〈おばあさん〉と2人暮らし。母親は彼女を産んでまもなく命を絶ち、リリカは幼い頃から野辺にある〈休養室〉に預けられ、常に無口で慎み深い黒衣の人々に囲まれて育った。物語は彼女の幼少期からCMや仮歌の歌い手となるまでを追うが、その象徴がドヴォルザーク『家路』が流れる冒頭の光景だろう。
〈毎日、夕方の五時になると、町役場から流れる『家路』が、山の中腹に広がるE-5地区にまで聞こえてくる〉〈歌っているのは小さな女の子だ〉〈歌声は、麓を伝い、稜線を越え、森を抜けてくる間に、遠のいたり渦を巻いたり途切れ途切れになったりする〉……。だがその歌声の主が誰なのかは、〈知ろうとする者さえいない〉。そんな声や耳や言葉を巡る、静かな物語だ。
「サイレントな歌手なんて、矛盾していますよね。でも本人は純粋に歌だけを歌っていて、別に自分を認めてほしいわけじゃない。それなのに、その歌声は人の心に響いたり残ったりする。そういう特別な能力を持った歌手のドキュメンタリー番組をたまたま観たことが、そもそもの始まりでした」(小川洋子氏、以下「」内同)
最強のゴーストシンガーとも呼ばれたマーニ・ニクソンの特集『ハリウッドを救った歌声』(2016年)である。
「それこそ『王様と私』のデボラ・カーや『ウエスト・サイド物語』のナタリー・ウッドや『マイ・フェア・レディ』のオードリー・ヘプバーンの歌声も担当した彼女の名前はクレジットになく、自分が歌ったことは一切口外しない契約だったそうです。残酷ですよね。
この中に〈灯油の歌〉の話が出てきますけど、私も昔は物売りの車が通る度に、あの口上は誰が喋っているんだろうとか、声の向こう側が気になる子供でした。そういう人がどんな場所で育ち、どんな人に囲まれて生きてきたのかを想像するうちに、物語の材料が自然と近寄ってきて、リリカが住むこの生活圏のイメージも固まっていった。きっとこんな地形で、羊がいて、街と野辺の境目には有料道路の料金所があるとか」
食堂にある〈魂を慰めるのは沈黙である〉という標語が示すように、野辺の人々は必要最小限の〈指言葉〉で意思を伝える以外は無言を貫き、野菜やその加工品、毛糸を街の人に売って細々と収入を得ていた。
その内と外を隔てるのが門番小屋だ。おばあさんは客の求めに応じて〈丸い回転テーブル〉に商品を置き、代金と交換する時も基本は無言。そのぶん、リリカといる時はお喋りになった。リリカは野辺の人たちに可愛がられ自然と指言葉を覚え、普段は声を出さない休養室の〈老介護人〉が遠慮がちに歌う『家路』を子守歌に聞きながら、すくすくと成長していくのだ。