斎藤元彦・兵庫県知事(時事通信フォト)
立花孝志氏、石丸伸二氏、斎藤元彦氏……熱狂的な支持と多くの反発を同時に集める新時代の政治家たちを、政治の表と裏を知り尽くした2人はどう見るのか。佐藤優氏と舛添要一氏が語り合った新刊『21世紀の独裁』(祥伝社新書)から一部抜粋・再構成して紹介する。
“第二官僚群”が必要だ(佐藤)
佐藤優:立花孝志さん、石丸伸二さん、斎藤元彦さん──彼らにとって今後の局面は、それぞれジェットコースターのように目まぐるしく動いていくでしょう。ただいずれにせよ、三者に共通する課題は「継続性」だと思います。急に騒がれたあと、静かになって終わるのか。それとも何らかの継続性を保てるのか。
たとえば、石丸さんが新党で何かをやっていこうとするなら、安芸高田市長時代のように議会と喧嘩してもいいですし、大多数の役人と喧嘩するのもいい。しかし、自身の手足となってくれる“第二官僚群”と呼ぶべき存在を作らなければ、思い描く政策を継続して実行することは不可能です。
官僚も人間です。そして裁量権を持っています。そこには一定の閾値、すなわち意思決定における基準点・分岐点があります。平たく言うなら、「この役人はどこでやる気を出し、能力を発揮して動くのか」。それを見きわめ、掴んでおかなければならない。舛添さんは「有権者のさまざまなディマンドに応えるには、官僚機構を動かす必要に迫られるケースがある」と言われましたが、そのためにも政治家は官僚個々人の閾値を把握し、それらが集合体になった場合にどうなるかを現実的に想定しておかなければいけないのです。
ただし、実際に省庁のなかに入ってみなければ、官僚の属性を見きわめることはできません。たとえば都庁には、ゴールドのブレスレットを身につけ、思わず「どこの筋の方(任侠団体構成員のこと)ですか?」と聞きたくなるような強面の浜渦武生副知事がいて、長く君臨していました。有象無象が巣食う都庁は、まるで伏魔殿です。伏魔殿の文法は、外から来た人にはわかりません。
ここからはシミュレーションです。石丸さんが都知事になり、そんな伏魔殿に足を踏み入れたとしましょう。その時に必要なのは、江戸幕府で諜報活動に従事した“御庭番”のような腹心を、中堅の部長・課長クラスから選抜して五人くらい置くことです。前述した第二官僚群ですね。そして密かに、都庁官僚たちの公私にわたる動向──異性関係からカネ遣いまでを仔細に調べさせる。彼ら御庭番は「ご注進、ご注進」と、調査結果を知事に耳打ちします。そうすれば、伏魔殿の景色も違って見えてくるはずです。
石丸さんは、SNS社会というバーチャル上の共同体で頭角を現してきました。しかし政治活動のコアな部分においては、数は少なくてもリアルな人間が欠かせないということです。すなわち継続性を保つうえでも、バーチャルとリアルのハイブリッド性をいかに作るかが重要なのです。
斎藤さんの話に戻ると、メディアは徒党を組んで“おねだり”や“パワハラ”疑惑を報道し、彼を叩きました。視察先の地元企業で産品を欲しがった。職員に暴言を吐いたり付箋を投げつけたりした。信用金庫への補助金を増額し、キックバックさせた。それを告発した元局長が亡くなった……。はじめは尾ひれがつく程度だったのが、背びれもついて、そのうち鵺やキメラのような怪物扱いになりました。「ここまでひどい悪人が、この世にいるのか」と思わせるに十分なバッシングの嵐です。
私は、私自身が連座した形で逮捕された鈴木宗男事件(二〇〇二年)を思い起こしました。この時、ワイドショーも新聞も週刊誌も、鈴木さんを悪徳政治家、私をその腰巾着として悪しざまに報じました。勤務先の外務省はおろか、自宅にまで記者が押しかけてきたものです。私が何を言っても、誰も聞いてくれません。私は「本当に生きていていいのだろうか」というところまで追い詰められました。その地獄のような経験から、どうしても心情的に斎藤さん、つまり叩かれる側に立つ自分がいます。
舛添さんも、同じように乱暴なメディアの嵐に潰された経験がおありですが、この点はどう思われますか。