佐藤優氏
舛添要一氏
都知事時代のバッシングの真相(舛添)
舛添要一:そうですね。私は斎藤さんを擁護する意図はありませんが、彼がボロクソに書かれているのを見て、率直なところ「俺の時も同じだったなぁ」と思いました。やれ「別荘へ行くのに公用車を使った」だの、「公費で美術品や本を購入した」だの、それは凄まじかった。既存のメディア、いわゆるオールド・メディアの残虐性を、身をもって味わいました。街を歩けば「ああ、舛添の大泥棒が歩いている」と指を差される。まるで魔女狩りです。家族がかわいそうでした。
そして「政治資金という公費を私的に流用する舛添はセコくてけしからん」などと罵られましたが、蓋を開ければ、検察が調べた結果、経理上のミスが五年間で一五〇万円でした。裏金議員にかぎらず、巨額の使途不明金が疑われても議員を続けている政治家もいるのに、世の中は不公平です。
あの当時、今のようにSNSがあれば反論できたのに、と思うこともあります。定例の知事記者会見では何時間もの“吊し上げ”が続き、私には反論の余地が与えられませんでした。いっぽう、斎藤さんは言わばSNSの力で再選され、復活しています。
私は都知事を辞職してからというもの、オールド・メディアには見向きもされず、まだ過渡期にあったSNSでネット上に細々と原稿を書き、なんとか糊口を凌いできました。そのうち、次第に、私に同情的なメディアの人も現れて、著書の刊行を勧めてくれるようになりました。おかげで、あれから九年が過ぎた今、こうして佐藤さんと対談できるわけですが(笑)。
それはそれとして、メディアを味方につけることは大切です。私が厚生労働大臣を務めていた二〇〇七年、いわゆる薬害肝炎事件に対処しました。フィブリノゲンという血液製剤を投与された人たちがC型肝炎を発症し、国や製薬会社を相手取って訴訟を起こした事件です。この時、私はメディアを厚労省側の仲間に引き入れたのです。
私は省内に調査チームを立ち上げるとともに、被害を訴える人たちに面会しました。大臣としては異例のことです。そして年内に解決できるよう、被害者を救済するべく動きました。しかし、そこに財務省と法務省の官僚が立ちはだかります。財務官僚は「国で補償金を出せるわけがないでしょう」と言うし、法務官僚は「国の沽券にかかわるから、裁判に負けるわけにいかない」。私は霞が関の官僚と対立することになってしまいました。
ところが、ここで私に援護射撃をして、味方になってくれたのがメディアです。舛添大臣は被害者に会って話を聞き、がんばっているのに、霞が関の役人はなぜ反対するのか──と。やがて、被害者救済の世論が形成されていきました。
その後、裁判所から調停案が提示されました。当時の首相は福田康夫さんです。私は事件発覚当初、福田さんに「総理、ここは腹を据えてください。私は被害者全員に会いますから」と言い、最終的には「総理の決断で、被害者を一律に救済すると発表してください。私はあとで出ていきます」と進言しました。二〇〇七年一二月二三日、福田さんは議員立法による一律救済を発表します。私がこの日付をよく覚えているのは、上皇陛下の誕生日(当時の天皇誕生日)だったからです。その日は総理も私も、午後から行なわれる皇居宮殿での祝賀行事に参列しなければなりません。そのため、皇居へ向かう前に決める必要があったわけです。最後は「今、決めなければ、内閣が潰れますよ」という感じでした。
※佐藤優・舛添要一/共著『21世紀の独裁』(祥伝社新書)から一部抜粋・再構成
【プロフィール】
佐藤 優(さとう・まさる) 作家、元外務省主任分析官。1960年生まれ、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館書記官、国際情報局主任分析官などを経て作家活動に入る。著書に『国家の罠』(毎日出版文化賞特別賞)、『自壊する帝国』(新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞)など。
舛添要一(ますぞえ・よういち) 国際政治学者、元東京都知事。1948年生まれ、東京大学法学部政治学科卒業後、同大学法学部助手。パリ、ジュネーブ、ミュンヘンで外交史を研究。東京大学教養学部助教授を経て政界へ。厚生労働大臣、東京都知事を歴任。著書に『ヒトラーの正体』、『ムッソリーニの正体』、『現代史を知れば世界がわかる』など。