なぜ、そんな無謀なことをしたのか。辻氏以下、山梨シルクセンターの面々が全員出版の素人だったからです。本は作ったものの、どうやって書店で販売できるのか、出版流通の仕組みも慣習もまったく知らなかった。
ところが、辻氏は臆せず、出版流通の要である取次の一社、東京出版販売(トーハン)に足を運び、「どうやったら売れますか?」と単刀直入に聞いたのです。トーハンもびっくりしましたが、邪険に追い返さず、販売のイロハを教えました。素人というのは怖い。けれど、であるが故に強い。
詩集『愛する歌』が刷り上がると、やなせたかしも販促活動に担ぎ出されました。サイン会です。最初は銀座4丁目にある雑貨屋の入り口で、次には取引のあった三愛の東京と大阪の下着売り場でサイン会を開きました。
驚いたことに、出版販売のイロハもしらない山梨シルクセンターが出版したやなせたかしの処女詩集『愛する歌』は売れました。版を重ね、10万部を超えました。堂々のベストセラーです。その後、サンリオは書籍部門を設け、さまざまな分野の書籍や雑誌を出すようになります。その第一号はやなせたかしの『愛する歌』であり、本書のヒットがサンリオの出版ビジネスの発端となったのです。
それだけではありません。
2025年春に放送されるNHKの朝の連続ドラマ小説「あんぱん」。主人公はやなせたかしの妻、小松暢がモデルです。脚本を担当するのは、「ハケンの品格」「西郷どん」「花子とアン」で知られる中園ミホ氏。彼女は、小学生時代にやなせたかしと文通していました。NHK「あんぱん」の製作発表に際し、NHK公式サイトでこう語っています。
「アンパンマンが誕生するずっと前、小学生の私は、やなせさんと文通をしていました。『愛する歌』という詩集に感動して手紙を送ったところ、すぐにお返事をくださったのです。何度かお目にかかったこともあります。やなせさんはいつもやさしい笑顔を浮かべ、『元気ですか? お腹はすいていませんか?』と声をかけてくれました」
やなせたかしが『愛する歌』をきっかけに開拓し『詩とメルヘン』で広げていった抒情詩とメルヘンの世界は、当時、評論家からは全く相手にされませんでした。現代詩に比べて、幼稚なものだと思われたのでしょう。けれども、それよりはるかに大切な人たちが、彼の開いた道を辿ってくれました。若い人たち、子どもたちです。中園ミホ氏もその一人だった。そして2025年、道を拓かれた小学生が、やなせたかしと妻・小松暢の物語をつくり、朝のドラマになる。
やなせたかしの「詩」の力を思い知らされます。
(了。第1回を読む)
【著者プロフィール】柳瀬博一 (やなせ・ひろいち)/東京科学大学教授。1964年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。日経マグロウヒル社(現・日経BP社)を経て、2018年より現職。著書に『国道16号線──「日本」を創った道』など。