知られざるハローキティとアンパンマンの縁(時事通信フォト)
『アンパンマン』の原作者・やなせたかしが、詩人であったことはあまり知られていない。アンパンマンを生み出す前の1960年代、やなせさんは自身が台本を担当していたラジオドラマにて、劇中歌の歌詞を毎週手掛けていたという。
1969年、やなせさんは手元に溜まった大量の歌詞をまとめて、山梨シルクセンターという社員6人の小さな会社から詩集『愛する歌』を出版。この小さな会社は、のちに「株式会社サンリオ」へと社名変更をし、ハローキティなど数々の“メルヘン”なキャラクターを生み出すこととなる──。
東京科学大学でメディア論の教壇に立つ柳瀬博一氏の著書『アンパンマンと日本人』(新潮新書)より、やなせさんの“詩とメルヘンの世界観”が与えた様々な影響についてお届けする。(同書より一部抜粋して再構成)【全4回中の第4回。第1回から読む】
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「キティちゃん」ことハローキティは、世界のキャラクタービジネスランキングで、ポケモンについで第2位、ディズニーのくまのプーさんやミッキーマウス、スターウォーズよりも稼いでいると言われます。ちなみにアンパンマンは6位です。このキティちゃんを生んだ会社がサンリオです。
やなせたかしは、もしかするとアンパンマンだけではなく、キティちゃんを生んだメルヘンとキャラクターの企業サンリオの発展にも関与していたかもしれません。サンリオがまだ山梨シルクセンターという社名だった1966年、同社がはじめて出版した書籍が、やなせたかし初の詩集である『愛する歌』であり、サンリオに名前を変えて、1973年に初めて自社で出版した雑誌がやなせたかしの持ち込み企画『詩とメルヘン』だったのです。
1960年代、ラジオドラマの台本を執筆していたやなせたかしは、劇中歌の歌詞を必ず書いていました。毎週たくさんの番組を担当していたので、いつのまにか自作の歌詞が大量に手元に溜まります。
もったいないから本にしよう。でも、誰も詩なんか買わないだろうな。よし、自費出版で。そう思って、手持ちの詩をまとめていたとき、やなせたかしのもとに現れたのが、山梨県からやってきたよれよれのコートを着た中年男、辻信太郎氏でした。
元々山梨県の職員で、山梨シルクセンターなる会社の社長、ということです。社員6人ほどのちっぽけな会社で、山梨県の産品であるシルク=絹製品を販売する県の外郭団体らしい。さまざまな雑貨を売ったり、ハンカチやサンダルを売ったりと、いまひとつ何をやっているのかわからない。
そんな同社の最初のヒット商品の一つは、大手菓子メーカーとの提携で、オリジナルパッケージデザインを施した缶入りキャンディでした。イラストレーターや漫画家にデザインを頼み、商品のバリエーションを増やしたのです。パッケージデザインのバリエーションを商品化する。今にして思えば、デザインを核に据えた先進的なビジネスを志向していました。
そして辻氏自らが声をかけた漫画家の一人がやなせたかしだった、というわけです。 「麦わら帽子の形をした飴玉入れなんかをデザインしました」(『人生なんて夢だけど』)