1999年、夏の甲子園に出場した芸人・とにかく明るい安村(公式HPより)
自分の息子が出ているわけでも、知り合いの子が出ているわけでもない。それなのになぜつい彼らを目で追ってしまうのか。それは、甲子園という舞台で汗を流し、破顔し、声を張り、涙を流す球児たちの「人生そのもの」を感じとれるからではないだろうか。野球少年たちの憧れの地は、彼らの「これまで」と「これから」を大きく変える場所でもあるのだ。【全3回の第1回】
8月5日、107回目の夏の甲子園が開幕した。酷暑とともに豪雨にも見舞われ、広島・広陵高校が不祥事で2回戦から出場を辞退するなど、数々のトラブルが重なる中でもグラウンドでは球児らが白球を追う。夏の風物詩である甲子園で彼らが得るものは何だろうか。ひとつの勝利を手にすることか、チームの団結か、歴史をつなぐことか、深紅の優勝旗を母校に飾ることか。それとも──。
真冬の雪のグラウンドで練習に励む。「甲子園をめざすためだけに高校に通った」
夏の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)が始まったのは1915年。1924年からは新設された甲子園大運動場(阪神甲子園球場)が会場となり、戦時期の中断を挟んで戦後に再開。以降は、球児が憧れる夢の舞台としての地位を確立した。
「ぼくの場合は、甲子園をめざすためだけに、高校に通っていました」
と語るのは、お笑い芸人のとにかく明るい安村(43才)。北海道・旭川実業高校3年時の1999年、安村は夏の甲子園に出場した。高校時代は雪が降りしきる母校のグラウンドで、甲子園を夢見ながら来る日も来る日も練習に励んだ。
「校庭の雪を踏んで固めて、長靴を履いて大雪のなかを50周走るしんどい練習を毎日やっていました。あるときは危険な寄生虫を宿したキツネが山から下りてきて、追いかけまわされて、大変な目にあったことも(苦笑)。練習後は甲子園出場時の“予行演習”として部員全員で校歌を歌って、全校集会のときは野球部だけ前に出て歌ったり。全校一丸となって気分を盛り上げて甲子園をめざしていました」(安村・以下同)
野球部の練習は体力的に厳しく、息ができなくなり「おぇぇ」とえずくことも多かったという。それでも仲間とともに夢を追いかける日々は晴れやかだった。
「高校2年生の春に福岡の強豪・柳川高校で1週間ほど合宿したときは、みんなで夜な夜なしゃべったりして楽しかった。合宿帰りに春の甲子園を現地で観戦したら、ちょうど当時、横浜高校3年生だった松坂大輔さんが登板していたんです。外野席から見てもものすごく速いボールでした。
すでに松坂さんはスーパースターでしたが、あの雄姿には憧れました。まさか20年後にテレビのロケで共演して、一緒に激辛を食べることになるとは思いませんでした。収録が終わって少し野球の話をして、ぼくも甲子園に出場しましたって言ったら、“そうだよな、聞いてるよ”って。めちゃくちゃうれしかったです」
戦後80年の歴史のなかで、夏の甲子園が唯一中止になったのは2020年。新型コロナウイルスの感染拡大を受けての苦渋の決断だった。当時、城西大学附属城西高校野球部(東京都)の3年生だった大武優斗さん(23才)にとって、甲子園はいまなお特別な場所であり続ける。