アントニオ猪木と出会いハルク・ホーガンの人生は大きく変わった
世界的知名度を誇るプロレスラー“超人”ハルク・ホーガンが7月24日、心臓発作で亡くなった(享年71)。「イチバァーン」の掛け声で日本でも人気を博したホーガンだが、その実力を満天下に知らしめたのが、1983年のアントニオ猪木との死闘だった。今も語り継がれる「舌出し失神KO」から42年。『力道山未亡人』の著者でプロレス・格闘界に精通するノンフィクション作家の細田昌志氏が「知られざる真実」をレポートする。【前後編の前編】
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「アントニオ猪木の後継者は誰か」という議論があったとすると、まず、藤波辰爾、長州力、前田日明といった往年の愛弟子の名が挙がる。
あるいは、初代タイガーマスクの佐山聡、“関節技の鬼”藤原喜明、「出て来いやぁ」の高田延彦、“スペースローンウルフ”の武藤敬司、“猪木イズム最後の継承者”と呼ばれた藤田和之の姿を思い浮かべる人もいるかもしれない。
往年の猪木信者である筆者から見て、いずれもプロレスラーとして魅力があり、一時代を築き、後継者としての資格を有していることは大いに認めるが、どうもしっくりこない。「アントニオ猪木の人気、実力、カリスマに匹敵する存在など、どこにもいない」と固く信じているからだ。
それでも、強いて該当する人物をあげるなら、上記とは異なる別のレスラーが脳裏をよぎる。
彼も猪木の“弟子”と言っても差し支えなく、それどころか、猪木から受け継いだスタイルで、世界を股にかけた唯一の存在となる。“超人”と呼ばれ人気を博したハルク・ホーガンである。
1953年、ジョージア州オーガスタ出身。本名・テリー・ユージーン・ボレア。生まれながらに身体が大きく、高校時代からボディビルに励んでいたが、もとはロックバンドのベーシストとして、人気ミュージシャンを夢見ていた異色の経歴の持ち主である。
ある日、テレビのプロレス中継で、怪力プロレスラー“スーパースター”ビリー・グラハムを見たことが、ベーシストの運命を変えた。派手なコスチューム、ビルドアップされた美しい筋肉に魅せられ、バンド解散のタイミングも重なって「ミュージシャンはやめて、これからはプロレスラーになろう」と決意する。
そこで、真っ先に相談したのが、当時、フロリダでプロレス修行中だったデビュー直前の長州力だったのは知る人ぞ知る話である。
「俺もプロレスラーになってみたいんだけど」
そう言って、安アパートを訪ねてきた無名のミュージシャンに、五輪代表の実績を持つ長州は、親切にアマチュアレスリングを手ほどきする。
さらに、フロリダ州タンパ在住の日本人プロレスラー、ヒロ・マツダの主宰するレスリングスクールの門を叩き、本格的にトレーニングを開始。練習中に脚の骨を折る災難に見舞われながら、厳しい練習に耐え抜き、1977年、覆面レスラー「スーパー・デストロイヤー」として念願のデビューをはたした。
ともあれ、長州力にしろ、ヒロ・マツダにしろ、日本人レスラーとの関わりからホーガンのプロレス人生が始まっているのは、その後の顛末を予期しているようで何とも興味深い。