人気を生んだ「三つの変化」
その後は覆面を脱ぎ「テリー・ホールダー」「スターリング・ゴールデン」などとリングネームを変えながらキャリアを重ねた若者は、1979年から「ハルク・ホーガン」を名乗るようになる。
当初はヒール(悪役)として、往年の噛みつき魔、フレッド・ブラッシーをマネージャーに従え、“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアント、WWF王者・ボブ・バックランドなどの人気者と繰り返し戦う機会を得たことで、知名度も上昇する。とはいえ、この時点では一介の若手レスラーにすぎなかった。
初来日は1980年の新日本プロレス。ここでアントニオ猪木と出会ったことがホーガンにとって最大の転機となった。「こいつは使える」と若者に素質を感じた猪木は、幾度となくチャンスを与えたのだ。
初来日にもかかわらず、猪木自身が保持するNWF王座に挑戦させたのを皮切りに、不動の外国人エース、スタン・ハンセンのタッグパートナーに指名、年末のビッグイベント「MSGタッグリーグ戦」にエントリーさせてもいる。異例のチャンスを得たことで、ホーガンも期待以上の働きを見せ、来日の機会も増加、着実にスターの階段を上っていった。
そうでなくても、翌1982年は、ホーガンにとって三つの変化が起きた年となる。
まず、タッグパートナーだったスタン・ハンセンが競争団体である全日本プロレスに移籍したため、アンドレ・ザ・ジャイアントに次ぐ、新日本プロレス外国人レスラーNo.2のポジションが転がり込んできたこと。
二つめは、映画『ロッキー3』に、シルベスター・スタローン演じるロッキー・バルボアと戦う悪役プロレスラー、サンダー・リップス役で出演したこと。それによって、プロレスファン以外の、一般的な知名度が急上昇したこと。
三つめは、アントニオ猪木の長期欠場にともない、助っ人として日本陣営に加わったこと。藤波辰爾をはじめとする日本人選手とタッグを組むと人気が爆発。各会場は超満員となった。
当初は「猪木が出ないのなら興行は買わない」と背を向けていた地方のプロモーターが、掌を返すように「ホーガンが出るならウチが興行を買う」と、新日本プロレスに問い合わせが殺到。サイン会も頻繁に催されるなど、ホーガン人気は営業的にも、猪木欠場の穴を十分に埋めたのである。ここから、本格的に猪木とホーガンの「師弟関係」が始まった。
(後編に続く)
【プロフィール】
細田昌志(ほそだ・まさし)/1971年、岡山市生まれ。鳥取市育ち。『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)で第43回講談社 本田靖春ノンフィクション賞、『力道山未亡人』(小学館)で第30回小学館ノンフィクション大賞を受賞。近著は『格闘技が紅白に勝った日~2003年大晦日興行戦争の記録~』(講談社)。現在『司葉子とその時代~妻と女優を生きた人』(日本海新聞)を連載中。
※週刊ポスト2025年8月29日・9月5日号