高知商の恩師・正木陽氏とは今でも連絡を取り合うという(時事通信フォト)
就任1年目ながらチームを驚異の独走劇へと導き、9月7日にNPB史上最速優勝を果たした阪神・藤川球児監督。開幕前は「コーチ未経験」のまま指揮官となったことを不安視する声もあったが、フタを開けてみれば“いきなり名将”とも言うべき盤石の戦いぶりだった。その勝負強さは、いかにして育まれたのか──。その原点を辿った。【前後編の後編。前編から読む】
藤川家は幼少期に両親が離婚。1年先に高知商に入った兄と球児を母親が女手ひとつで育てた。藤川監督が在籍した当時の高知商監督で、今も連絡を取り合う恩師、正木陽氏が、当時を振り返る。
「経済的に恵まれず食生活が十分でなかったから基本的な生活習慣を育むために、自宅は近かったが兄弟を入寮させました。また当時、球児は右肘に遊離軟骨もあったため、休み休みさせながら丈夫な体作りに取り組ませた。私としては、彼には高校より上で伸びてもらいたい気持ちから休ませていました」(正木氏)
高知商2年の夏に控え投手として甲子園に出場したが、最後の夏は高知県大会準決勝で敗れた。
敗退後、寮で正木氏が選手たちに「よく頑張った。負けたのは監督の責任だ」と言葉をかけて監督室に戻ると、ドアをノックされた。
「球児が部屋に入ってきて、『すみませんでした』と頭を下げ、『監督、やめないでください』と言うんです。あの場面は印象に残っていますね。球児はクールに映るけど、繊細で優しい子なんです。リーダーになってもその部分は変わらないと思う。そんな優しさがあの子の底流に流れているから、選手がついてくるのだと思います」(正木氏)