中央線文化祭ポスターのモデルになった女性はルミネと江口氏の対応に感謝していた(金井球Xより)
〈制作過程について現在確認作業を進めております。〉(デニーズ)
〈現在、当社におきまして事実関係の確認および精査を進めております。〉(セゾンカード)
〈現在、事実関係を精査しております。確認が取れ次第、改めてご報告いたします。〉(Zoff)
疑惑はともかく構図もほぼ同じトレースであろうイラスト、江口氏のタッチになっていても、実際のモデルとなった女性からの許可もなかった。「あの江口寿史が」ということで、驚きとともにネット上では激しい非難と追及がいまも行われている。
先のベテラン漫画編集者はこう続ける。
「トレースだってことは周知の事実だったでしょう。トレース自体、私は条件付きだけど技法として、パーツとして(※後述)問題ないと思っている。人物の承諾を得た江口さんの所有する写真だったならまあ、江口さんのタッチになるわけで、理想だけどすべてがフリーハンドである必要はない。でも、一枚まんまとなるとねえ」
彼の言いたいことはわかる。自分が撮った写真や許可を得た(被写体含む)写真なら一部のコミックでは当たり前に背景や小道具などを中心にトレースはコミックという総合作品の「パーツ」として使われる手法である。とくに劇画に顕著だろうか、コミックでは作品全体としてそれが主題ではないからだ。あくまで手段としてのパーツである。決してトレースそのものがすべて悪いわけではない。
「でもまあ、それでもトレースかどうかはわかるよ。わからない編集者もいるだろうけど、長くやってるとまあ、わかると思う。ベテランでもわからないふりをする編集はいるかもしれないけどね、とくに大御所相手だとそうだ。これは別に江口さんのことではないが、それはある、という話だ」
トレースといえば一部の現代美術でもそうか。美術専門書など普通に解説されている話で、アンディ・ウォーホールやノーマン・ロックウェルなどはトレースによる芸術作品を生み出している。少し古くなるとアール・ヌーヴォーに活躍したアルフォンス・ミュシャだろうか。
しかし、なぞれば誰もがミュシャのように描けるとはならないし、件の江口氏もまたそうだろう。決して擁護でなく、トレースという技法そのものは作家によっては表現手段となり得る。