山本リンダ一覧

【山本リンダ】に関するニュースを集めたページです。

仮面ライダーで「マリ」を演じた山本リンダ(左から2番目/写真は本人提供)
山本リンダが仮面ライダー撮影現場を回顧「ムカデにこまっちゃうナ」
 1971年に放送が始まった『仮面ライダー』は、藤岡弘(現・弘、)の負傷により、急遽、仮面ライダー2号として一文字隼人(佐々木剛)が登場する。その2号ライダー編から、作品の雰囲気は一気に華やかになった。 それまで仮面ライダー1号を助けてきたFBI捜査官の滝和也、立花藤兵衛のほかに、血気盛んな女の子たちがショッカーとの戦いに加わったからだ。中でも、紅白出場歌手として人気を集めていた山本リンダの参加は「仮面ライダー」の世界を、よりエンターテインメントへと導いた。当時の思い出を語ってもらった。 * * * レコード会社の移籍にともない、音楽の活動が制限されていた時期に、仮面ライダーに出ませんか、とオファーが来たんです。 すぐに承諾しました。私ね、昔から好奇心が強くて、何事にも挑戦することが大切だと思っているの。子供番組だとか、そんなことは気にしないで、私にできることなのであれば、とお引き受けしたんです。それに、実は私、子供の頃、お転婆だったんです(笑)。アクションシーンもあるといわれ、逆にもう、ドキドキワクワクしていたくらい。 私が演じたのはマリという女の子でフェンシングが得意という設定。スタッフは私にアクションの経験がないから、剣でも持たせておけば、蹴ったり投げたりしなくてもそれなりに格好がつくのでは、と思ったんじゃないのかな(笑)。もちろん、撮影が始まる前に、都内のフェンシングクラブに通い、突き方など一通りの動作は習ったのよ。 海や山のロケが多かったんだけれど、とっても楽しくって。撮影の合間は、ほかの女の子たちと大騒ぎ。まるで修学旅行でした。 この2枚の写真は大阪城近くの野原でのロケ。いつものように、みんなで撮影の合間に四つ葉のクローバー探しや首飾りを作ったりして遊んでいたんですけど、いきなり大きなムカデが出てきてワーキャーって(笑)。その後、十字架に縛られるシーンを撮影したのですが、いつムカデがニョロニョロ下から這い上がってくるか怖くて怖くて。“仮面ライダー、早く私たちを助けて!”と演技を忘れて真剣に願っていましたね。 そうそう、ムカデに対する私たちの怖がり方をスタッフの方が覚えていたのか、のちにムカデラスという怪人が現われたときは、みんなで笑っちゃいました。 半年後、そんな楽しい現場を離れて、私は本格的な音楽活動を再開することになりました。 おかげさまで『どうにもとまらない』がヒットし、新聞や雑誌が“『こまっちゃうナ』の山本リンダが『どうにもとまらない』で変身した”と書いてくださったの。「変身」の言葉に仮面ライダーが背中を押してくれているような気がして、心強かったのを憶えています。【プロフィール】山本リンダ(やまもと・りんだ)/1966年『こまっちゃうナ』で歌手デビュー。その後、多くのヒット曲を歌い、日本レコード大賞特別賞など多数受賞。※週刊ポスト2021年10月8日号
2021.09.29 16:00
週刊ポスト
一連のシリーズで阿久とコンビを組んだ都倉俊一とテレビ番組に出演した(写真/女性セブン)
阿久悠さん 山本リンダ『どうにもとまらない』で「女性上位の詞を実現」
 山本リンダのヒット曲『どうにも止まらない』は、作詞家・阿久悠さんによる挑戦的な歌詞が刺激的だった。この歌詞と出会った時、山本はどう思ったのか。当時の思い出と阿久さんへの思いを山本が語る。 * * *『どうにもとまらない』がなかったら、今の私はないんです。 1966年に遠藤実先生の『こまっちゃうナ』で歌手デビュー。ミノルフォンレコードにとって起死回生の初の大ヒットになりました。でもその後はだんだんヒットが出なくなり、ヒット曲を出すことの難しさを思い知る日々が続きました。 1971年にキャニオン・レコードに移籍しましたが、キャニオンにもヒットがなく、そこでフジサンケイグループの会長さんが社運をかけてプッシュする歌手を決めようと、フジテレビのスタッフを集められて、所属の歌手の中から多数決で私を選んでくださいました。 プロジェクトの始動にあたって、フジテレビのプロデューサー吉田斉さんが作詞の阿久悠先生と作曲の都倉俊一先生に、「山本リンダをバラバラにして建て直してほしい」と頼まれたそうです。その結果、歌で世界を巡ろうというのがコンセプトになり、1972年の『どうにもとまらない』がブラジル、『狂わせたいの』がペルシャ、『じんじんさせて』が中国、1973年の『狙いうち』がロシア……と大ヒットが続きました。『どうにも~』の歌詞を読んだ時、「カッコイイ! 待ってた通りの歌だ! これが駄目なら私は歌手としてもう駄目だ!」との思いで必死に頑張りました。のちに阿久先生はご著書で「男尊女卑が歌の世界でも続いていた。だから女性上位の詞を書きたくて、山本リンダでそれを実現させた」というようなことを書かれていました。このような大役に選んでくださったことに感謝の思いでいっぱいです。 阿久先生と都倉先生による一連の曲で私はイメージチェンジすることができたのです。1990年代には第3次リンダブームが起きました。お二人の作品には時代も世代も超える魅力がある。これからも歌の主人公になりきって歌い続けます。【プロフィール】山本リンダ(やまもと・りんだ)/1951年生まれ、福岡県出身。1962年にモデル活動を開始、1966年に歌手デビュー。1972年の『どうにもとまらない』からの一連の作品でリンダ旋風を巻き起こした。取材・文/濱口英樹※週刊ポスト2021年8月13日号
2021.07.31 16:00
週刊ポスト
“お色気歌姫”の系譜を振り返る
奥村チヨ、辺見マリ、山本リンダ、夏木マリ…昭和“お色気歌姫”の系譜
 日本の流行歌史には脈々とエロティックな歌と歌姫が登場してきた。冒頭の艶めかしい声日本の流行歌史には脈々とエロティックな歌と歌姫が登場してきた。冒頭の艶めかしい声が強烈だった青江三奈、強烈なビートに合わせて腰をグラインドし、子供にまで“これはただ事ではない”と思わせた山本リンダ……。『にっぽんセクシー歌謡史』(リットーミュージック、5月21日発売)は、女性のエロティシズムを打ち出した一連の歌謡曲の歴史を昭和初期からたどる大著だ。著者の馬飼野元宏氏は、セクシー歌謡史の中で、1960年代後半~1970年代初頭にデビューした4人の歌姫をエポックメイキング的な存在だと語る。「絶対に外せない歌手、それは『恋の奴隷』(1969年)を歌った奥村チヨです。戦前に始まる『エロ歌謡』、鶯芸者から派生した『和ものお色気歌謡』、1960年代以降隆盛したムード歌謡の派生形など、進化していったお色気歌謡をポップス化した功労者です」 奥村は、『11PM』が放送開始した1965年にデビュー。同年10月発売の『ごめんネ…ジロー』で大ヒットを飛ばし、次々と新曲を出す。「もともとその声に男心をそそる色気が内包されていましたが、それが花開いたのが『恋の奴隷』。小唄風の節回しを応用した独自の唱法が、歌詞が描くコケティッシュでいじらしくも粋なお色気ワールドにフィットした。指をさすポーズは、目の前にいる男をさすようにというディレクターの指示だったそうです」 この歌は大ヒットしたものの歌詞の問題でNHKの紅白歌合戦では歌えなかった。しかし翌1970年の紅白歌合戦で歌った『嘘でもいいから』こそ、最大の問題作だったと馬飼野氏は語る。「作詞は川内康範で意外にも作曲は筒美京平。色っぽい歌詞に加え、〈うっふーん〉というアドリブの声も入り、まさしくフェロモン爆発。小悪魔的という意味ではこの曲がピークです」 そして2人目のセクシー歌姫は、1969年にデビューした辺見マリだという。「彼女の出現は衝撃でした。目が大きく彫の深い美貌で、濃厚なメイクも似合う顔立ちだったからです。デビュー曲『ダニエル・モナムール』は、フレンチ・ポップス調のメロディにエロティックな歌詞が乗る。歌の合間に挿入されるフランス語の語りが、吐息まじりの喘ぐような声で、聴いているだけでエロティックな気分にさせる。2曲目の『経験』が大ヒット、歌詞の〈やめて!〉は流行語になった。『お色気歌謡』をビジュアル面も含めた『セクシー歌謡』へと進化させました」 同じくビジュアル面でセクシー大旋風を起こしたのが、山本リンダだ。1966年のデビュー曲『こまっちゃうナ』を超えるヒットがないままだったが、移籍したポニーキャニオンから1972年にリリースした『どうにもとまらない』で大変身を遂げる。「『アラビアン・ナイト』のコンセプトのもと、都倉俊一が作曲し、ロックのビートをベースに、サンバを意識してパーカッションを多用。阿久悠の詞が、性愛の局面で主導権を握る女性を生み出しました。へそ出しルックはリンダ自身の提案だったそうです。 変身第2弾の『狂わせたいの』では背中がパックリ空いた真っ赤なジャンプスーツで背中を見せながらうねうねと踊り狂いました。73年の『狙いうち』は歌詞もエスカレートして、〈かしずく男を見ていたい〉だの、女性の自己肯定感がとんでもない高みにたどり着く。セクシー歌謡の王者・リンダの女王様宣言でした」 阿久悠は、もう一人の歌手もセクシーに変身させた。1971年に中島淳子としてデビューしたが売れず、芸名を変えての再デビュー曲『絹の靴下』(1973年)がヒットした夏木マリだ。「設定は、上流階級の男性に買い上げられた愛人女性のイメージです。退屈すぎる毎日に、この女性が持つ野性が目覚めてゆき、野獣のように抱いてほしいと要求する。阿久悠が夏木マリに与えたのは、ソフィア・ローレンに代表されるセックス・アピールの強いイタリア系グラマー女優のイメージでした」 夏木はこの曲で、手を前に突き出して指を折るフィンガー・アクションで男を誘った。金井克子『他人の関係』や安西マリア『涙の太陽』など、同時期に現われたセクシー系女性シンガーに共通するキービジュアルだった。「お色気をテーマにした歌は“景気のいい時にしか流行らない”んです。朝鮮戦争特需の時にはお座敷歌謡が大流行、50年代後半の岩戸景気の頃にはムード歌謡が隆盛し、オリンピックの年には『お座敷小唄』が大ヒット。60年代後半のいざなぎ景気の際には園まり、奥村チヨが大ブレイクしました。それは80年代以降も同じです。お色気は男性社会が経済を回していた時代の産物だともいえます」【プロフィール】馬飼野元宏(まかいの・もとひろ)/音楽ライター、編集者。『昭和歌謡ポップスアルバムガイド』『HOTWAX歌謡曲名曲名盤ガイド』(ともにシンコーミュージック)など編著・共著多数。『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』『ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代』(ともにリットーミュージック)では構成を手掛けた。新著『にっぽんセクシー歌謡史』(リットーミュージック)は5月21日発売。※週刊ポスト2021年5月28日号
2021.05.19 16:00
週刊ポスト
紅白歌合戦、平成元年の「第40回」で終了するはずだった
紅白歌合戦、平成元年の「第40回」で終了するはずだった
 NHK紅白歌合戦は2019年大晦日で放送70回の節目を迎える。その歴史に埋もれた知られざる意外なウラ話を、最新刊『紅白歌合戦ウラ話』が話題の合田道人(ごうだみちと)氏に聞いた。■突然、「出演キャンセル」になった歌手がいる? 松島詩子が当日交通事故に遭い、代役として正月パーティで仲間とお酒を飲んでいた越路吹雪が宝塚の袴姿で出場(第2回・1月3日開催)。雪村いづみが流感と胃痙攣を併発して急遽欠場、対戦は不戦勝に。江利チエミが“親友のぶんも頑張ります”と真紅のバラを胸に2つ着けて登場した(第7回)。■「髪型」が原因で落選した歌手がいる?「男なのに髪が長くてNHK的ではない」とザ・タイガースとザ・スパイダースが落選し、七三分けのブルー・コメッツは当選(第18回)。「『真っ赤な太陽』でブルコメと組んだ美空ひばりが“ウチのブルコメはちゃんとした髪だから”なんて発言も。表向きは髪型が理由でしたが、人気絶頂のタイガースのファンの熱烈な応援が問題視された向きもあるようです」(合田氏)■常連だったのに紅白を初めて「辞退」したのは誰? 江利チエミ(第21回)。第4回に初出場以来、紅白の常連だったが、NHK会長の“そろそろ飽きたね”のひとことで第20回に落選したとされ、翌年にオファーを受けるも辞退。「その頃はお昼の12時にNHKからレコード会社に連絡が入り、午後3時に発表する形式で、江利チエミの出場は新聞にも載ったんです。でもその後に本人の意向で辞退が伝えられました」(合田氏)■紅白は平成元年の第40回で「終了」するはずだった?「天皇陛下崩御と“完成されていてこれ以上の番組は作れない”などの理由から、平成元年(第40回)を区切りに紅白も終了する予定だったんです。この年は第1部を『昭和の紅白』としてザ・タイガース、ピンク・レディーなど往年のスターが揃い、出場回数も『過去○回』という表現に。第2部は『平成の紅白』として例年通りの対戦が行なわれました。 ちなみに2部制になったのはこの時から。最終回のはずでしたが、続けてほしいという声が多く、終了の予定を撤回し、現在まで続いています」(合田氏)■紅白にも甲子園のような“21世紀枠”が存在した! 第41回は「21世紀に伝える日本の歌」をコンセプトに尾崎紀世彦や大津美子などベテラン勢がカムバック。植木等は『スーダラ節』を紅白初披露して瞬間最高視聴率56.6%を記録した。“21世紀枠”は2000年になるまで設けられ、第42回は南沙織や山本リンダなどが続々と復帰。再ブレイクしていた美川憲一も『さそり座の女』で登場した。※週刊ポスト2019年12月20・27日号
2019.12.11 07:00
週刊ポスト
『屋根裏の恋人』 衝撃展開続くがドロドロ感なく新感覚との評
『屋根裏の恋人』 衝撃展開続くがドロドロ感なく新感覚との評
 今クールのドラマで、異色の不倫作品として注目を集めているのが『屋根裏の恋人』(フジテレビ系)だ。このドラマの見所について、コラムニストのペリー荻野さんが解説する。 * * * そんなわけで、今シーズンは、新感覚の不倫ドラマともいえる『あなたのことはそれほど』(TBS系)が話題だったが、今、別の意味でもうひとつの新感覚不倫ドラマ『屋根裏の恋人』がとんでもない展開になっている。  主人公は、鎌倉の大きな洋館で、夫・誠(勝村正信)と高校生の娘・帆花(大友花恋)、中学生の息子・勇人(高橋楓翔)と幸せに暮らす主婦・西條衣香(石田ひかり)。ある日突然、衣香の目の前に、元恋人・瀬野樹(今井翼)が現れ、あろうことか衣香の家の屋根裏に棲みついてしまう。 どうやら、樹は変死した男の事件に関わっていて、警察に追われているらしい。天井の通気口から、西條家のすべてを覗き見る樹。屋根裏の散歩者か!と思うが、樹は大胆にも家族の留守に台所に降りてきたり、玄関から堂々と出入りしたり、屋根裏でバイオリンを奏でたりする。不信感を持ちながらも衣香は彼に惹かれ、ついに屋根裏で不倫関係になってしまう…。 これだけでも十分、大変なのに衣香を取り巻く人間関係は、もっと大変。中でも強烈なのが、衣香の家の離れでベリーダンスの教室を開いている姑の千鶴子(高畑淳子)だ。千鶴子は「顔とおっぱいは女の命!」などと言い放ち、誠の帰りが遅いのは、家庭が楽しくないからだなどと衣香にチクチクと嫌味をぶつける。実は千鶴子は血のつながらない義理の息子誠を男として愛しているのだ。  スキがあれば、誠の手を握り、妄想の中で、好き!とばかりに唇突き出して、幻の誠に突進する千鶴子。普段からベリーダンスのセクシー衣装をひらひらさせながら、ステップを踏んで現れる。裾が広がったぴったりしたパンツで髪をなびかせて激しく踊る姿は、懐かしい誰かに似ていると思ったら、ウララ~と歌った山本リンダだった。まさに、どうにも止まらない勢い。高畑淳子は、こうでなくっちゃ。 先日はなんと、衣香の親友の杏子(三浦理恵子)が、誠と八年越しの不倫相手であると発覚。千鶴子は門のすき間から、その事実をつかむと、ホームパーティーを開いて、衣香一家と杏子と二股愛の若い恋人のカップル、おまけに樹まで招待するのだった。これはいったい、何角関係なんでしょうか? 不穏な空気がムンムンするパーティーで、全員が作り笑いをしながら、杏子が「コミットできないなら、離婚したほうがいい」と言えば、千鶴子は「二番目に好きな人と結婚したほうがいいんですってよ」などと語り合う。一方、衣香は、樹への思いを募らせ、自分が思ったことを家族に言えるようになったのは「屋根裏から見守ってくれるから」などと樹に感謝。すると樹も「屋根裏のストーカーも捨てたもんじゃない」…って、屋根裏に男がいることがなんだかいい話みたいになってるよ! 数々の昼ドラマで知られる東海テレビ制作で、複雑なわりに意外にドロドロ感がないのも、新感覚といえるかも。千鶴子の激烈ステップが、次は何を蹴散らすのか。彼らが放つ名言とともに目が離せない展開が続く。
2017.07.05 07:00
NEWSポストセブン
芸能界で活躍するハーフ美女 その歴史とお宝写真
芸能界で活躍するハーフ美女 その歴史とお宝写真
 日本におけるハーフタレントの活躍は、今から約50年前、1960年代後半から始まった。テレビ放送のカラー化が本格的になり、より華やかなビジュアルのタレントが求められた。広告の世界では前田美波里のような、恵まれた容姿を持つハーフのモデルが重用されていたが、いよいよテレビの世界にも本格進出する。 もうひとつ背景として見逃せないのは、「戦争の爪痕」という部分だ。戦後に日本の各地に駐留した米兵と日本女性との間に生まれた子供が、この時代に花を咲かせる年齢となった。1974年にアイドル歌手としてデビューしたシェリーは、そんな境遇に育っている。「父親は軍人で、羽田の米軍基地に滞在していた時に母と知り合ったようです。父は兵役を終えると帰国し、その後に母は私を産みました。再び父は母のもとに戻ってきたけど、その頃には母は私を連れて日本人と再婚していました」 山本リンダもまた、ハーフであるがゆえにいじめられた経験を明かしている。芸能界とは、つらい過去と決別するための舞台でもあったのだ。 1970年代にハーフタレントは全盛期を迎える。日本航空の国際線でCAをしていたが、あまりのプロポーションの良さからモデルにスカウトされたのがジャネット八田(現・八田有加)だ。1973年に『11PM』でタレントデビューし、1981年西武ライオンズの田淵幸一と結婚した。この時代に伝説のスカウトマンがいた。小山ルミ、カルメン・マキ、ゴールデン・ハーフ、安西マリアらを次々とスターダムに押し上げた芸能プロデューサーの上条英男氏である。「スカウトするたびに女の子たちには『東大を卒業したって初任給は6万かそこら。それがスターになったら何十倍も稼げるんだよ』と言って聞かせました。その言葉が彼女たちには何よりも響いたんです」 上条氏にとって特に思い入れが強かったのが小山ルミだ。まだ中学生の時から目をかけ、卒業と同時にデビューさせると、歌やドラマ、映画と大活躍する。ただ、奔放な恋に走って仕事に身が入らなくなった時があった。上条氏は、およそ信じられない抗議活動に出た。「ルミが男と2人でいるところに出向き、私はハサミで自分の胸を刺しました。その男に『お前は俺と同じような気持ちでルミの面倒を見られるか!』って。そのあと、出血がひどくて病院に担ぎ込まれ、医者から『あと3センチずれていたら死んでいた』って大目玉を食らいましたね」 この一件で小山ルミは改心し、本腰を入れて芸能活動に向き合ったそうだ。上条氏は自身のスカウト歴の中で、意外な失敗談も明かす。「アン・ルイスもスカウトしていて、本当は彼女をゴールデン・ハーフの一員にしたかった。ところが、作詞家のなかにし礼さんが彼女を育てたいという。それでアンはあきらめたんだ」 ゴールデン・ハーフの功績は、ハーフという呼び名を定着させただけでなく、バラエティ番組に真剣に取り組んだ「元祖バラドル」であることだ。ザ・ドリフターズや堺正章の番組で、体当たりのギャグに挑んだ。その流れを汲んで、マギー・ミネンコの「乳揉めー!」やシェリーの「ケツ見ろ!」といった「体を張ったギャグ」が生まれ、バラエティ番組でハーフタレントが引っ張りだこという現在の風潮にもつながっていく。 もう1人、70年代のバラエティシーンに欠かせなかったのがホーン・ユキだ。プロポーションに恵まれ、「ボインちゃん」の愛称で親しまれた。本人が当時を振り返る。「私は見た目はハーフでも中身は日本人で、特に差別はなかったですね。ザ・シュークリームというグループにいましたが、私だけグラマーな体つきをしていたのは、アメリカ人の血をひいた恩恵だったのかもしれません」 1980年代に入ると、バブル景気を間近に控え企業はキャンペーンガールを広告塔として起用し始めた。すると、ヒロコ・グレースやフローレンス芳賀といったハーフの逸材が続々と名を連ねるようになった。 そして1990年代以降、ハーフは女子アナ&キャスターの世界にも進出し、欠かせない存在となった。滝川クリステル、葉山エレーヌ、加藤シルビアなど、各局でハーフの局アナが人気となり、この4月からタレントのホラン千秋がTBS系ニュース番組『Nスタ』のキャスターに就任する活躍ぶりだ。 こうして半世紀の歴史を眺めると、日本の芸能界において、ハーフタレントの存在は実に重要なスパイスとなってきた。かつては、根強い差別からその出自を隠すことも多かったが、現在はハーフであることを個性として前向きにとらえられるようになった。日本社会のそうした変化も、先人たちの功績があればこそだろう。※週刊ポスト2017年4月14日号
2017.04.07 16:00
週刊ポスト
幸福の科学、創価学会、統一教会 芸能人信者の扱いなぜ違う
幸福の科学、創価学会、統一教会 芸能人信者の扱いなぜ違う
 女優・清水富美加(22)の幸福の科学への「出家騒動」は、芸能関係者を震撼させた。収録済みだった映画やドラマの配給会社、契約中のCMスポンサー、広告代理店などの関係者は対応に奔走。こうした芸能人の信仰を巡っては、過去にも数々の騒動が起きてきた一方で、なぜか信仰を守りながら芸能活動を続けられるタレントもいる。一体、“この世界”には、宗教を巡るどんな「掟」があるのか──。〈これだけ騒ぎになった以上、きちっとみんなの前で話をしなくてはならない。(中略)事務所は、テレビ局、雑誌社、様々なところからの問い合わせで混乱をきたしていた。古くからお世話になっている芸能マネージャーからも、私を心配する連絡が入っているという。「記者会見だけはするな。信仰は本人の自由なんだから、する必要がない。もし、記者会見をすれば、芸能界で生きられなくなる」という話だった〉──その胸中をこう綴ったのは、25年前の1992年、統一教会(世界基督教統一神霊教会、2015年から「世界平和統一家庭連合」に改称)の創始者・文鮮明氏が司式する「合同結婚式」に参加した元新体操選手の山崎浩子(57)だ(『愛が偽りに終わるとき』、1994年刊)。 1984年のロス五輪8位入賞という成績を残し、新体操ブームの火付け役となった山崎だったが、入信を報じられると〈講演や仕事の数も極端に減っていった〉(前掲書より)といい、日に日に経済的な苦しさが増していったとも書き残している。 家族の説得もあり、山崎は翌年に脱会。後にフェアリージャパンの強化本部長を務めるなど新体操界に復帰を果たしている。 かくも芸能界の「宗教」への反応は過敏だ。山崎が脱会によって表舞台に復帰したのと対照的なのが、1970年代にトップアイドルとして人気を集めた元女優・歌手の桜田淳子(58)だ。 山崎と同じ1992年の合同結婚式に参加した後、翌年公開の映画『お引越し』を最後に芸能活動を休止していた。4月には東京・銀座の映画音楽イベントのステージで“一夜限りの復活”があると報じられているが、スポットライトの当たる場所からは長く姿を消していた。 山崎や桜田の結婚式がメディアの注目を浴びたのは、当時の統一教会がすでに献金の返還や脱会を巡って元信者との間に訴訟を抱えており、社会問題化していたという背景がある。 一方で、「芸能人」でなければ、“入信によってたちまち仕事を失う”という事態になったとは考えにくい。 これは「イメージ」を商売道具にするタレントならではの特殊な事情だ。幸福の科学への出家騒動で連日メディアを騒がせる女優・清水富美加にしても、「事務所と契約を巡って揉めてしまったこともあるが、それに加えて特定の宗教団体のイメージが定着してしまった彼女を今後、映像作品やCMに起用するところが出てくるとは思えない」(キー局関係者)とみられている。◆清水富美加と異なる扱いをされる創価学会信者芸能人 その一方で、新宗教への熱心な信仰心を持ちながら芸能活動を続けているタレントも少なくない。 2009年1月9日付の創価学会機関紙『聖教新聞』には、興味深い写真が掲載されている。歌手の山本リンダ(65)、女優の岸本加世子(56)、WAHAHA本舗の久本雅美(58)、柴田理恵(58)、ミュージシャンの高橋ジョージ(58)らが東京・八王子市の東京牧口記念会館で勢揃いしている写真が特大サイズで掲載された。創価学会の芸術部歌「使命の舞」を斉唱する様子を写した写真もある。 同じく聖教新聞社発行の小冊子『SOKA2011』にはお笑いコンビのナイツ(塙宣之=38、土屋伸之=38)が登場し、〈なるほど創価学会 ナイツのヤホーで調べました!!〉という教義入門の文章を掲載している。得意のギャグを交えながら、〈(創価学会の教義は)自分らしく輝くための教えなんだ〉などと解説役を務めている(各タレントが信者かについて創価学会広報室は「プライバシーの問題なので回答は控える」とした)。 名前を挙げたタレントの多くが今もテレビ等で活躍しているのは周知の通りだ。この違いはどこにあるのか。宗教学者の島田裕巳氏が解説する。「創価学会芸術部に所属する信者のタレントは、公共の電波や公共の場では宗教的な告白や教団の宣伝をしません。自分から声を大にしていわなければ、視聴者は宗教色を感じることもなく、起用する側のメディアの方もそこまで神経質になる必要がないのです」 教団機関紙などに登場する限りなら、信者以外の目にはほとんど触れないから問題ないということだが、逆にいえば、自ら信者であることを世間にことさらアピールすれば、芸能界に身を置くことが難しくなるという指摘でもある。 テリー伊藤が、2月14日に放送された『白熱ライブ ビビット』(TBS系)で「実は今、芸能界でも幸福の科学に入っている方はいます。普通に番組に出ている人がたくさんいます。彼らは普通に穏やかです」と語ったが、この発言もまた不特定多数に向けて公にしなければ業界から排除する力も働かないという意味なのだろう。 奇しくも冒頭の山崎の著書にあった、〈記者会見をすれば、芸能界で生きられなくなる〉という言葉は、一面の真実を示していたことになる。※週刊ポスト2017年3月3日号
2017.02.20 16:00
週刊ポスト
動員150万人、昭和スター総出演コンサートを黒沢年雄が語る
動員150万人、昭和スター総出演コンサートを黒沢年雄が語る
 観客動員数150万人突破の人気イベント「夢コンサート」。年間140回以上行われるステージには、昭和のスターが次々に登場し、まさに“中高年のフェス”といった感じだ。その魅力を出演者である黒沢年雄さんに語ってもらいました!【夢コンサートとは…】 1960年代~1970年代のヒット曲…だれもが口ずさめる曲をずらりと並べた、昭和の香りがたっぷりのコンサート。次から次へと登場するスターが、聴く人を若かったあの頃に引き戻してくれる楽しい空間だ。客層は50代以上の主婦層が多い。 平日の午後3時──。会場に足を踏み入れると、たった今、昼の部のフィナーレでお客さんに来場の謝意を伝えたばかりの歌い手たちが、小走りにロビーに駆け込んできた。 50代のおしゃれな女性。仲の良いグループだろうか、60代と思しき5人組の女性。70代のご夫婦…熱気で顔を上気させた人たちが、お気に入りの歌い手たちが迎えるブースに三重、四重の輪を作り、CD、オリジナルグッズに手を伸ばす。その光景は、AKB48やジャニーズのコンサートの会場と少しも変わらない。「夢コンサートに来るとね、みんな若返って、青春時代に戻っちゃう。苦しいことも、悲しいことも、全部忘れて、みんな笑顔で帰ってくれるんだよね」 ありがとう、またね。ひとりひとりと握手をしながら、黒沢年雄が嬉しそうにつぶやいた。「もともとはぼくの友人が、同窓会コンサートを立ち上げたのがスタートで。尾藤イサオさん、あべ静江さん、山本リンダさん、黛ジュンさん…とかとね。それが、夢グループ(註:夢コンサートの主催者)と一緒になったことで一気に大きくなって、全国をまわれるようになったんだよね」 蒔いた種が次々と芽を出し、花を咲かせた。「小林旭さんを中心にした、夢コンサート。1960年~1970年代のヒット曲を集めた、同窓会コンサート。昭和歌謡の黄金期を築いた、夢をいつまでも。小林幸子さんのコンサート…いくつあるのかわかんないくらいですよ(苦笑)」 指を折りながら教えてくれた黒沢が、途中で教えるのをやめてしまうほど、企画も、コンサートも増えている。──その理由は?「みんな弾けたいんですよ。自分の年を忘れたいし、もっと、もっと笑いたい。おもいっきり若返って、青春時代に燃えた歌を一緒に歌いたいんですよ。真面目な歌ばかりじゃなくて、たまにはぼくの、『時には娼婦のように』とかね、エロスを感じるような歌も聴きたいんだよ」 日本全国をまわり、年間140本を超えるステージに立つ黒沢はその熱を肌で感じている。「おかげでぼくも元気になっちゃった。がんの手術を8回もして、おれの人生もここまでかな…と思ったこともあったけど、今は絶好調(笑い)。青春、真っ盛りですよ」 思えば、昭和の時代には、だれもが口ずさめるヒット曲がたくさんあった。「大人から子供までね。でも今、そういう曲ってないでしょう!? だからこそ、夢コンサートなんですよ」 比叡山延暦寺で逆永代供養を済ませ、すでに戒名(英勝院智俊慈道居士)を持っている黒沢の願いは、「だれにも迷惑をかけずに、ひとり静かに去っていくこと」。しかし、夢コンサートがあるかぎり、その願いは、まだまだ叶いそうにない。撮影■平野哲郎※女性セブン2017年1月5・12日号
2016.12.24 16:00
女性セブン
宮沢りえ『Santa Fe』発売時 出版元に1分間1000回の電話
宮沢りえ『Santa Fe』発売時 出版元に1分間1000回の電話
 衝撃の全面広告だった。今から25年前の1991年10月13日、読売新聞に人気絶頂のアイドルのヌードが掲載された。宮沢りえの写真集『Santa Fe』の突然の発売告知である。 その日、出版元の朝日出版社には、問い合わせの電話が1分間に1000回鳴ることもあり、計30万本にも上った。撮影した篠山紀信氏は、当時こう語っている。「(それまでのヌードは)陰の部分、後ろ暗いものがあった。でも宮沢りえさんのヌードには全くない。つまり、『あっけらかんのすっぽんぽん』なのです」 売れなくなったから脱ぐ──。1980年代までヌードには「陰」の印象が強かった。その流れを変えたのが、宮沢と樋口可南子だった。『Santa Fe』が発売される10か月前、NHK大河ドラマ『太平記』に出演中の樋口は写真集『water fruit』でヘアを露出。警視庁は「再度発行すれば、摘発の対象となる」と口頭で警告を発したものの、回収には至らなかった。 当時の出版社を取り巻く空気感を、過去に200冊以上の写真集を制作した編集者が振り返る。「樋口の一件で、ヘアを載せても大丈夫そうだと感じました。そして、お咎めのなかった宮沢の例で、ヘアは問題ないと各社が確信しましたね」 最終的に樋口55万部(推定。以下同)、宮沢は155万部の大ヒット。社会現象になった。「1991年の書籍売上高は9.1%も上昇し、1990年以降で最も高い伸び幅です。単価の高い2人の写真集が売れたことが大きな要因です」(植田康夫・上智大学名誉教授) かくして、ヘアヌード写真集のバブル時代が到来する。1992年には島田陽子が55万部、1993年には石田えりが25万部、山本リンダが16万部、辺見マリが15万部を記録。熟女のヘアに世間は狂喜乱舞した。石田の写真集は、世界的巨匠であるヘルムート・ニュートンが撮影。制作には惜しげもなく資金が投じられた。「今と比べると、予算は5倍以上。初版5万部なら、制作費1000万円以上のこともよくあった。なかには、アタッシェケースに詰め込んだ現金1000万円を見せて、ヌードにならないかと女優やモデルを口説きにいく出版社もあったそうです」(前出・編集者)※週刊ポスト2016年6月24日号
2016.06.17 07:00
週刊ポスト
脚線美の黎明期彩った野際陽子、南沙織、キャンディーズら
脚線美の黎明期彩った野際陽子、南沙織、キャンディーズら
 榮倉奈々が表紙を務めた『an・an』(5月4・11日号。マガジンハウス刊)の「美脚特集」が話題となった。身長170センチ・股下80センチ以上といわれる榮倉のスラリと伸びた脚が印象的だ。いまや美脚は「女性の美」を語る上で欠かせない要素となっている。かつて胴長短足といわれ、美脚とは無縁であった日本人が、いかにして美脚に目覚めたのか。日本の「脚線美」の歴史を紐解いていこう。 戦後を代表する美脚の代名詞といえば、日本人で初めてミニスカートをはいたとされる野際陽子だろう。1967年3月、留学先のパリから帰国した際にミニスカで飛行機から降りてくると、待ち構えていた報道陣は騒然となった。「ずっと日本にいたらはかなかったかもしれない」というフランス仕込みのファッションをきっかけに、女性が生脚を出す機会が増え始めた。 同年7月には山本リンダが『ミニミニデート』、木の実ナナが『ミニ・ミニ・ロック』、8月には金井克子が『ミニ・ミニ・ガール』と立て続けに美脚をジャケットに写したレコードが発売。10月にはイギリス人のスーパーモデル・ツイッギーが来日し、ミニスカをはき細く長い脚を見せつけたことで、日本人の美脚への憧憬を決定づけたとされる。「60年代は若者が日本の伝統文化に歯向かう風潮がありましたし、今以上に欧米への憧れが強かったため、新しいファッションであるミニスカが流行したのでしょう」(社会学者の太田省一氏) 1969年には小川ローザが『Oh! モーレツ』のフレーズとともにミニスカが吹き上がるCMで一世を風靡。映画界では大信田礼子や浜美枝といった美脚を売りにする女優が台頭した。「西野バレエ団」で鍛えた脚線美を見せていた由美かおるもその1人だ。 脚に1億円(当時)の保険をかけたといわれている朱里エイコも、時代を代表する美脚有名人。この頃、渡米して、各地のショーに出演していた朱里は、現地のマネージャーに「プリティーな部分は強調しなくちゃいけない。あなたの場合は脚だ」と助言を受ける。帰国後、美脚を強調した服装で新曲『北国行きで』を歌うと大ヒットし、NHK紅白歌合戦へ初出場を果たした。 ミニスカがファッションとして定着した1970年代になると、アイドルが自然と生脚を露わにするようになる。沖縄から彗星のように現われた南沙織や、初代ユニチカマスコットガールの風吹ジュン、『十七の夏』『夏にご用心』でホットパンツをはいた桜田淳子。岡田奈々も水着姿で若さ弾ける脚を見せた。キャンディーズも、曲中で太ももを見せる機会が多かった。「70年代は、今のように細くて長い脚を見せつけるというのではなく、アイドルが健康的な脚を恥ずかしげに見せる時代でしたね」(芸能評論家の宝泉薫氏) この頃、ハワイ出身のアグネス・ラムが来日。完璧なプロポーションは大旋風を巻き起こした。日本人離れした美脚を持つ浅野ゆう子は「ジャンプするカモシカ」というキャッチコピーを引っ提げてデビュー。脚線美を保つために母親が正座をさせなかったエピソードも話題となった。1979年、27歳と色気の出てくる時期に、松坂慶子はドラマ『水中花』でバニーガール姿を披露し、世の男を魅了した。 そして社会現象となったピンク・レディーの登場である。デビュー曲『ペッパー警部』で生脚を強調したダンスが注目された。当初は男性ファンを取り込もうとしたものだったが、子供がマネをし始める思わぬ波及効果を生んだ。「結果的に、70年代生まれの子供にとって太ももを露出するハードルが下がりました。そして彼女たちが大人になる80年代後半から90年代前半にバブル景気が起こり、ボディコンファッションが流行。女性が体のラインで自己主張をする時代になりました」(宝泉氏)※週刊ポスト2016年5月27日号
2016.05.20 07:00
週刊ポスト
昭和の「お色気歌謡」が再人気 活力や希望取り戻す応援歌に
昭和の「お色気歌謡」が再人気 活力や希望取り戻す応援歌に
 エロ、アダルトが溢れた現代に欠けているものはなにか。大人力コラムニストの石原壮一郎氏は「それは昭和のお色気だ」と喝破する。昭和のお色気歌謡の代表作がいまリバイバル人気だという。 * * * 今の日本に足りないものは何か。今の日本が必要としているものは何か。それは「お色気」です。世の中にもっとたくさんの「お色気」があふれたら、日本は、とくにオジサン世代は、活力や明日への希望を取り戻してたちまち元気になることでしょう。 たしかに、街には露出度の高い服を着た女性がたくさん歩いているし、出版物にもネットにも、過激なコンテンツがあふれています。しかし、それらは「お色気」ではありません。どこか攻撃的なセックスアピールや、単に劣情を刺激するエロではなく、「お色気」は男性のスケベ心を大らかに包み込みつつやさしくくすぐってくれます。「お色気」をきちんと評価する機運の高まりも、徐々に感じられるようになりました。公開中の映画「海街diary」では、撮影を始めるにあたって是枝裕和監督は、4姉妹の次女を演じる長澤まさみに「お色気担当でお願いします」と話していたとか。長澤はその期待に見事に応え、「お色気」のパワーと重要性を示しつつ映画は大ヒットしています。 そして「お色気」といえば、忘れてはならないのが、昭和の高度経済成長期に日本の男性たちを大いに元気づけた「お色気歌謡」の数々。奥村チヨ「恋の奴隷」、伊東ゆかり「小指の思い出」、夏木マリ「絹の靴下」、青江美奈「伊勢佐木町ブルース」、山本リンダ「どうにもとまらない」などなど、こうしてタイトルを見るだけで胸がときめきます。 今もカラオケの定番で、いわば「お色気歌謡」の代表格とも言えるのが、畑中葉子が1980年にリリースした「後から前から」。ただ過激なだけではない完成度の高い歌詞とメロディーは若いアーティストたちにも人気で、ステージで歌われることも多いとか。 7月20日の「海の日」には東京・お台場のイベントスペースで、畑中葉子がプロデュースした「後から前からTシャツ祭り」が開催されました。往年のおじさんファンから若い女性まで、たくさんの善男善女が集結。おそろいの「後から前からTシャツ」を着て、変わらぬ美しさと歌声で「後から前から」などを熱唱する畑中に、熱い声援を送りました。 畑中は2010年に芸能活動を再開。それより前の2007年に(本人も知らないうちに)発売されていたベスト盤CD「GOLDEN☆BEST」(「後から前から」や「もっと動いて」など「お色気歌謡」の名曲をたっぷり収録)は、今もロングセラーで売れ続けています。昨年は4枚組CD「後から前からBOX」をリリースし、こちらも大好評でした。 どうやら、時代は「お色気歌謡」を求めています。オジサン世代としては、その魅力を再認識し、一丸となって「お色気歌謡」を応援していくことで、広く「お色気」の素晴らしさを知らしめ、世の中も自分も元気にしてしまいましょう。 カラオケでは、似合う似合わないは気にせず、どんどん「お色気歌謡」を歌いたいところ。そんな姿を見て、いっしょに行った女性の部下や、あるいはお店のおねえさんが、大人のやさしさや気遣いを発揮して、別の「お色気歌謡」を歌ってくれたら、こんな嬉しいことはありません。いや、地道にがんばれば、「お色気」の輪はきっと広がっていきます。 仕事中でも、果敢に「お色気」の拡大作戦に努めるのが大人の気概。鼻歌は、もちろん「お色気歌謡」で。部下に指示を出したり会議で意見を言ったりするときも、「もっと後から前からアプローチしてみたらどうかな」「消費者のこうした傾向は、もうどうにもとまらないね」「事態を打開するには、とにかくもっと動いて!」 といった調子で「お色気歌謡」をからめれば、説得力や迫力が増すに違いありません。 「お色気歌謡」は、周囲に影響を及ぼすだけではなく、自分自身を変えるきっかけにもなります。妄想を激しくかき立ててくれる歌詞を噛みしめることで、女性に対する夢がふくらみ、「よっしゃ、俺もまだまだこれからだ!」という気持ちになれるはず。いざそういう状況になったときも、後も前もまんべんなく、あるいは、もっと動いたほうが望ましいなど、適切なアドバイスや心強い励ましを与えてくれます。 ああ、素晴らしき哉、昭和の「お色気歌謡」! 日本の大切な文化として、オジサン世代の応援歌として、これからも大切にしていきましょう。
2015.07.25 16:00
NEWSポストセブン
野球で強い宗教校 創価は全員信者ではなく智弁も宗教色薄い
野球で強い宗教校 創価は全員信者ではなく智弁も宗教色薄い
 連日熱戦が続いた春のセンバツ高校野球。実は甲子園の盛り上がりと切っても切れないのが「宗教」である。複数回の優勝経験を持つ天理、智弁和歌山、PL学園など、強豪校には宗教団体を母体とする高校が少なくない。 1998年春にPL学園が2回戦で対戦したのは創価高校だった(試合はこの大会でベスト4のPLが9-0で勝利)。 新宗教の中でも最大規模を誇る創価学会。名誉会長である池田大作が設立したのが、東京の創価高校と、大阪の関西創価である(運営は両校とも学校法人・創価学園)。 両校共に全校生徒が1075人の大所帯で、甲子園には前者が8回、後者が1回出場している。系列の創価大学も含めれば、多くの人材をプロ野球界に送り、一大派閥を築いている。 さぞや母体である創価学会と不離一体の関係があるのだろうと思いきや、関西創価の総務企画課の担当者はこういう。「我々は宗教学校ではありませんので、教えを生徒に講じる授業というのは特段ありませんし、生徒全員が信者というわけでもありません」 甲子園に出場した際にはアルプスが学会カラーの青・黄・赤に染まり、ブラスバンドが山本リンダの『狙いうち』を演奏する。夏の甲子園に初出場した1983年の『聖教グラフ』(8月17日号)には部員が池田に甲子園出場を報告する様子が掲載された。教団との関係はやはり強い。創価学園の広報担当に聞くと、次のようにコメントした。「様々な部活動に対して日頃より創立者はじめみなさんから心強い応援、激励を頂戴しております」 2002年夏の3回戦では辯天宗を母体とする奈良・智弁学園と智弁和歌山による兄弟校対決が実現した(智弁和歌山が勝利し、この大会で準優勝)。辯天宗は、宗祖智辯が1934年に天啓を受け、1952年に立宗された新宗教だ。 両校はクリーム地に朱色で「智辯」と書かれたユニフォームが特徴だが、もともと紫を使ったものだったという。智弁和歌山の監督・高嶋仁が振り返る。「私が奈良の智弁学園の監督になったばかりの頃に、藤田照清前理事長のご意向で変更しました。やはり高校野球で紫といえば天理ですから。智弁の『C』の人文字もPLに倣ってのことでしたが、野球におけるライバル意識だけで、宗教団体としての対抗意識はありません」 智弁学園に宗教色は薄い。「昔は打席に入る時に、手首につけた念珠を触るような選手もいましたが、今では危険だということで禁止されています。私も信者ではありませんし、生徒もほとんどが違います」(同前)●柳川悠二(ノンフィクションライター)と本誌取材班 (文中敬称略)※週刊ポスト2015年4月10日号
2015.04.03 07:00
週刊ポスト
山本リンダ、久本雅美らが大幹部 創価学会芸術部の存在意義
山本リンダ、久本雅美らが大幹部 創価学会芸術部の存在意義
 創価学会は本部のもと、各地域組織のほか性別・年代別にまとまった壮年部、青年部、婦人部などがある。そのうえでさらに職業でくくられる組織もある。その一つ、文化本部の「芸術部」には、俳優や歌手ら有名タレント会員が多く所属している。その実態を探った。 芸術部の発足は1962年。芸術・芸能を生業としているメンバーで結成され、すでに50年を越える歴史を持つ。部員数は非公表だが、約1万人いると推測される。文化本部にはほかに、ドクター部(医師など)、学術部(学者など)、文芸部(作家など)がある。 芸術部にはタレント、芸能人のほかに、音楽家や舞台俳優、茶道や華道、日本舞踊などの伝統芸能の担い手、裏方など、幅広い分野の人々が所属しているという。 メンバーとしてよく知られるのは、芸術部女性部長を務める歌手の山本リンダ(63歳)、女優の岸本加世子(53歳)、お笑いタレントの久本雅美(56歳)だ。ほかにミュージシャンでTM NETWORKのメンバー・木根尚登(57歳。副芸術部長)や、柴田理恵(55歳。芸術部中央委員)が所属している。 彼らが一堂に会する芸術部総会は、まれに本部幹部会と合わせて開かれることがある。2009年1月9日付「聖教新聞」には、先に挙げたメンバーを含む芸術部員が整列し、本部幹部会で合唱している場面が紹介されている。 彼らはまた、「聖教新聞」や青年部の機関紙「創価新報」にインタビューや対談記事で登場することがある。ミュージシャン・高橋ジョージ(56歳)は2014年3月19日付「創価新報」で一般会員との対談に臨み「俺にとって、その(歌を伝える生命力の)源泉は、信仰であり、学会活動」と述べている。 創価大学の落語研究会出身で芸術部員のお笑いコンビ、ナイツは市販されたパンフレット『SOKA2011』(聖教新聞社刊)に登場。「なるほど創価学会」というコーナーで案内役を務め、「どんな教えを信仰しているか」「聖教新聞はどんな新聞か」「座談会では何をするか」などの質問に答えている。 機関紙など学会系メディアに頻出する、テレビなどでお馴染みの芸能人たち。彼らの学会における役割とは何か。 芸術部の結成記念日にあたる3月8日付「聖教新聞」社説(2014年)では芸術部について〈浮き沈みの激しい世界で、たくましく生き抜くメンバーが、自身の信仰体験を語り、学会理解の輪を大きく広げている〉と、彼らが学会内部で果たす役割について触れている。  宗教学者の島田裕巳氏は、タレント学会員を「内向きの存在」とみる。「かつては芸能人信者を教勢拡大のための“広告塔”と見る向きがあったが、現在ではあまりそうした効果はない。創価学会に限らず、新宗教はどこでも信者数が伸び悩んでいる。 そうした中で、学会のタレント信者はむしろ、身内の学会員を激励する役割を果たしている。たとえば学会のプロスポーツ選手が活躍すれば、聖教新聞などで大きく取り上げられる。仲間の活躍は学会員にとって誇らしいこと。一般の学会員を勇気づけるだろう。組織全体が内向きになっていると見たほうがいい」(島田氏)※SAPIO2015年1月号
2014.12.10 16:00
SAPIO
東京出身の九州朝日放送イケメンアナ 胃袋捕まれ九州男児化
東京出身の九州朝日放送イケメンアナ 胃袋捕まれ九州男児化
 日本テレビの男子アナがユニットを組んでCDデビューするなど、女子アナだけでなく、最近は男子アナにも注目が集まっているが、地方局にも素敵なイケメンアナがたくさんいる。九州朝日放送の三澤澄也アナ(25)も、次世代を担うであろうイケメンアナだ。 * * * 入局して3年。食に胃袋をつかまれ、人や街に心をつかまれ、福岡が大好き。とんこつラーメンにもハマりましたが、なかでも『海鳴』(うなり)さんの魚介とんこつラーメンは、他では味わえないハーモニーがすっかり癖になってます。今や身も心も、九州男児です! 東京出身なので、両親は放送を見られませんが、『報道ステーション』の野球コーナーなどでぼくのナレーションが流れる時があるんです。親や友達が「澄也、今日読んだ?」なんて気づいてくれると、ものすごく嬉しいですね。 新番組『モノ見遊さん』も始まりました。ぼくが旅の執事として北九州の魅力をリサーチして、女性ゲストをエスコートします。ゲストは山本リンダさんなど、名だたるかたばかり。両親はちょうどリンダさんが活躍された時代に青春を過ごした世代なので、それはもう喜んで。母に「あなた、どんな人と番組やるかわかる?」と興奮気味に言われて気が引き締まる半面、親孝行できたのかな、なんて。 ぼくはよくも悪くも、皆さんがイメージされるアナウンサーのタイプとは違うようです。言葉が稚拙な部分や、大げさな物言いでラジオのリスナーに「世界の三澤」とあだ名をつけられるほど(笑い)。課題もありますが、自分らしさを大切に、無二の表現者になりたいです。【プロフィール】三澤澄也/みさわすみや。1989年4月24日生まれ、B型、身長164cm、体重60kg、東京都出身、主な担当番組『モノ見遊さん』(月~木13時5分~)
2014.07.21 07:00
女性セブン
『あまちゃん』出演を振り返った三又又三
三又又三 あまちゃん出演に「クドカン演出ではなく三又演出」
 能年玲奈演じるアキちゃんと片桐はいり演じる安部ちゃんが街中で有名人を見つけて、じぇじぇじぇ! その有名人は、なぜかお笑い芸人の三又又三(46才)だった――。2013年に大ヒットしたNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』。小ネタ満載のドラマの中で、こんな面白すぎる“小ネタ”が話題となった。ドラマでは安部ちゃんが「岩手県出身、花巻市の医者の息子、元コロッケの付き人、元芸名:ハムエッグ」と三又のパーソナル情報をやけにくわしく説明。このシーンはツイッターなどで反響を呼んだ。この注目ぶりを本人はどう思っているのか? 三又に直撃インタビュー!――『あまちゃん』出演のインパクトは大きかった。出演オファーがあったのはなぜ?三又:なんなんでしょうね。脚本家の宮藤官九郎さんとも知り合いっていうわけでもないんですよ。今から10年ぐらい前かな? 俺がキャバ嬢とデートしようと思った時、彼女がどうしても「クドカンの舞台が見たい」と言いだして。「クドカン? 誰だそれ?」と思ってたんだけど、チケットをとろうとしたら、人気過ぎてとれなくて。たまたま友達の元世界のナベアツ(桂三度)が宮藤さんと知り合いで。ナベアツを通してなんとか宮藤さん本人にチケットをとってもらったんですよ。チケットを受け取る時に劇場の裏口で会ったのが初めて。そのときに、自己紹介代わりに博士(水道橋博士)の原稿(『笑芸人』2004年秋号)のコピーを渡したんですよ、俺のことが書いてあるんで。そのときもほとんど話してないし、舞台見て帰ってきただけなんで、それ以降はまったく会っていないんっすよ。――ちなみに、どんな舞台だったんですか?三又:ほとんど寝てたんで覚えてないんっすよ。――そうですか…。『あまちゃん』では演出で「こうやってくれ」というリクエストはあったんですか?三又:いえ。まったく。ガチで俺の私服ですし、バッグも俺のヴィトンで。NHKだからロゴ見えないように裏返しにしてたんですけど。最初はただ女の子と歩くという設定でしたけど、演出のかたから「マイクをつけるんで、適当に話をしてつないでくれますか?」といわれて、自分の自慢話を相手の女の子にひたすらしゃべっていました。「俺、元ジョーダンズで武田鉄矢のモノマネだけをしているって思ってない? 誰の弟子だと思う? 三又又三の名付け親はビートたけしさんだから」って話していたら、能年さんと片桐さんとすれ違うタイミングが近づいてきて。俺としては延々と自分の話をしていただけなんですが、たまたま2人とすれ違うときに「三又ダンスっていうのをしていてね。みまた、みまたってパン一(パンツ一丁)で」というアドリブの音声がどんぴしゃでハマったんです。放送では三又ダンスで使う山本リンダさんの『狙いうち』もばっちり使われていて。あれはクドカン演出じゃなくて、まさに三又演出ですね。――三又ダンスといえばパンツ一丁で『狙いうち』のメロディにあわせて「みまたーみまたみまみまた」っていうアレですよね?三又:そう。俺の持ちネタですからね。――『あまちゃん』出演後、反響はありました?三又:すごいなあって思ったのは芸人仲間からの反応ですね。放送直後、10年ぶりにダチョウ倶楽部の肥後(克広)さんから連絡があって。神戸で舞台をやっている合間だっていうのに、興奮気味に「お前、すげー」って電話がかかってきたんです。あんなに人に興味がないダメ人間のリーダーが「すげーすげー」と電話かけてくること自体がすごいんですよ(笑い)。かなりの衝撃でした。――違う回では本人は登場していないけれど、安部ちゃんのセリフで「三又又三なんてまめぶに手もつけなかった」と言うシーンもありましたね。三又:ありましたね。でも実際にまめぶって食べたこともないんですよ。『あまちゃん』は海沿いの地域の話ですからね。ぼくは花巻市出身なんで、まめぶって見たことも食べたこともいまだにないんですよ。【三又又三(みまたまたぞう)】1967年5月27日生まれ 岩手県花巻市出身。1992~2007年までお笑いコンビ『ジョーダンズ』として活躍。武田鉄矢のモノマネなどで人気を博す。解散後は舞台『お~い!竜馬 −青春篇−』を主演、企画、プロデュースする。ブログ『三又又三のおーい竜馬への道』(http://www.aspara.co.jp/bakachin/)
2013.12.20 07:00
NEWSポストセブン

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