長渕剛一覧

【長渕剛】に関するニュースを集めたページです。

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祝・星野&新垣 反町&松嶋、小栗&山田…共演後に結ばれた芸能人夫婦
 日本のみならず世界が湧いた星野源(40才)と新垣結衣(32才)の結婚発表。ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)で共演したふたりは、同番組の続編で再共演したことがきっかけで交際に発展したという。このふたりのように、共演を機に結婚する芸能人夫婦を振り返ろう。●堺雅人(47才)&菅野美穂(43才) 映画『大奥~永遠~[右衛門佐・綱吉篇]』(2012年) 結婚=2013年●小栗旬(38才)&山田優(36才) ドラマ『貧乏男子 ボンビーメン』(2008年 日本テレビ系) 結婚=2012年●反町隆史(47才)&松嶋菜々子(47才) ドラマ『GTO』(1998年 フジテレビ系) 結婚=2001年●三浦友和(69才)&山口百恵(62才) ドラマ『赤い』シリーズ(1974年~1980年 TBS系) 結婚=1980年●長渕剛(64才)&志穂美悦子(65才) ドラマ『親子ゲーム』(1986年 TBS系) 結婚=1987年●渡辺徹(60才)&榊原郁恵(62才) ドラマ『風の中のあいつ』(1984年 日本テレビ系) 結婚=1987年●水谷豊(68才)&伊藤蘭(66才) ドラマ『事件記者チャボ!』(1983年 日本テレビ系) 結婚=1989年※女性セブン2021年6月10日号
2021.05.29 07:00
女性セブン
世界的な人気を誇る(写真/Getty Images)
ワンオクTaka&長渕剛次男 美女と超豪華船上バカンス
 芸能界に雨後の筍のように現れる二世タレント。親子共演などを売りにするタレントがいる一方で、“親の七光”とは無縁の二世もいる。その代表格がロックバンド『ONE OK ROCK』(以下、ワンオク)のボーカルで、森進一(72才)と森昌子(61才)の長男であるTaka(32才)だ。2007年のメジャーデビュー後、圧倒的な歌唱力を武器にバンドを牽引し、いまや世界的な人気を誇る。 そのTakaは8月下旬、インスタグラムに日焼けして真っ赤になった自身の両手足の写真を公開した。「男女10人ほどのグループで豪華なクルーザーで夜釣りに出かけたりと楽しんだそうですよ」(Takaの知人) 一行が宿泊したのは神奈川県の湯河原温泉。1泊1人10万円以上する部屋もある高級旅館だという。「クルージングのほかにも、湯河原の高級レストランを定休日にオープンしてもらって貸し切るなど、リッチな旅行だったそうです。主催者の1人はアパレル会社の社長で、Takaさんとは長いつきあい。ほかのメンバーは音楽関係の人やモデルの美女もいたと聞きました」(前出・Takaの知人) その中に、Takaと同じく大物歌手を親に持つ人物がいた。長渕剛(63才)と志穂美悦子(64才)の次男でミュージシャンのReN(26才)だ。「ReNさんは、レーシングドライバーとして活躍していましたが、レース中に事故に遭い、ミュージシャンに転身したかたです。彼は親の名前は一切使わず、自力で音楽活動に励んできました。その中で、Takaさんに評価され、2017年にはワンオクのツアーにゲスト出演し、2人は親交を深めてきました」(芸能関係者) 実は、森家と長渕家には浅からぬ因縁がある。森進一は2003年に長渕から『狼たちの遠吠え』という楽曲の提供を受けている。同年末の紅白歌合戦では森が歌い、長渕がギターとコーラスを担当するという豪華コラボまで実現しているが、これに関して、音楽業界ではこう囁かれている。「長渕さんは1990年に初出場した紅白で、自分の持ち時間を無視して長々と歌い、ほかの出演者の出演時間を大幅カットさせるという事件を起こし、紅白から“出禁”を食らった。森さんもその割を食った1人。2003年の紅白は長渕さんにとって出禁解除の出場でしたが、森さんとのコラボは禊の意味もあったといわれています」(音楽関係者) 時代は流れ、親と同じようにミュージシャンになったTakaとReN。2人にとって、超豪華なバカンスは、コロナ禍での息抜きになったことだろう。※女性セブン2020年9月17日号
2020.09.04 07:00
女性セブン
田原と聖子の仲に興味津々 1980年代の『ザ・ベストテン』
田原と聖子の仲に興味津々 1980年代の『ザ・ベストテン』
 遂に『ザ・ベストテン』(TBS系、1978~1989年)の再放送が6月20日、CS・TBSチャンネル2で始まる。1981年には、放送51週中50週で視聴率30%以上を獲得した昭和の超人気音楽番組が、令和の時代に復活する。 今年4月28日の『マツコの知らない世界』(TBS系)では、平成生まれの昭和ポップス好きである高橋昌太郎氏、さにー氏が登場し、“昭和の名曲イントロ・ベストテン”を紹介。『ザ・ベストテン』の映像も多数オンエアされ、番組最高の視聴率15.4%(ビデオリサーチ調べ/関東地区。以下同)を獲得した。平成世代の2人も、寺尾聰『ルビーの指輪』の連続1位記録時の豪華なセットに魅了されていた。『ザ・ベストテン』の再放送1回目は、1980年12月25日分になる。番組常連となる田原俊彦、松田聖子、近藤真彦の3人が初めて同時ランクインした貴重な回で、演歌やニューミュージックも入り交じり、歌謡界全盛時代を象徴するラインナップとなっている。 1980年は、時代の転換期だった。9月1日には、1970年代後半に大ブームを巻き起こしたピンク・レディーが記者会見を開き、翌年に解散すると発表。10月15日には山口百恵が芸能界を引退した。 取って代わるように、新たな時代のスターが出現する。ドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)の生徒役で人気を博した田原俊彦が7月10日、『哀愁でいと』で8位にランクイン。その前週、『今週のスポットライト』に出演していた松田聖子は8月14日、『青い珊瑚礁』で8位に入り、飛行機のタラップを降りて羽田空港の滑走路で歌唱した。 2人は歌手デビュー前から、NHK『レッツゴーヤング』で番組を盛り上げる『サンデーズ』のメンバーとして共演。CMでも仲睦まじいシーンが流れ、お互いのファンは焼きもきした。松田聖子の『青い珊瑚礁』が4位に上昇した9月4日、『哀愁でいと』で1位の田原俊彦が登場すると、司会の久米宏が「松田聖子さんとの仲は本当はどうなんでしょう。心配で夜も眠れないんです」という視聴者からのハガキを読み上げた。 番組は、ファンの不安の種をフリップに4つ書き出した。【1】いろんな番組で2人が仲良く共演している【2】11月19日に結婚する山口百恵と三浦友和がペアで出演した『グリコアーモンドチョコレート』のCMを2人が務めている【3】『ザ・ベストテン』で2人並んで写真を撮っている【4】新聞のテレビ欄で2人の名前が並んでいる この分析について聞かれた田原は、「僕、今その問題ばっかりでいつもね、悩んでいるんだけど、別にそんなことはないですから、皆さん心配しないでください」とやや笑みを浮かべて答えた。ソファーから立ち上がった聖子は困惑した表情で、「私も田原くんが今言った通りにそれだけで。困ってるんですけども……」と話した。 以降、『ザ・ベストテン』では新聞のテレビ欄で2人の名前が並ばなくなったり、2人のあいだに司会の黒柳徹子が割って入るという措置が取られたりした時期があった。令和2年の今では考えられない話だが、昭和55年に現実として起こった出来事だった。 周囲の熱狂をよそに、2人は熾烈なランキング争いを繰り広げていた。9月11日に田原の『哀愁でいと』が3週連続1位に輝くと、翌週の18日に聖子の『青い珊瑚礁』が初のトップを奪い、3週連続で死守する。25日には、最後のスタジオ出演の山口百恵が1位のお祝いとして聖子に花束を渡している。 こんなデータを算出してみた。1980年の『ザ・ベストテン』における1月10日から6月26日までの上半期(25回)と7月3日から12月25日までの下半期(26回)のランクイン回数トップ10を挙げてみよう。●1980年上半期【1位タイ】25回・五木ひろし、クリスタルキング【3位】19回・西城秀樹【4位】18回・山口百恵【5位タイ】17回・郷ひろみ、沢田研二【7位】13回・海援隊【8位タイ】12回・オフコース、シャネルズ【10位】11回・渡辺真知子●1980年下半期【1位】26回・田原俊彦【2位】21回・松田聖子【3位タイ】18回・郷ひろみ、もんた&ブラザーズ【5位】17回・山口百恵【6位】16回・八神純子【7位】15回・五木ひろし 【8位タイ】13回・長渕剛、高田みづえ【10位タイ】11回・西城秀樹、ロス・インディオス&シルヴィア 上半期1度も登場しなかった田原と聖子が、下半期には郷ひろみや西城秀樹、山口百恵のランクイン回数を抜き去り、時代の寵児となったのだ。『ザ・ベストテン』は人気者の2人を近寄らせないと約束しながらも、親密に見えるような演出をした。1981年9月17日、3位の田原俊彦が『悲しみTOOヤング』を歌い終えると、スタジオには雷鳴とともに雨が降り出し、久米宏が意味深なナレーションを読み上げた。〈ほとんどの人が田原くんのことを“トシちゃん”と呼ぶ中で、聖子さんだけは“田原くん”となぜか呼ぶそうです。そんな聖子さんを、田原くんは「最近色っぽくなったなあ」と思ってるそうですよ。さぁ、今週第2位です〉 パラソルを持った聖子は田原に近寄って相合傘をしながら、『白いパラソル』を歌い始めた。この日は3週休養していた久米宏の復帰が話題になり、歴代最高視聴率41.9%を記録した。 このように番組は2人の仲を演出して視聴者を惹き付けることもあったが、1983年3月24日に3位『秘密の花園』松田聖子、2位『ピエロ』田原俊彦が一緒に登場すると、久米が「2人をくっつけないことを気にすることを辞めよう、という終結宣言を出そうと思っています」と述べ、2人は握手したままセットに向かった。 田原と聖子は当時を振り返り、1994年5月9日放送の『ふたりのビッグショー』(NHK、視聴率10.9%)でこう語っている。聖子:一緒にデビューして、同級生みたいな時があって、まあなんか噂されたり、男の子と女の子のね。そんなこともあったけど、今は私と田原くんって“同士”って、そんな感じがしない?田原:沖田(総司)! 土方(歳三)! みたいな。 1985年4月18日の『ザ・ベストテン』で、松田聖子は神田正輝との結婚後の休業を宣言。翌年には娘・沙也加を出産した。1987年に復帰すると、『Strawberry Time』で4週連続1位を獲得。結婚前と変わらない人気を見せつけ、“ママドル”として新しい道を切り開いた。 田原俊彦はデビュー7年目、8年目にランクイン回数が最盛期の5分の1に落ち込むが、1988年にドラマ『教師びんびん物語』の主題歌『抱きしめてTONIGHT』が大ヒット。4週1位に輝き、華麗な復活を遂げた。 1989年に幕を閉じた『ザ・ベストテン』の通算ランクイン数では田原俊彦が247回で1位、松田聖子が224回で2位。1980年に時代を変えた2人の“同士”は、アイドルという職業の寿命を確実に伸ばしたのだった。■文/岡野誠:ライター。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)では〈『ザ・ベストテン』の時代〉という章も設け、巻末資料で公式本にも載っていない年別ランキングデータを収録。6月、元CHA-CHA木野正人と配信イベント〈『ザ・ベストテン』と昭和ポップスの世界〉を開催(詳細はロフトプラスワンWESTのホームページにて)。
2020.06.04 16:00
NEWSポストセブン
『家なき子』『聖者の行進』…名作ドラマを再放送できぬ事情
『家なき子』『聖者の行進』…名作ドラマを再放送できぬ事情
 4月に再放送されたドラマが、軒並み高視聴率を記録している。『ハケンの品格 2007特別編』(日本テレビ系)は平均視聴率10.6%、『BG~身辺警護人~傑作選』(テレビ朝日系)は同10.8%、『JIN-仁-レジェンド』(TBS系)は同11.2%と、2桁超を連発。テレビ東京は5月2日、公式アカウントで、「もう一度見たいテレ東深夜ドラマ」のアンケートを開始した。 製作費は事実上“ゼロ”。濡れ手で粟のテレビ局は大喜びかと思いきや、「再放送作品を選ぶのが大変なんです……」と嘆息するのは、あるキー局編成スタッフだ。“様々な理由”から「視聴率を稼げるのに再放送できない人気ドラマ」が多いのだという。 例えば安達祐実主演の『家なき子』(1994年・日テレ系 最高視聴率37.2%)。「同情するなら金をくれ!」のセリフは社会現象にもなったが、地上波での再放送は一度もない。「不幸な境遇の安達がけなげに生きる姿が共感を呼びましたが、いまの時代では、安達へのいじめ描写が貧困家庭への差別を助長しかねないとして、再放送には慎重になっている」(日テレ関係者)『家なき子』と同じ野島伸司氏の脚本作品『聖者の行進』(1998年・TBS系 最高視聴率22.1%)も同様だ。知的障害者をテーマにした意欲作だったが、暴力やレイプシーンが頻出し、放送途中でスポンサーが降板する事態に発展した。「DVD化はされたものの、再放送は一度もなし。主役のいしだ壱成、相手役の酒井法子がともにその後、不祥事を起こしたこともあり、再び地上波で流れる可能性はほぼないでしょう」(TBS関係者) 1980年代の人気作品も局側を悩ませている。斉藤由貴主演の『はいすくーる落書』(1989年・TBS系 最高視聴率19.9%)は、当時人気絶頂の斉藤が新米教師役を務め、主題歌(ザ・ブルーハーツ『TRAIN-TRAIN』)が大ヒットするなど話題を呼んだ作品だが、ドラマの設定が再放送のネックになっているという。「赴任先の工業高校で不良生徒とぶつかり合いながらも互いに成長していく青春ドラマだったのですが、この工業高校を劣悪な環境として描いたことで、全国工業高等学校長協会から抗議があったんです。続編のパート2は工業高校から普通高校に設定を変更しましたが、再放送はされていません」(ドラマ評論家の成馬零一氏) 長渕剛主演の『とんぼ』(1988年・TBS系 最高視聴率21.8%)は、同名主題歌が100万枚を超えるヒットとなるなど、「役者・長渕」の代表作といえるドラマだが、これまで再放送はされていない。「ヤクザが主人公という設定が問題視されている。根底に流れるのは人間愛ですが、ヤクザを美化しかねない内容が暴力団排除条例を重んじる今の時代にそぐわない」(前出・TBS関係者) 一方、ヤクザと対極にいる警察ドラマでも再放送しにくい作品があるという。「『西部警察』(1979年・テレ朝系)を始めとする石原プロ作品は、いまも根強い人気を誇りますが、派手な銃撃戦や暴力シーンを地上波で流すのは難しい。とくに渡哲也の『大都会』(1976年・日テレ系 最高視聴率25.0%)は、刑事役の渡率いる『黒岩軍団』の犯人への暴力描写が激しく、再放送は至難だとされている」(テレビ誌記者) テレビ解説者の木村隆志氏が語る。「近年は作品のテーマや本質、前後の文脈を無視して、シーン一つを切り取ってスポンサーにまでクレームを付ける視聴者が増えた。いじめ、暴力、酒、タバコなど、作品に必要なシーンであっても何がやり玉に挙げられるか分からない時代なので、局側はトラブルを避けるべく自主規制している部分も大きい」※週刊ポスト2020年5月22・29日号
2020.05.11 16:00
週刊ポスト
ワッキーが明かす、ロンブー淳の結婚式での長渕熱唱の裏側
ワッキーが明かす、ロンブー淳の結婚式での長渕熱唱の裏側
 門出、旅立ち、巣立ち…別れの季節である3月にはそんな言葉が似合う。人生の節目となる、春の時季を彩った歌はなんだろうか。歌の数だけ「別れの物語」がある――。 1980年代には、柏原芳恵『春なのに』、H2O『想い出がいっぱい』、尾崎豊の『卒業』などの歌が当時の若者の心を捉えた。 なかでも、お笑いコンビ・ペナルティのワッキー(47才)の心に刺さった歌は、長渕剛の『乾杯』だという。同期で親友のロンドンブーツ1号2号の田村淳(46才)がハワイで結婚式を挙げたとき、品川庄司の庄司智春(44才)と共に歌った曲だ。「冒頭のところで、もう泣きながら歌っていました。それを見て、淳ももらい泣きしながら一緒に口ずさんで…。 デビューしてから何をやるのもずっと一緒だったので、歌詞はまさにぼくらそのもの。あの曲を聴くと、“あの頃がいちばん楽しかったんじゃねえの?”という気持ちがわき上がります。みんなで街に繰り出してナンパしたり、海に行ったり、お互いの家で何をするでもなくボーッとしていたり。そんな他愛もないことが走馬灯のように脳裏を駆けめぐりました。 お金も何もなかったけど楽しかった日々。そんな気持ちも年を取ったら味わえなくなるのかなと、切なさを感じながら歌っていました」 大の長渕ファンのワッキーは、長渕の『さようならの唄』を照れた顔で口ずさみながら、子供の頃のほろ苦い思い出を振り返る。「親父が転勤族だったので、小・中学校の頃は転校を繰り返していました。中学3年生になる春の時期に北海道から千葉に引っ越すんですが、いまでも関係の続いているくらい仲のいい友達との別れだったので、寂しくてたまらなくて。 それで、当時好きだったクミちゃんという子がいたんですが、北海道を離れる前に意を決して告白したんです。サッカー部の練習前に廊下に呼び出して“ずっと好きだったんだ、つきあってほしい”と、人生初の告白です。その後サッカーの練習をしていたら、クミちゃんの親友のカリンちゃんに呼び止められて“これ、クミから!”と小さな手紙を渡されました。ドキドキしながら開けて見ると、そこに書かれていたのは“やっぱり友達がいい”という文字。あまりの衝撃に、ぼくはそのまま雪の積もった校庭にパタリと倒れこんでしまって(笑い)。仰向けになりながら、小さな手紙をさらに小さくちぎって上に投げると、雪と一緒に手紙が自分に降り積もって…。 家に帰ってから『さようならの唄』や五輪真弓さんの『恋人よ』を聴きながら、ボロボロ泣いていました」 1990年代、2000年代以降も、卒業式の定番となった埼玉県の中学校教師作曲の『旅立ちの日に』や、レミオロメン『3月9日』、森山直太朗『さくら』、アンジェラ・アキ『手紙~拝啓十五の君へ~』など、さまざまな卒業ソングが誕生した。「歌を聴くことで、卒業式で同級生が泣いていた横顔など、懐かしい情景がありありと浮かび、いまでも熱いものが込み上げてきます」(47才女性) 歌にはあの日の思い出を鮮明に甦らせる力がある。それはどんなに時が流れても、決して色あせることはない。※女性セブン2020年4月9日号
2020.03.29 16:00
女性セブン
涙を彩る名曲の数々をランキング化
贈る言葉、旅立ちの日に… 卒業ソングランキングTOP20
 卒業式シーズンになると、何年経っても「あのフレーズ」とともに淡い記憶が蘇る──そんな「思い出の歌」が誰しもあるだろう。今年の卒業生たちにとっても、いつかこの時代の歌が、特別な思い出になるはずだ。新型コロナウイルス蔓延による全国一斉休校で卒業式を行なえない学生も多い。彼らに、せめて時代を彩った卒業ソングの名曲を贈りたい。『仰げば尊し』や『蛍の光』など卒業式で歌う合唱曲=卒業ソングだった時代に、舟木一夫が歌う『高校三年生』(1963年)は大ヒットし、1960年代の“代表ソング”となった。東京五輪を翌年に控えたこの当時、大学進学率は10%程度で、集団就職の全盛期。地方の「高校三年生」の多くは卒業すると「金の卵」として地元を離れ、大都市へと旅立っていった。「近い将来もう会えなくなるかもしれないという思いは、誰もが共有していた。就職後には夜この歌を一人で口ずさんで励まされました」(74・無職) 当時、中学3年生だった元参院議員の筆坂秀世氏(72)も思い出の曲だと言う。「池田勇人内閣で高度成長期の真っ只中。日本に勢いがある、いい時代だった。中学生仲間も当時は『高校三年生』を口ずさんでいました。その頃は中卒で就職する人生も少なくなかった。別れの辛さは中学生にも重かったんです。校内放送で流行歌が流れるようになったのは、『高校三年生』かららしい。この曲を聞くと1学年下の可愛い後輩に告白して、フラれたことを思い出すよ(笑い)」 翌1964年に流行したペギー葉山の『学生時代』は、結婚式を迎えた女性が、高校時代を懐かしむ歌だ。この曲は『大学時代』というタイトルになる予定だったが、みんなが大学に行く時代ではないとペギーが反対し、『学生時代』になったという。「テニスもキャンプファイヤーもしたことがなかったけど、都会的な学生生活に憧れた。高校の同窓会に行く途中、憧れていた同級生を思い出してこの曲が頭をよぎる。彼女は1回も来たことないけどね」(73・無職)◆もう若くないさと君に言い訳 時代背景が違えば、心に染みる卒業ソングも違う。1970年代の代表ソングといえば『なごり雪』。もともとはフォークグループ「かぐや姫」の楽曲だったが、1975年に「イルカ」がカバーして大ヒットした。この頃から大学進学率が上がり、卒業ソングは大学の思い出にもなった。『なごり雪』は、卒業後に故郷に帰る仲間や恋人たちの姿を切り取っている。音楽評論家で尚美学園大学副学長の富澤一誠氏(68)も思い入れのある曲として『なごり雪』をあげる。「曲の背景には70年安保闘争、学生運動の名残があります。男性を支えてくれていた女性が田舎に帰っていく。女性は成長していて男性のもとを去っていくのに、男性は変わらず、東京に残る。人生や恋愛の敗北感やこれからどう生きていくのかといった悩みをテーマにしたからこそ、共感を得たのだと思う」 この1975年は卒業ソングの当たり年。同年、当時21歳の荒井由実(松任谷由実)は、作詞作曲した『卒業写真』と『「いちご白書」をもう一度』をハイ・ファイ・セット、バンバンに提供。いずれも卒業ソングの名曲として歌い継がれている。エコノミストの森永卓郎氏(62)は、当時高校3年生だった。「ユーミンは好きでデビューアルバムから持っていたけど、『卒業写真』は下駄を履いたバンカラ学生だった僕には別世界で、おしゃれな映画を見ている感じでした。対して『「いちご白書」をもう一度』は歌詞に共感した。 僕は中学のときに学生運動に強い影響を受けていたので、バリケードを作ったり長髪でギター弾きながら吉田拓郎を歌う少年だった。高校に入って長髪を切って、『森永はノンポリに転向した』って友達に言われたんです。ユーミンの歌詞はそういう心境の変化を表わしていた」◆道に迷っているばかり 学生運動の熱が冷めると、「どう生きていくか」という悩みが若者の間に広がっていく。森田公一とトップギャランの『青春時代』(1976年)の阿久悠の歌詞は若者たちの心をわしづかみにし、「今でも同窓会のシメは肩を組んでこの歌を大合唱」(63・自営業)だという。 その後登場したのが、本誌・週刊ポストの読者1000人アンケート(表参照)でも1位となった『贈る言葉』(1979年)だ。大ヒットドラマ『3年B組金八先生』で主役を演じ、フォークグループ「海援隊」のボーカルでこのテーマ曲の作詞も担当した武田鉄矢氏(70)が振り返る。「最終回は卒業式ということは分かっていたから、『青春の一人旅の第一歩を踏み出した』というニュアンスを歌詞に組み入れたいと思った。辛いことに向かって踏み出す『寂しい一歩目』こそが『青春』だと思ったんです。 それから当時はフォークソングが下火になって、『ニューミュージック』というジャンルが台頭していた。『ニューミュージック』は歌詞に『優しい』という言葉が出てきて、キャッチコピーのように使っていたんですが、それに対して僕はものすごく腹が立っていて。『贈る言葉』の歌詞には、“優しさだけで人間は決まらんぞ!”みたいな、意地や恨みがこめられています(笑い)」『贈る言葉』のリリース後、武田氏は鹿児島県奄美群島の沖永良部島で、こんな経験をした。「港の近くで島の中学のブラスバンドが『贈る言葉』を演奏していたんです。僕たちを歓迎するために演奏しているのかと思ったら、みんなこっちに背を向けて、鹿児島の本島に向かう船に向かって演奏している。 島の中学校に赴任していた女の先生が転勤になって、鹿児島に船で帰るのを、教え子たちが『贈る言葉』で見送っていたんです。演奏している子供たちも、女の先生も泣いていました。その時、“歌というのは作り手から離れて、時代を超えていろんなところを旅していくんだなぁ”と思いました」◆あと何度自分自身卒業すれば 1980年代は柏原芳恵の『春なのに』(1983年)、斉藤由貴の『卒業』(1985年)、菊池桃子の『卒業』(1985年)など、アイドルが歌う卒業ソングがヒットする一方で、長渕剛の『乾杯』(1980年)、尾崎豊の『卒業』(1985年)など、硬派な卒業ソングも誕生した。「80年代になると、70年代の敗北感や迷いがなくなっていきます。長渕の『乾杯』にも“俺たちは頑張るんだ”という前向きな空気が流れている。尾崎の『卒業』も同様で、卒業後の自分探しがテーマになっている」(富澤氏) 学生たちがカラオケボックスで歌えるようになったのもこの時代。「尾崎ファン」を公言するお笑いコンビ・テツandトモのトモ(49)はこう話す。「高校時代の親友と今後の人生について語り合った後、カラオケで肩を組みながら『卒業』を熱唱しました。尾崎豊さんの魂のこもった歌声、語りかけるように始まってラストで畳みかけるメロディーラインに惹かれました。実は、コントのネタになっている『なんでだろぉ~』の最後の『お~』の歌い方は、尾崎豊さんに影響されています」 2000年代に入ると、森山直太朗の『さくら』(2003年)やいきものがかりの『YELL』(2009年)に代表されるように、未来の自分へエールを送る卒業ソングが人気を博す。「70年代までの『卒業は別れ』というイメージから、『卒業は新しい出会いの始まり』というイメージに変わり、自分を鼓舞するメッセージが聞き手に響くようになったのでしょう」(富澤氏) さらに卒業式で歌われる定番曲にも変化が起きる。『旅立ちの日に』(1991年)が多くの学校で歌われるようになった。それまでスタンダードだった『仰げば尊し』『蛍の光』が恩師との別れや勉学に励んだ日々を惜しむのに対し、この楽曲は卒業を前向きな別れだと捉えている。作曲者で県立秩父特別支援学校教諭の高橋(旧姓・坂本)浩美氏が、曲ができた経緯を語る。「(秩父)市立影森中学校時代に、校長先生からいただいた歌詞を見た瞬間にイメージが広がって、すぐ曲を作りたいという気持ちが沸き上がりました。音楽室に駆け上がり、ピアノに向かって15分で出来上がりました」 卒業式はなくとも、こうした名曲を胸に刻み、「旅立ちの日」を、迎えてほしい。※週刊ポスト2020年3月20日号
2020.03.11 11:00
週刊ポスト
槇原敬之、早期復帰も?ミュージシャンが許されやすい背景
槇原敬之、早期復帰も?ミュージシャンが許されやすい背景
 歌手の槇原敬之容疑者(50)が2月13日、覚せい剤を所持していたとして、覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで逮捕された。また、危険ドラッグに指定されているRUSHを所持していたとみられている。槇原容疑者は、1999年8月にも覚せい剤所持で逮捕され、懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。 有名人が不祥事を起こした際、頻繁に話題となるのが「復帰の時期」だ。槇原容疑者が前回逮捕された時は、逮捕から約1年3か月後にアルバムをリリースし活動を再開。執行猶予期間中のことだった。「どういった不祥事を起こすかにもよりますが、少なくとも1年は活動を休止し、長ければ2~3年は表舞台に出られないことが多い。また、全体的な傾向として、俳優やテレビタレントに比べて、ミュージシャンの活動休止期間は短いと言われています。俳優などの場合は、復帰できないケースもありますが、ミュージシャンの場合は比較的復帰しやすいです」(音楽業界関係者) 大麻所持で逮捕された井上陽水(懲役8か月、執行猶予2年有罪判決)や長渕剛(起訴猶予処分)など、薬物の不祥事を経て、第一線に復帰しているミュージシャンは多い。エンタメ事情に詳しいフリーライターの大塚ナギサ氏はこう話す。「ミュージシャンの場合、“罪を犯してしまったことは悪いが、作品には罪はない”と考えるファンが多く、復帰しやすい状況があると言えます。作品を作ってファンを楽しませることこそが、社会貢献になるという側面もあるので、周囲もサポートしやすい。また、ミュージシャンは基本的に誰かのオファーを待って仕事をするのではなく、自ら楽曲を制作し、ライブを行うという自発的な活動であることも、復帰しやすい一因です。 俳優やタレントの場合、自分が復帰したくても、出演依頼がないとどうにもならない。不祥事でイメージダウンしてしまうと、なかなかオファーもこないので、復帰が難しいんです。でも、ミュージシャンなら、自分ひとりで弾き語りライブをすることもできるし、インディーズで作品をリリースすることもできる。フットワークが軽い活動ができるので、ミュージシャンは復帰しやすいと言えますね」 たとえば、2014年に覚せい剤で逮捕されたASKAは2017年にプライベートレーベル「DADAレーベル」を設立し、継続的に作品をリリースしている。「今はネット上でいくらでも情報を発信できるので、かつてのようにメジャーのレコード会社に依存することなく活動ができます。メディアでの露出がなくても、ファンに作品を届けることは可能です。つまり、今の音楽業界には、ミュージシャン自身の采配で自由に活動ができる環境があるので、不祥事を起こしてしまったとしても、自己判断で復帰できる可能性が高いということです。ASKAさんも、メディアではそこまで頻繁に見かけるわけではありませんが、昨年には7年ぶりとなる日本武道館での単独公演を成功させるなど、精力的に活動しています」(大塚氏) 今回逮捕された槇原容疑者は、2010年にプライベートレーベル「Buppuレーベル」を立ち上げており、すでにインディーズとしての活動を展開していた。「現段階で槇原本人の裁量のもとで活動していたということで、仮に今後復帰するとしても、そのタイミングは最終的には自身の判断で決めることになると思います。スタッフに給料を払わなければならないだろうし、比較的早く復帰する可能性もあるでしょう。また、不祥事で発生した損害賠償を支払うこととなれば、これまで以上に働く必要があり、余計に復帰が早まるかもしれないですね」(前出・音楽業界関係者) また、SMAP『世界に一つだけの花』など、槇原容疑者が提供した名曲たちを封印させないためにも、復帰を願うという声もあるようだ。「やはり“シンガーソングライター・槇原敬之”の才能に対する評価はかなり高い。復帰時期についてはさまざまな声もありますが、しっかり復帰して音楽シーンに貢献してほしいと考える業界関係者も多いと思います」(前出・音楽業界関係者) 事件の全容がまだ不明な中で、復帰を望む声が出るのは早計にすぎるが、槇原容疑者はまずはしっかりと罪を償い、薬物と決別するしかなさそうだ。
2020.02.17 16:00
NEWSポストセブン
ジャニー喜多川氏の「お別れの会」には多くのファンが訪れた(写真:時事通信フォト)
追悼・ジャニー喜多川氏 田原俊彦をスターに育てたその手腕
 ジャニー喜多川氏を抜きに田原俊彦の芸能人生は語れない。同時に、田原の活躍なくしてジャニーズ事務所の繁栄はなかった──。 日本に歌って踊れる男性アイドルを生み出し、定着させた名プロデューサーであるジャニー喜多川氏が、今年7月9日、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血で死去した。87歳だった。 タレントたちが各局にレギュラー番組を持ち、グループが新曲を出せば必ずヒットする現在では考えられないが、ジャニー氏が40代後半だった1970年代後半のジャニーズ事務所は苦境に陥っていた。 1968年デビューのフォーリーブスの人気に陰りが見え始め、1976年を最後にNHKの『紅白歌合戦』にも呼ばれなくなる。1972年デビューの郷ひろみは、3年後に移籍。ジャニー氏はスター候補生を芸能界に送り込むが、大ヒットには至らない。 そんな事務所を救ったのが、1979年10月26日開始の学園ドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)の生徒役として抜擢された田原俊彦、近藤真彦、野村義男の3人だった。 ドラマの視聴率と並行するように、3人の人気もうなぎ上りで、先陣を切って田原俊彦が1980年6月21日、『哀愁でいと』でデビュー。年末には、2曲目の『ハッとして!Good』(作詞、作曲・宮下智)でジャニーズ事務所初の『日本レコード大賞最優秀新人賞』に輝いた。ここからジャニー氏の逆襲が始まった。 1981年には近藤真彦、1982年にはシブがき隊、1983年にはTHE GOOD Byeと4年連続で最優秀新人賞を獲得。ジャニーズ事務所は現在に至るまで隆盛を築いている。“歌って踊れる”エンターテイナーを育成したいジャニー氏の中で、事務所の苦境時に現れた運動能力の高い田原俊彦は特別な存在だった。 ジャニー氏は、田原のデビュー曲をレイフ・ギャレットの『NEW YORK CITY NIGHTS』のカバーにすると決めた。日本語詞を担当する小林和子氏が『NEW YORK CITY DOLL』というコンセプトで詞を書くと、ジャニー氏は田原の踊りを際立たせるため、こんな助言を送ったという。〈DOLL(ドール)では音が伸びてしまうからダメ。音に乗せる言葉はNIGHTS(ナイツ)のように跳ねる音にしないと〉(拙著『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)より) 伸びる音ではなく、跳ねる音のほうが踊りやすい──。ジャニー氏は細部にこだわることで、“歌って踊れる”田原俊彦の特性を存分に生かした。 1986年から、田原のシングル売上枚数は10万枚を割るようになる。すると1988年、ジャニー氏はもう一度、田原俊彦を踊らせようと考え、バックダンサーに乃生佳之と木野正人を配置。 ディレクターの羽島亨は新曲の作詞を森浩美氏、作曲を筒美京平氏に任せた。そして、編曲家・船山基紀氏が印象的なイントロを考案し、田原が踊りやすいように“決めポーズ”を何度も作れる音楽に仕上げ、『抱きしめてTONIGHT』が生まれた。 同曲は当時の人気歌番組である『ザ・ベストテン』や『歌のトップテン』で光GENJIや長渕剛などを抑えて、年間1位に輝くほどの大ヒット曲になった。今も、田原がコンサートで歌うと、会場の盛り上がりが最高潮に達する名曲だ。 1994年にジャニーズ事務所から独立した田原俊彦は9月4日には東京ドームで開かれたジャニー氏のお別れ会に姿を見せなかったが、12月20日放送の『爆報!THEフライデー』(TBS系)で「ジャニーさんが脂乗っていて、元気だった50歳前から63、64まで僕に懸けてくれた。最高の時をあの人と過ごせた。それは大切に僕の心にしまって……。それは死ぬまで変わらない」と感謝を述べた。 2人には、2人にしかわからない絆がある。その想いを胸に、田原俊彦はこれからも踊り続ける――。■文/岡野誠:ライター・芸能研究家。ジャニー喜多川氏のプロデュース秘話も随所に綴られている著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)が話題に。田原本人へのインタビューや関係者への取材、膨大な資料で構成される一冊だ。2020年2月8日13時半から、大阪・ロフトプラスワン WESTで元CHA-CHAの木野正人とトークイベント『“職業:男性アイドル”の考察とジャニー喜多川氏の果たした役割』を開催。
2019.12.21 07:00
NEWSポストセブン
2008年の紅白初出場歌手たち(共同通信社)
NHK紅白「魔の2分30秒ルール」を打ち破った歌手は?
 NHK紅白歌合戦の主役は歌だが、雑多なジャンルから様々な歌手やグループが出場する番組のため、全体を整えるための様々な工夫があった。2019年大晦日で放送70回の節目を迎えるなかで生み出された意外なウラ話を、最新刊『紅白歌合戦ウラ話』が話題の合田道人(ごうだみちと)氏に聞いた。■セクシーすぎて「吐息」が「ラッパ」に変更させられた曲がある? 青江三奈『伊勢佐木町ブルース』前奏の“あは~ん”の溜息が色っぽすぎるため、本番は水前寺清子らが代わりにラッパを“ぷ~ぷ~”と鳴らした(第19回)。「2回目に歌唱した時は“あは~ん”が許されて、司会の黒柳徹子が“ため息紅白初出場です”と盛り上げました(第33回)」(合田氏)■初めて「メドレー」を披露したのはあの“スーダラ男”? 中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりが“ハイハイ3人娘”として出場し、ワンコーラスずつ歌唱。対する白組の植木等はクレイジー・キャッツとして『どうしてこんなにもてるんだろう』『ホンダラ行進曲』の2曲を披露し、この対戦がメドレーの走りとなる(第14回)■1ステージで最も長い時間演奏した歌手は? 長渕剛。ドイツ統一の1990年に紅白初の海外中継が行なわれ、ベルリンから出演。ギターのチューニング30秒は無言。スタッフを非難したかと思えば、史上最長となる3曲16分の独演会を行ない、傍若無人ぶりが物議を醸した(第41回)■魔の「2分30秒ルール」を打ち破った歌手は?「かつて紅白では歌の持ち時間が2分30秒と決められていて、2分半でレコードを作る時代があったんです。ところが第30回に初出場したさだまさしは4分以上かけて『関白宣言』のフルコーラスを披露。歌詞が尊重された結果でしたが、“さだまさしのせいで1組出場枠が減った”なんて囁かれました」(合田氏)■初出場が嬉しくて勢いで「結婚発表」をしてしまった歌手がいる? 渥美二郎が初出場の嬉しさで「来春に結婚します!」と宣言し、「紅白の会見で結婚の発表をした人は初めてです」と司会の山川静夫を驚かせた(第30回)※週刊ポスト2019年12月20・27日号
2019.12.13 07:00
週刊ポスト
芸能界の薬物事件、転機は酒井法子&押尾学逮捕の2009年
芸能界の薬物事件、転機は酒井法子&押尾学逮捕の2009年
 有名人による薬物事件が絶えない昨今。2019年は3月にピエール瀧、5月に元KAT-TUNの田口淳之介と小嶺麗奈、11月にスノーボード選手の國母和宏、沢尻エリカが逮捕されている。 芸能人と違法薬物の関係を振り返る上で、今から40年以上前の1977年ほど重要な年はない。 その1年間は圧倒的に芸能界と薬物報道一色であった。歌手の井上陽水の大麻事件に始まり、内田裕也、研ナオコ、錦野旦、美川憲一と、有名芸能人が続々と麻薬事件で逮捕され、関係者を含めた60人以上が摘発されたのである。当時の芸能マスコミは、売人から流出したとされる「大麻顧客芸能人150人リスト」の存在を指摘した。 1990年には映画『座頭市』で知られる国民的俳優の勝新太郎がハワイ・ホノルル国際空港で大麻とコカインを所持していたとして逮捕されて衝撃を与えた。1995年には長渕剛が大麻所持で捕まり、捜査の過程で国生さゆりと不倫関係にあったことが取りざたされた。 この事件を取材した当時の新聞記事では、若者が海外でコカインを味わい薬物を常用するようになっていることや、一部のタレントが特権意識やファッション感覚から薬物を使用しているとされた。この現状は今も変わっていない。 芸能界と薬物を巡るターニングポイントはやはり2009年で、酒井法子の事件と押尾学の事件が相次いで発生した。押尾の場合、一緒に薬物をやっていたクラブホステスが亡くなるという最悪の事態を起こす。 同じ年、沢尻にも転機が訪れていた。当時の所属事務所が自発的に薬物検査を行い、違法薬物の陽性反応が出たことを理由に契約解除されたと報じられた。「押尾事件でMDMAの危険性が全国に知れ渡り、その後はMDMAの押収量が激減しました。ところが近年は『ピュア』(沢尻が所持していた、MDMAの良質な成分だけを結晶させた粉末状のもの)の登場もあって、再び増加している。社会全体が薬物に対するリスクを軽視し始めている風潮もあるでしょう」(捜査関係者) 歌手の千葉マリアの息子で、薬物依存症の回復を支援するリハビリ施設「館山ダルク」代表の十枝晃太郎さんが言う。「芸能界は社会の縮図であり、世間での薬物の蔓延の度合いが、芸能界に表れているように思います。それでも、芸能人にはたしかに薬物に手を出してしまうような気質の人も多い。田代まさしさんと接すると、“常に人を楽しませたい”というサービス精神を感じました。人に薬物をすすめられた時、断りにくかったり、相手の期待に応えたいという気持ちが、つい出てしまうのかもしれません」 そもそも芸能界と違法薬物の親和性が高いという指摘もある。薬物犯罪に詳しい作家の藤原良さんが話す。「時代はヒロポン(覚せい剤)が合法だった時代にさかのぼります。時々ビートたけしさんもテレビなどでヒロポン話をネタにして笑いをとったりしていますが、芸能界だけでなく落語家、歌舞伎役者も昔はヒロポンを使っていた。 その後、覚せい剤が違法になると、一気に流通量が減ります。そこで水面下で覚せい剤を運べたのが、1つは全国組織の暴力団のネットワークです。もう1つが、暴力団のサポートの下で全国各地を興行で回っていた芸能界だった。むしろ、ヤクザ特有の『シマ(縄張り)』がない分、芸能関係者の方が運びやすかったとも言えます。ミュージシャンやタレントだけでなく、その付き人やスタッフも、かつては“運び屋”をして糊口を凌いでいた人が少なくありませんでした」 芸能界と暴力団組織が非常に近い関係だった時代があったこともたしかだ。ヤクザ側からの太い“供給ルート”もあっただろう。反社会的勢力との交際が御法度である現在はどうだろうか。薬物の売買にかかわったことがあるという暴力団関係者はこう話す。「大御所と呼ばれる歌手や芸人、タレントだけでなく、事務所の関係者にも、かつてのヤクザとの関係が続いている人も少なくない。若い芸能人だって、そういう先輩を見て育っているから、ヤクザに抵抗感は少ない。 結局のところ、今日本で出回っているほぼすべての違法薬物は、海外マフィアから暴力団が仕入れたものです。それが現役組員から、元組員や半グレ、友人知人らを経由してバラ撒かれる。実は、組員から直接、常習者に売られるケースはほとんどないですが、それでも芸能人の中には、ASKAのように現役組員から直接入手するケースも少なくない。結局、かつての“腐れ縁”が今も続いているということなんでしょう」※女性セブン2019年12月19日号
2019.12.08 16:00
女性セブン
布袋寅泰&冨永愛、4時間個室密会と今井美樹への配慮
布袋寅泰&冨永愛、4時間個室密会と今井美樹への配慮
 都心の大通りから1本裏に入った、閑静な通り沿いにある隠れ家的なそば店。裏口から人目につくことなく“VIPルーム”に入っていくことができることもあり、政治家や芸能人などの常連客も少なくない。 ひとりの長身の女性がその正面入り口から店に入っていったのは、11月中旬の平日の午後7時頃のことだった。その5分後、今度は長身の男性がひとり、裏口から店内へ入っていく──。女性はモデルの冨永愛(37才)、男性はミュージシャンの布袋寅泰(57才)だった。「布袋さん行きつけのお店で、個室で2人きりで食事とワインを楽しんでいたようです」(布袋の知人) 冨永は現在、ドラマ『グランメゾン東京』(TBS系)で、木村拓哉(47才)演じる天才シェフ・尾花夏樹の過去に深くかかわる有名料理雑誌編集長・リンダを演じている。彼女にとって、これがゴールデンタイムの連続ドラマ初出演となる。「今年1月からは教養バラエティー番組『林先生の初耳学』(TBS系)内の『アンミカ先生のパリコレ学』のコーナーに講師役としてたびたび出演。ファッション関係でも『VOGUE JAPAN』でエッセイ『モデルへの道』の連載を続けています。最近の冨永さんは、吹っ切れたように仕事をしているような印象ですね」(ファッション誌編集者) 冨永は2004年にフランス在住のパティシエと結婚し、男児を出産したが2009年に離婚。2012年には、交際中だった塩谷瞬(37才)に“二股”をかけられていたことが話題を呼んだ。 2014年11月からは芸能活動を休止し、約3年間表舞台から姿を消していた。「理由は子育てと言っていました。ある雨の日、長男が全身ずぶ濡れになって帰宅し、“お母さんはぼくのことなんてどうでもいいんだ。ぼくは生まれてこなきゃよかった”と泣き叫んだことがショックだったそうです。それを機に休業し、小学校のPTA役員や学校行事にも積極的に参加していました」(芸能関係者) だが、その間も、周囲が平穏だったわけではない。活動休止に入る1か月前、冨永は自叙伝『Ai 愛なんて大っ嫌い』を上梓したが、それが、ある大物歌手との深い関係をうかがわせた。「著書には複雑な家庭環境や、高長身ゆえにイジメを受け、“宇宙人”というあだ名をつけられていたことなどの過去が赤裸々に綴られていました。その著書のプロデューサーを務めたのが、長渕剛さん(63才)。 本人たちは“師弟関係を結んだ”と言っていましたが、どこに行くのもふたり一緒で、長渕さんが冨永さんの長男を空手に通わせるなど子育てにもかかわっていました。あまりの密着ぶりと深夜の密会報道もあって、“不倫”が疑われたこともありました」(テレビ局関係者) しかし、冨永が2017年9月に芸能界に復帰したのと同じタイミングで、長渕との“師弟関係”は解消されたとみられている。「冨永さんは復帰の理由を“経済的な理由”と話していました。逆にいえば、活動休止中は長渕さんに支えられていたということなのでしょうか。活動休止中はファッション関係の人やモデルを否定するような発言もあったそうですが、復帰後はすっかり元の“モデル・冨永愛”に戻っています」(前出・テレビ局関係者) 復帰から2年──ドラマ出演など仕事が充実し、インスタグラムには背丈が自分と同じくらいに成長した長男とのツーショット写真を載せるなど、プライベートでも幸せそうな姿を見せている冨永。今、彼女を支える1人となっているのが、冒頭の店で一緒だった布袋なのだろうか。「布袋さんはいつもはガラス張りの個室を利用しますが、冨永さんと一緒のあの日は、別のフロアにある完全個室の部屋を利用しました。冨永さんが小食のため、コースではなくアラカルトで料理を楽しみ、ロンドンの話やファッションの話題で盛り上がったそうです」(前出・布袋の知人) 約4時間、2人きりの時間を過ごし、冨永が裏口から店を出た時には時計は午後11時を回っていた。 それから1時間後の深夜0時過ぎ、時間差で布袋も裏口から店を後にした。「冨永さんと布袋さんは知り合って10年以上の仲。冨永さんが布袋さんのアルバムのジャケット写真のモデルを務めたり、イベントでは布袋さんと制作した楽曲で歌声を披露したこともありますが、男女の仲と聞いたことはありませんね…」(音楽関係者) 過去に噂になった長渕とは同じ大物ミュージシャンという共通点もある。わざわざ時間差で入退店していただけに、関係が気になるところだが──。「布袋さんは日本でのライブのためにロンドンから一時帰国中。一方、冨永さんはドラマ撮影中で多忙ですが、オフの日が重なって2人で会うことになったようです。かなり気心知れた仲ではありますよ。とはいえ、熱愛はないでしょう。 時間差だったのは、奥さんの今井美樹さん(56才)に気を使ったんだと思います。布袋さん、過去にも女性との食事会や飲み会のことがありましたからね。高岡早紀さん(46才)との密会はかなりの騒動になりましたし、数年前には首相夫人の昭恵さん(57才)にしなだれかかられながら飲んでいたことが報じられましたから」(前出・芸能関係者) 冨永は179cm、布袋は187cm、高身長の2人は時間差でもとにかく目立っていた。※女性セブン2019年12月5・12日号
2019.11.21 16:00
女性セブン
子育ても独自路線を行く
広末涼子「子供のために2億円豪邸購入」で女優とママを両立
 7月18日に39歳の誕生日を迎え、女優として円熟味を増す広末涼子。ドラマに映画にひっぱりだこだが、3人の子供を育てる“ママ業”にも手は抜いていない。そんな彼女は、実はここ2年ほどの間に大きな決断をしていたようだ。 東京都心から少し離れた私鉄沿線の高級住宅街。大通りから脇道に入って、入り組んだ一角を進むと、白壁の豪邸が目に入る。高さ約2メートルの門扉に、車2台は入る駐車場。周囲にズラリと並ぶ豪邸の中でも洗練された印象のある外観だ。「最近、広末さんがお子さんを連れているのをよく見かけます。夫のキャンドル・ジュンさん(45)も見かけますね。広末さんは子煩悩そうで、お子さんと一緒の時はいつも笑顔です」(近くの商店の店員) 広末がこの家を購入したのは、一昨年の夏頃。その年の冬にはリフォームを経て、新居が完成したという。「もともとあった家を改築していました。運ばれていく家具などが高級品ばかりだし、ゲートやシャッターも立派なのを作っているから、誰が引っ越してくるのかなって近所のみんなで話していたんです。それで最近、広末さんをよく見かけるなあと思っていたら、その家が広末さん宅だったんです」(近隣住民) もともと広末夫妻は都心のマンション住まいだった。女優としての仕事には都心は便利だが、そこから引っ越したのには理由があったようだ。転居先は次男が通う小学校から徒歩圏内だという。広末の知人が語る。「この小学校と広末さんの結びつきは強い。長男はここを卒業後、付属の中学校に進学。4才の長女は系列の幼稚園に入っています。広末さんは小学校の父母会の役員にも名を連ねているほど。広末さんとしては“子供たちのために通学しやすい場所に”という思いがあったのでしょう」 広末は、来年もシンガー・ソングライター長渕剛の21年ぶり映画主演作『太陽の家』など、話題作2本の公開を控える。そんな多忙な中、子供たちと向き合うひとときを大切にしたいのかもしれない。「この小学校のまわりは高級住宅街です。中古物件とはいえ、リフォーム代金や土地代などを合わせても2億円はくだらない。しかも広末さん夫妻は住宅ローンを組まずにキャッシュで購入しているようです」(不動産関係者) 子供のために惜しむものはない──そんな広末の意気込みが聞こえてくるようだ。 
2019.07.17 16:00
NEWSポストセブン
スマホで気軽に発信したことが後々大きな禍根を残すこともある
不登校の小学生YouTuber炎上騒動 琉球新報の責任は重大だ
 誰もが発信者となれる時代になったことそれ自体に異存はないが、「炎上」が繰り返されることもまた事実だ。コラムニストのオバタカズユキ氏が考察した。 * * * 一人の子供が不登校をしているというだけの話に、わざわざ飛びつきなさんなよ。たとえ義務教育期間の小学生でも、本人がどうしても嫌だと言うのなら学校に行かなくても構わないだろうし、学校の外で学べることもたくさんあるもんだし。 ……と私は一般論として思う。そう思う人々も大勢いるはずである。 だが、実際は、10歳の不登校児に多くの日本人が連日苛立っている。その少年がユーチューブの動画に登場するたび、何千何万人もが低評価ボタンをクリック、コメント欄を荒らさずにはいられなくなる。私だってスルーできなくて、こうして彼を取り上げている。 そして、あっという間に、彼は日本有数の有名小学生となった。ご存知ない方のために琉球新報の記事から引用すると、〈「俺が自由な世界をつくる」。自由を求めて学校に通わない選択をした中村逞珂(ゆたか)さん(10)=宜野湾市=が「少年革命家 ゆたぼん」と名乗り、ユーチューバーとして活動している。大阪生まれ、沖縄在住のゆたぼんは「ハイサイまいど!」で始まる楽しい動画を提供しつつ、いじめや不登校に悩む子や親に「不登校は不幸じゃない」と強いメッセージを発信している〉とのことである。 革命だメッセージだとずいぶん勢いのある言葉が並ぶが、「少年革命家ゆたぼんチャンネル」と題する動画自体はなんていうことない。少年やその3人の妹たちなどが、たわいのない「~をやってみた」式のお遊びをしたり、歌をうたったりする程度の内容ばかりだ。 琉球新報の記事には〈パワフルに熱唱する姿は、父親の幸也さん(39)の影響で好きになったブルーハーツをほうふつとさせる〉とあるが、これも幼さゆえにまだ音程コントロールも覚束ない児童が黄色い声を張り上げている程度。選曲がブルーハーツや長渕剛やフィンガー5のものなのは、親の影響というより親のリクエストだろう。歌詞の意味も分からないだろうに歌わされて痛々しい、と私は感じる。不登校をめぐる「メッセージ」も、カメラ横のカンペをつっかえながら読みあげているようで、やらされているな、むごいなという印象を抱く。 なぜ不登校になったのか。琉球新報には〈ゆたぼんが学校に通わなくなったのは小学校3年生の時。宿題を拒否したところ、放課後や休み時間にさせられ不満を抱いた。担任の言うことを聞く同級生もロボットに見え「俺までロボットになってしまう」と、学校に通わないことを決意した。現在も「学校は行きたい時に行く」というスタイルを貫いている〉とある。 対して、多くのネット民たちは、「ロボットはこの少年だ」と指摘している。本人のほうが父親にすべてを操作されているロボットで、これは一種の児童虐待だと批判する声もたくさんある。 さらにネット民たちは、父親こそに問題があると、その経歴をすぐさま掘り起こした。『あきらめる勇気』という自己啓発の本を出版しているので比較的容易に分るのだが、父はかつて暴走族の副総長で、恐喝、窃盗、傷害、シンナー、麻薬、覚醒剤など数限りない悪行を重ねて来たとか。職を転々とした後に、日本メンタルヘルス協会の衛藤信之氏という怪しげな心理カウンセラーと出会い、自らもその職に就くのだが、これまでに『たったの21日で禁煙を成功させる方法』という情報商材を販売していた過去もあるようだ。息子との親子講演会をけっこうなチケット料をとって開催、息子を編集者の箕輪厚介氏や茂木健一郎氏といった有名人に引き合わせて話題作りを狙うなど、なかなか商魂たくましい。 最新のユーチューブでは、「不登校のゆたぼんがアメリカンビレッジでフリーハグ」と題する動画を流していた。大炎上中にまた燃料投下するようなことしている、このチャンネルは新手の炎上商法か、と疑いたくなる。 ただ、執筆現時点でこの動画に対する高評価は541、低評価は5680。もっとも再生回数の多かった5月5日公開の「【新聞載った!】ゴールデンウィーク終わっても学校行くな」に至っては、高評価4202に対し、低評価は6.6万だ。コメント欄には33200の書き込みがあり、荒れに荒れて、商売どころじゃない状態となっている。 困った話だが、父親はもともとそういう人なのかもしれない。自己啓発の入った元ヤンキーで何でもありなネット商売で生きる人。減りつつあると言っても日本の人口は1億2千万。それだけいれば、こういう人も混じって当たり前。そう突き放すのがもっとも正しい外野の態度のようにも思える。 しかし、これは虐待だという声が多いように、まだ10歳の息子当人が気になる。これからどんな青年、どんな大人に育つのかは彼や彼の家族の勝手だが、私が気になるのはこの大炎上を本人がどう感じているか、だ。動画のコメント欄やツイッターの関連ツイートなどを、どう読んでいるのだろう。親が「アンチはロボットと同じだからな」と言い聞かせているかもしれない。だとしても、実名顔出しでここまで世間から袋叩きされた事実は、きっと深いところで傷となる。傷にもならないのならそれはそれで精神構造がおかしすぎる。 具体的に何があって何を思ったのかは知らないが、学校が辛かったなら、転校すればいい。しばらく休んで、クラス替えを機に再登校するでもいいのである。要は、学校は選べるのだ。だが、子供は自分の親を選べない。このような父親のもとに生まれ育ったことは変えられない。その理不尽な現実を動画の画面が表しているようで、痛々しく、この騒動を見ていて私は辛い。 ひとつ確認しておきたいのは、そんな父子の合作である「少年革命家ゆたぼんチャンネル」も、今年の5月5日が来る前までは、ひっそりとした辺境チャンネルの一つにすぎなかったことだ。登録者数は数百で、動画の閲覧数も内輪が見ているプラスα程度だったようだ。 それが5月5日に、先に引用した琉球新報の記事で変わった。オンラインでも流され、大拡散した。記事のタイトルは〈「不登校は不幸じゃない」10歳のユーチューバー 沖縄から世界に配信「ハイサイまいど!〉である。沖縄に天才現る!とでも言いたいかのような、完全持ち上げ記事だ。 マスコミの力が弱くなったといわれるが、発信力はまだまだ健在なのである。オンライン配信もされるようになり、一地方紙の記事でも、こうしてバズることが増えている。そのぶん、新聞社と新聞記者には、重い報道責任がある。炎上の火付け役として、どうケジメをつけるか。 この記事で大炎上となった5日後、琉球新報はまた少年を取り上げた。こんどのタイトルは、〈ダルビッシュさん「自分の好きなように生きればいい」不登校10歳ユーチューバ―への中傷に著名人が反論 茂木健一郎さんも「活動を応援したい」〉であった。 なぜ大炎上したのかを考察、分析するのではない。著名人の関連ツイートを引用しながらの少年擁護というもっとも安易な形をとった。いや、安易な自己弁護の記事だったと言わせてもらおう。火に油をそそぐようなやり方でもあり、現に大炎上は病まず、少年のツイッターアカウントが乗っ取られるなどの事態もおきているのだが、記事の担当記者としてはそれが最善の策だとでも考えたのだろうか。浅はかだ。 一度、ケチのついたユーチューブチャンネルは、主催者がよほど上手な説明責任を果たさない限り、良くも悪くもしつこい一部のネット民たちが火を放ち続ける。父親が自分の失敗に気づき、チャンネルをなるべく早く閉鎖するのが一番だと思うが、そうした反省は期待できないであろう。だったら、儲からないから止める、でいい。少年の傷をより深めないために早期撤退してほしい。 琉球新報については、私は、この騒動の最大責任者だと考えている。言論の自由の前に、言論の責任が存在することを自覚してもらいたい。
2019.05.19 16:00
NEWSポストセブン
平成の紅白は挑戦の連続だった(2018年の紅白に出場したDA PUMP)
平成の紅白歌合戦 打ち切り説を乗り越えた挑戦の歴史
 元号が平成から令和に変わる直前の4月29日、NHKで『総決算!平成紅白歌合戦』が放送された。平成元年から平成30年までの紅白歌合戦をVTRで振り返りながら、第1部では北島三郎、松田聖子、嵐という歌手たちが、第2部では内村光良、バナナマン、出川哲朗、渡辺直美という芸人たちがそれぞれの想いを語った。はたして平成の紅白歌合戦はどのように総括されるのか。「平成の紅白歌合戦は視聴率との戦いだった」と語るのは視聴率研究家でライターの岡野誠氏だ。同氏が、“平成の紅白歌合戦”を振り返る(文中で肩書きは当時。視聴率はビデオリサーチ調べ/関東地区)。 * * * 平成が始まった年、“紅白打ち切り”は現実味を帯びていた。〈本当は今年で最後にして、なくしたい気持ちだ〉(朝日新聞・平成元年9月29日付) 平成元年4月に就任したNHKの島桂次会長は、9月13日の定例記者会見で紅白歌合戦についてこう言及している。 視聴率70~80%台という驚異的な人気を誇っていた大晦日の風物詩は昭和60年代に入ると、急激に数字を落としていた。都はるみの引退、チェッカーズの初出場などで沸いた昭和59年の78.1%から、60年は66.0%に下落。白組司会の加山雄三が少年隊の『仮面舞踏会』を『仮面ライダー』と間違えて紹介したことが話題になった61年には59.4%、62年は55.2%、63年は53.9%とわずか4年で24.2%も激減していた。 いつの時代も、権威の急速な衰えは大きな話題になる。昭和63年の紅白歌合戦を伝える記事の見出しには、こんな言葉が並んでいた。〈NHK「紅白歌合戦」の視聴率がまたダウン〉(読売新聞・昭和64年1月3日付)〈「紅白」関東では過去最低の視聴率〉(朝日新聞・昭和64年1月3日付) この延長線上に、冒頭の島会長の発言があり、打ち切りが囁かれたのだ。平成元年、“昭和を振り返る”という名目もあり、紅白は開始時間を従来の21時から19時15分に改め、初の2部制を敷いた。しかし、視聴率47.0%(2部。以下同)と初めて50%を割ってしまう。島会長は〈公共放送にふさわしい大みそかの番組を職員とともに開発していきたい〉(朝日新聞夕刊・平成2年1月8日付)と紅白に代わる題材を模索した。 結局、めぼしい代案がなかったため、平成2年も紅白は2部制のまま存続。島会長は現場にこんな要求をしていたという。〈紅白のネーミング、大枠は残すにしてもマンネリ化は困る。歌を取り巻く現在の環境も変わっている。新しい時代を反映したものをどこまで出せるか?〉(日刊スポーツ・平成2年10月13日付) 同年、東西統一を果たしたドイツ・ベルリンからの中継で出演した初出場の長渕剛が予定の10分を大きく上回る17分30秒も歌って物議を醸す。23年ぶりに出場した植木等の『スーダラ伝説』も視聴者を呼び込み、51.5%と回復。それでも、島会長は〈外国からの中継を取り入れたりニューメディア時代じゃなきゃできない内容だったが、基本的には変わってないな〉(日刊スポーツ・平成3年1月10日付)と手厳しかった。 だが、平成3年7月に島会長が辞任したことに伴い、流れが変わる。代わって会長の座についた川口幹夫氏は、就任会見で紅白の継続について聞かれると、〈島前会長は「やめる」とかなり強く言っておられたようだが(笑い)、私もやめてもいいと思っている。時代が変われば番組が変わるのは当然。50%の視聴率を取っているし、新しい紅白の誕生を現場に求めています〉(日刊スポーツ・平成3年8月1日付)と存続とも打ち切りとも取れるコメントをしていた。 その後のインタビューで紅白について問われると、こう発言した。〈判断は現場にまかせます。僕らが作っていたころは、会長からは何も言われなかった。現場のやる気を生かすのが、一番いいんです〉(朝日新聞夕刊・平成3年8月23日付) 平成3年も、視聴率51.5%と前年と同じ数字を記録。紅白打ち切り説は消えていった。 以降、平成4年(1992年)は朝ドラ『ひらり』の主題歌『晴れたらいいね』を歌ったドリームズ・カム・トゥルー、ラストステージのチェッカーズ、コンドームパフォーマンスの本木雅弘などが話題を呼んで55.2%、平成10年(1998年)は安室奈美恵の復帰ステージ、初のミリオンセラー『夜空ノムコウ』を披露したSMAP、途中からマイクを通じてではなく地声で歌った和田アキ子などが視聴者の目を引き付けて57.2%を記録。平成11年(1999年)までは50%台を保っていく。 視聴率の安定していた紅白に、再び危機が訪れる。平成12年(2000年)48.4%と11年ぶりに40%台に下がると、4年後には39.3%と初の30%台に突入。この年の視聴率年間1位だったが、メディアはこんな見出しをつけた。〈NHK「紅白」39.3% 海老沢会長窮地、「史上最高」のはずが視聴率史上最低〉(スポーツニッポン・平成17年1月3日付)〈NHK「紅白歌合戦」史上最悪視聴率39.3% K-1は20.1%〉(スポーツ報知・平成17年1月3日付) この年以降、ネットテレビやSNS、スマートフォンなど地上波テレビのライバルが激増していく流れを考えれば、さらに視聴率が下がってもおかしくなかった。しかし、“平成後半の紅白歌合戦”は毎年40%前後に踏みとどまっている。『テレビ離れ』が叫ばれる中で、実に驚異的なことである。 総世帯視聴率(HUT、調査対象の中でテレビを付けている世帯の割合)と比べると、凄さがわかりやすい。【年/ゴールデンタイムの年間HUT/紅白視聴率】・平成16年(2004年)/67.9%/39.3%・平成23年(2011年)/63.9%/41.6%・平成30年(2018年)/60.6%/41.5% 平成16年と30年で、ゴールデンタイムの年間HUTは7.3%減少するも、紅白は2.2%増加しているのだ。 なぜ、平成後半も紅白は40%前後の高視聴率を保てたのだろうか。島会長が指摘していた〈マンネリ〉の良い部分を残しながらも、毎年のようにサプライズを仕掛け、従来のNHKの慣習を少しでも打ち破ろうとする演出側の挑戦が見逃せない。 平成16年に初の30%台に落ちると、それまで4年連続で続けてきた局アナだけの司会を辞め、平成17年はみのもんたを抜擢。過去にも古舘伊知郎や上沼恵美子など民放の人気司会者の起用はあったが、彼らはNHKでレギュラー番組を持っていた。しかし、『みのもんたの朝ズバッ!』(TBS系)、昼の『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ系)など民放でレギュラー番組9本を持っていた超売れっ子も、衛星放送を除けばNHKでの司会は初。その効果もあってか、この年は42.9%と数字を戻す。 平成22年(2010年)以降、NHK連続テレビ小説(朝ドラ)出演者がほとんど毎年、司会に名を連ねていることも大きな変化の1つだ。過去にも昭和40年の林美智子、昭和61年の斉藤由貴、平成4年、5年の石田ひかりと朝ドラヒロインを抜擢していたが、今ではもはや定番となっている。司会者だけには留まらず、平成25年の『あまちゃん』のように朝ドラコーナーも組み込まれている。 平成27年(2015年)には、タモリとマツコ・デラックスという大物タレントを審査員ではなく、中継で繋いだ。平成29年の欅坂46、平成30年のDA PUMPの歌唱時には、司会の内村光良が一緒に踊った……。挙げれば切りがないほど、毎年新しい演出を試みている。 昭和の頃ならタブー視されたこともあるだろうし、「NHKらしくない」「自局の宣伝ばかり」という批判も浴びている。公共放送であるNHKが視聴率を狙い過ぎという指摘も見受けられる。 他番組はさておき、紅白に関しては昭和から年間1位を続け、平成になって1位から陥落した年もあったものの、上位に残り続けている歴史を考えれば、今さら視聴率を完全に無視した構成にすることはないだろう。 むしろ、視聴率を気にしたからこそ、“平成の紅白歌合戦”は芸能界やテレビ界、視聴者の変化そのものを現し、日本のテレビ番組における象徴的な存在となったのではないか。 振り返れば、平成初期の島会長の〈マンネリ化は困る〉という精神は、今も紅白演出の根底にあるように感じる。昭和から続く良い慣習を残しながら、時代に合わせたアレンジを加えて生き延びた紅白歌合戦。令和になっても進化を続けるか。●文/岡野誠:ライター・芸能研究家。研究分野は松木安太郎、生島ヒロシ、視聴率、プロ野球選手名鑑など。最近は角川博チェックにも余念がない。本人へのインタビューや関係者への取材、膨大な資料の緻密な読解を通して、田原俊彦という生き方を描いた著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)が話題に。
2019.05.03 16:00
小芝風花
次は小芝風花の「順番」、朝ドラから5年“勝負の年”に
 放送作家でコラムニストの山田美保子氏が独自の視点で最新芸能ニュースを深掘りする連載「芸能耳年増」。今回は女優・小芝風花について。 * * *「時代」ではなく、「順番」と書かせていただいた。『女性セブン』の「好きな朝ドラヒロインランキング」アンケートで見事1位に輝いた波瑠が主演した2015年度後期の連続テレビ小説『あさが来た』(NHK)で、「あさ」(波瑠)の娘、「千代」を演じていた小芝風花に、ついに「順番」がやってきたのである。 元祖・キャリアウーマンと言っても過言ではなかった母・あさの生き方に反発し、ぶつかることが多かった千代を美少女・小芝が好演していたことは、“朝ドラ”ファンには周知の事実。 ◇“朝ドラ”で親友役だった吉岡里帆は大ブレイク ちなみに千代の女学校の親友役で、千代とは逆に、あさに心酔していた「宣」(のぶ=のぶちゃん)を演じていたのは吉岡里帆だった。 物語の後期、眼鏡少女として、お茶の間に顔を売った吉岡は、朝ドラ終了直後に『ゆとりですがなにか』(日本テレビ系)、さらに翌年は『カルテット』(TBS系)と話題作に次々出演。CMでも、眼鏡女子のまま「URであ~る。」と歌った『UR都市機構』を筆頭に、一気に契約社数を増やしていったものだ。  吉岡は小芝より4才上。売り出すには「今だ」とばかりに、関係者が一丸となり、「主演女優」「CM美女」への階段を駆け上がらせたという感がある。 つまり、小芝は吉岡に遅れをとってしまったワケだが、そこには彼女の年齢の若さや、事務所(オスカープロモーション)内での順番も関係していたのではないかと思われる。  小芝は『全日本国民的美少女コンテスト』ではなく、『イオン×オスカープロモーション ガールズオーディション2011』のグランプリ獲得者。2011年11月のことである。 そんな小芝の名前がマスコミに大きく取り上げられたのは、実写版『魔女の宅急便』で主人公のキキを演じたとき。2014年3月のことだ。特に日本テレビの情報番組での番宣の勢いがものすごかったと記憶している。  が、私が、小芝に注目をしたのは、その前年、2013年のクリスマスにオンエアされた『スケート靴の約束~名古屋女子フィギュア物語~』(テレビ愛知)だった。 小芝は、事務所の“先輩”である本田望結や本田真凛らと共に出演していた。実は小芝も幼少期からフィギュアスケートを習っていたのである。フィギュアの前は器械体操を習っていたとのこと。あのルックスだから、もしもそのまま練習を続けていたなら、日本を代表する美人アスリートになっていたに違いない。 その後、『あさが来た』により、朝ドラのメイン視聴者層(F3=50才以上の女性)に顔を売った小芝。 以前、「NHKには、自局で名前を売った“スターの卵”をしっかり育み、自局の連続ドラマに主演させて、さらに知名度を上げる“パターン”がある」と書かせていただいた。『あまちゃん』の松岡茉優の『水族館ガール』、『あさが来た』の清原果耶の『透明なゆりかご』などがその代表例。◇『トクサツガガガ』でオタク女子の心情を好演 果たして、小芝にもその順番がやってきて、今年1月期の「ドラマ10」『トクサツガガガ』は、多いに話題作となった。 原作者は、丹羽庭氏で、現在も『ビックコミックスピリッツ』で連載中。特撮オタク女子の心情や葛藤を描いている人気作だ。 共演の寺田心や倉科カナ、木南晴夏、さらに母親役の松下由樹ら、演技派たちに助けられてはいたものの、主演の小芝は、原作を読み込み、吹き出しの横に記された手書きの小さな文字を覚えてアドリブに活かすなど、懸命に取り組んだと言われている。 小芝は、4月16日の誕生日で22才になる。というワケで、『トクサツガガガ』の中でOL役をしていても全く違和感がなかったし、まだ子役感が抜けていなかった『スケート靴の約束~』や『あさが来た』の頃から、ぐんと女っぽさを増したことにも注目が集まった さらに、自身の努力によって、オタク女子のデリケートな部分や、特に母親との対立(『あさが来た』に続いて……苦笑)を見事に演じ切ったのである。この作品での彼女の演技や存在感は、テレビ界の賞に匹敵するのではないかと思う。それぐらい、素晴らしかったのである。 大阪府堺市出身なので、バラエティー番組では時折、関西弁が出る。現在、MCをつとめている『オスカル!はなきんリサーチ』(テレビ朝日系)でも、事務所の後輩でもあり年少の岡田結実や籠谷さくらを前に、“仕切り屋”の“毒舌キャラ”と受け取られることがあるのは、関西のノリと、その役割のせいだろう。 さらに、80年代のニューミュージックに詳しいという一面もあるそうだ。それは、フィギュアスケート場までの送り迎えをしてくれていた母のクルマでかかっていたのが、松山千春や甲斐バンド、長渕剛らの曲だったから。 中でも松山の大ファンだったという母が、『大空と大地の中で』で歌われている 風と花から、風花と名付けたと聞いた。 現在、事務所の先輩・上戸彩とTikTokのCMに出ているが、ここでも、ただ美少女というだけでなく、上戸と、ちゃんと“お芝居”している小芝なのである。 事務所関係者は「今年が勝負の年」と公言。3月28日から「ひかりTV」×「大阪チャンネル」で配信中の『TUNAガール』に主演しているほか、彼女が22才の誕生日を迎えたあたりから、解禁される作品情報もあるのではないかと思う。 やっと回ってきた小芝風花の順番。彼女のさまざまな取り組みに興味津々だ。
2019.04.05 07:00
NEWSポストセブン

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