アラン・ドロン一覧

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浜村淳、ラジオでしゃべり続けて45年「浜村節」誕生秘話
浜村淳、ラジオでしゃべり続けて45年「浜村節」誕生秘話
 月曜から土曜まで、毎朝8時から2時間半以上もマイクの前でしゃべり続ける──浜村淳(84)がパーソナリティを務めるラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(毎日放送)が、4月で45周年を迎えた。朝一番に、柔らかな関西風の名調子でニュースを紹介。日替わりゲストを招いてのトークから、「実際の映画より面白い」と評される映画解説まで、幅広い内容を網羅。3世代にわたって愛される関西の人気番組だ。「今の番組ディレクターは、放送開始時は生まれていませんし、俳優の菅田将暉さん(大阪出身)や野村周平さん(神戸出身)のように、子供の頃に聴いていたという芸能界のスターもいます。彼らが番組ゲストとして来てくれると、第一声が『まだやっておられるんですか』ですよ(笑い)」 毎晩10時には寝て、朝5時前に起床。6時にはスタジオに着き、一般紙からスポーツ紙まですべてに目を通し、その日の話題を考える。時間の都合上、実際に紹介できるのは準備したネタの3分の1程度。「反響はすぐに電話やFAXで届きます。『いい勉強になった』と言われると嬉しいですね」 そして8時にひとたび番組が始まると、ノンストップでしゃべる毎日だというから、並大抵ではない。「声を維持するために、仕事以外ではなるべく話さないようにしている」という浜村。平日で2時間半、土曜は3時間半もしゃべり続ける。だが浜村はこう微笑むのだ。「続けてこられた理由のひとつは、楽しくやってきたからでしょうね。何事も楽しまないと長続きしませんから」 1935年、京都に生まれた浜村は、近所で時代劇の撮影が行なわれる環境で育ち、幼少期から映画に魅せられたという。10歳で終戦を迎えると、ラジオから流れる音楽番組やラジオドラマにも夢中になった。地元の同志社大学に進学すると放送部に所属。校内でジャズや映画の解説をしていたところ評判を呼び、次第にジャズ喫茶やラジオ局から声がかかるようになる。「ジャズ喫茶というと今でいうライブハウス。当時はテレビも普及していないし娯楽も少ないから、生歌を聴くのが一種のブームでした。淡谷のり子さんのライブで司会をしたところ、気に入ってくださって、『音楽の本を買って勉強してね』と特別に1000円もいただいたことがあります。今で2万円程の価値になるでしょうか。ありがたかったですね。そのお金で買ったジャズの解説本は、大切にとってあります」 ならばと卒業後に上京、テレビの歌番組に司会者として呼ばれたこともあるが、上手くはいかなかった。「最近は関西出身の芸人が東京で活躍していますが、当時、全国放送での関西訛りは受け入れられませんでした。標準語を話してみても、やはりお国言葉じゃないですから。自分らしく、自由にしゃべれませんでしたね」 10年と経たずに関西に戻った浜村は、再びジャズ喫茶やラジオ局で解説を始めた。なかでも「ジャズ喫茶はいい経験になった」という。「テレビと違い、お客さんの反応がその場で返ってきます。特に大阪のお客さんは厳しくて、『単なるジャズの解説では30分ももたへん。1000円払うたら1000円分笑わせてくれんと承知せんで』と言われました(笑い)」 模索するうちに生まれたのが、出身の京都弁に近い関西訛りで、ゆっくりと聞かせる“浜村節”だった。「関西でやるなら、地元言葉の方がより親しんでもらえます。かといって、本当の話し言葉では品がありません。僕が話すのは関西訛りですが、文字にすると標準語のしゃべり方なんです」 1974年、39歳で始めた『ありがとう浜村淳です』は、長く愛される番組に成長した。それを陰ながら支えてきたのは、9つ年下の妻だ。「奥さんは、自分の服を買いに行っているのに、僕に似合うものがあると、自分は買わずに僕のものだけを買ってくるんです。朝は僕より早く起きて、食事から洋服の準備までして送り出してくれますね。ずっと僕に合わせた生活を続けてくれています」 振り返れば半世紀近くに及ぶ番組史。リスナー500人とハワイに行くなど、これまで20回以上もの「旅行会」を実現。アラン・ドロンやソフィア・ローレン、故・石原裕次郎をゲストに迎えたこともある。今もリスナーにとって、「分かりやすく、面白く、ためになる」の三拍子そろった番組を提供し続けるのが、浜村の願いであり喜びだ。「放送50周年を迎えたい。そのためには、あと5年は続けたいですね」●はまむら・じゅん/1935年、京都市生まれ。パーソナリティ、映画評論家。同志社大学在学中からジャズ喫茶などで司会の仕事を始める。独特の語り口で人気を博し、1968年から『全日本有線放送大賞』(読売テレビ)の司会を24年間務め、1974年放送開始のラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(毎日放送)は46年目に突入。2011年、第37回放送文化基金賞・放送文化賞を受賞。■撮影/佐藤敏和 ■取材・文/戸田梨恵※週刊ポスト2019年5月31日号
2019.05.21 11:00
週刊ポスト
アラン・ドロンが日本のTVに出演、実現までの舞台裏は?
アラン・ドロンが日本のTVに出演、実現までの舞台裏は?
 放送作家でコラムニストの山田美保子氏が独自の視点で最新芸能ニュースを深掘りする連載「芸能耳年増」。今回は、フランスの名優・アラン・ドロンについて。 * * *「めったに番組告知はしないのですが、今回、知り合いの“オーバー50”女性たちにメールで知らせたところ、5分後からケータイが鳴りまくりで驚きました」 とは、9月22日(土)午後10時30分~11時29分にオンエアされる『アラン・ドロン ラストメッセージ~映画、人生…そして孤独』(NHK BSプレミアム)のスタッフに名を連ねる女性プロデューサーの弁。  ちなみに、オーバー50女性たちからの代表的リアクションを記すと、「ドロンに会ったの? どうやって? いつ?」(70代女性)、「私は『太陽がいっぱい』を少なくとも30回以上は見ているのよ」(60代女性)、「中学生のとき、『ロードショー』と『スクリーン』という2つの雑誌を本屋さんで見比べて、ドロンの記事が多いほうを買っていた」「(50代女性)、「『若者のすべて』を見て、真剣にイタリア語を習い始めた」(50代女性)など。「そうした声を聴いていて、やっぱり、皆さん、アラン・ドロンが好きだったんだなと改めて思うと同時に、私も一気に青春時代に戻った気がしました」と、当の女性プロデューサーもコーフンが抑えられない様子だった。 レオさま(レオナルド・ディカプリオ)も、ブラピ(ブラッド・ピット)も、ヨンさま(ぺ・ヨンジュン)も、グンちゃん(チャン・グンソク)もこの世に生まれる前、日本女性の多くを虜にしていたのがフランスの映画俳優、アラン・ドロン。 件のリアクションの中に出てくる『ロードショー』は、『月刊明星』と同じ集英社。『スクリーン』は、『近代映画』と同じ近代映画社が発行元で、どちらも洋画専門の映画雑誌だったのだが、当時の若い女性たちは、それらの雑誌を、いまでいうアイドル誌のように位置付け、買い漁ったものである。  まだ“イケメン”という言葉も“外タレ”という言葉もなかったけれど、日本女性が好む、最強のイケメンであり、最大級の外国人スターがアラン・ドロンだったのだ。 それがどれほど一般に浸透していたかというと、1977年の元日にデビューした榊原郁恵が同年10月に発売した4枚目のシングルが、『アル・パシーノ+アラン・ドロン〈あなた』というタイトルだったことでもわかろう。当代きっての大スター、アラン・ドロンよりも“あなた”が好きだという健気な気持ちを歌ったものだ。  件の女性プロデューサーも青春時代を振り返る。「私が10代の頃、映画は映画館で見るものでした。封切館とは別に名画座があった時代です。そんなとき、ふとしたことで見た『冒険者たち』に魅了され、アラン・ドロンを知りました」  同年代の女性たちがみなそうであったように、彼女も「国宝級、いえ、世界遺産ともいってもいい美貌の虜になりました。当時、ドロンを好きではない女性がいたでしょうか?」と言っていた。 当時、日本はグループサウンズ(GS)ブームでもあり、私のクラスメイトは、、沢田研二がいるザ・タイガースと、萩原健一がいるザ・テンプターズを支持するグループと、それとは別に加山雄三をこよなく愛するグループがあったと記憶する。 洋楽では、お姉さんがいる友達が推すザ・ビートルズと、アイドル的存在のザ・モンキーズがいて、いまから思えば比較するのは不自然なのだが、当時は、大きく分けて2つの派閥があった。  だが、洋画のスターでは、アラン・ドロンがぶっちぎりの1位であり、別格だったのである。 そんなアラン・ドロンが一昨年80才となり、「お元気なうちに会えないものか、映画の話やこれまでの人生について話を聞けないものかという、衝動に似た思いで企画を立ち上げた」と件の女性プロデューサー。  エージェントに手紙をしたためたり、電話連絡をすること半年。彼女の想いはアラン・ドロンに通じ、そこから改めてテレビ局へ提出する企画書を書き上げたのだという。当初、テレビ局のスタッフも「本当に出てくれるの?」と半信半疑だったそうだが、交渉はさらに具現化していき、構想2年、ついにパリでの本人取材が叶ったのだという。 実はそれまでに2度、先方からリスケがあったそうだが、「大スターとは、そういうものか」とスタッフ一同納得したそうだ。2度、キャンセルに遭った理由を、件の女性プロデューサーは次のように分析している。「彼は超がつくほどの完璧主義者だと思うのです。『太陽がいっぱい』に出演したとき、彼を押し上げた多くの日本のファンのために、最高のコンディションでカメラの前に立ちたかったのだと思います」と。そんな彼女は、今年1月、パリの高級ホテルの一室でついにアラン・ドロンと対面した。ちなみにそこは、パリ郊外に住むアラン・ドロンが定宿としているホテルだそうで、御指定だったそうだ。 衣装は「タキシードを着崩したようなスタイル」で、そこにいた女性スタッフ全員が思わず歓声をあげてしまいそうになるほど、それはそれは素敵な出で立ちだったという。緊張のあまり言葉を失う彼女に対し、彼は「ぼくに気を使ってはいけない。お互い、プロフェッショナルとして、いい番組を作ろう」と言ってくれたのだという。 82才になってもなお、全て自分で決めている仕事のスタイルに驚かされた彼女がさらに驚いたのは、「3カメ(カメラが3台あるということ)だったのですが、彼はそれぞれのカメラに映る自分というのを一瞬で把握して、カメラ位置や高さを数センチ単位で変えるよう指示してきたこと」。まさに、プロフェッショナルだったわけだ。 帰国後、改めて『太陽がいっぱい』『山猫』『地下室のメロディー』『ボルサリーノ』など、“ドロン映画”をおさらいしたという彼女。初見も含め、計50本以上の作品を見直した結果、「美貌だけではない、計算しつくされた綿密な演技をする俳優さん」と思い直したという。 マスコミ嫌いと知られていたアラン・ドロンが、なぜ日本のテレビ局の番組に出ようと思ったのか。なぜ波瀾万丈の人生を語ろうと思ったのか。なぜスタッフや共演者にメッセージを残そうとしたのか。それは、9月22日夜、NHK BSプレミアムにて明かされる。 多くのF3(50才以上の女性)からの反響がいまから楽しみでならない。
2018.09.22 07:00
NEWSポストセブン
みうらじゅん「マンダム塗ればヒゲが生えてくると思ってた」
みうらじゅん「マンダム塗ればヒゲが生えてくると思ってた」
 白馬に乗ったチャールズ・ブロンソンが荒野を駆け、水を頭から浴び、顎を撫でて「う~ん、マンダム」──。昨年90周年を迎えたマンダム社の、1970年代に一世を風靡したCMだ。これに大きく影響されたのが、漫画家・イラストレーターなどとして活躍するみうらじゅん氏と俳優の田口トモロヲ氏。「ブロンソンズ」という“コンビ”を結成したのである。雑誌『Tarzan』にて「ブロンソンズの男気ムキムキ人生相談 ブロンソンに聞け」を連載中の2人がブロンソンへの思いを語り合った。みうら:男気の権化、ブロンソンを伝えたくて、1994年に「ブロンソンズ」を結成したんだよね。田口:CMを観た時の衝撃は忘れられない。だってカッコいいのか悪いのかわからない新しい価値観だった。「う~ん、マンダム!!」という台詞も、苦しんでいるのかと思って心配したくらいだし(笑い)。みうら:それまではやはりアラン・ドロンのようなイケ面がもてはやされていたけど、ブロンソンは「醜男こそいいんだ」と“カッコ良さ”の価値観を変えてくれたんですよ。田口:「ブロンソン革命」と呼んでいいですよ。CMが始まった時が中学1年。生まれて初めて買った男性化粧品がマンダムだった。みうら:塗れば、ヒゲが生えてくると思ったし、ブロンソンが作った化粧品だと思い込んでいた(笑い)。彼はたくさん映画に出ているけど、やはりキャッチーなのはマンダムのCMですよ。妻のジル・アイアランドを指名して何本も映画に出演させたけど、そんな公私混同もブロンソン・ルールだから(笑い)。田口:僕らも年を取ってきたから、銀杏BOYZの峯田和伸君に入ってもらった。若い世代にブロンソンを語り継いでもらいたいから。※週刊ポスト2018年9月14日号
2018.09.09 07:00
週刊ポスト
「う~ん、マンダム」CMを演出した大林宣彦監督が明かす裏話
「う~ん、マンダム」CMを演出した大林宣彦監督が明かす裏話
 白馬に乗ったチャールズ・ブロンソンが荒野を駆け、水を頭から浴び、顎を撫でて「う~ん、マンダム」──。昨年90周年を迎えたマンダム社の、1970年代に一世を風靡したCMだ。CMソングは130万枚の売り上げを記録し、店頭に貼られたポスターは次々と持ち去られた。CMを制作した西谷尚雄氏(当時大阪電通)が、ブロンソン起用のいきさつを語る。「周りからは『ハリウッド俳優なんて使えるわけがない』と呆れられましたが、ビートルズの来日を実現させたプロモーターの永島達司さんを通してオファーを送ると、『ブロンソン映画の宣伝に好都合』と破格に安い出演料3万ドル(約1000万円)で承諾してくれたのです」 当時、ブロンソンとアラン・ドロンが共演した映画『さらば友よ』が日本でもヒットしていたが、2人の知名度の差は歴然だった。「男性化粧品のCMなら美男のドロン」に傾いていたマンダムの西村彦次社長が、最終的にブロンソンを指名したのは、西谷氏と演出を担当した映画監督・大林宣彦氏の熱意だった。 渡米して撮影に入ると、ブロンソンは大林監督に「僕の人生初の単独主演作品。何でも一所懸命やるから」と握手を求めてきた。「西部劇の聖地として知られるモニュメントバレーでの撮影を提案すると、『僕にも憧れの場所だが、家族も一緒で良い?』と。結婚したばかりのジル・アイアランドと前妻の子どもたちを呼んで、総勢20人のロケに(笑い)。強面なイメージですが、愛妻家で家族思いなんですよ」(大林監督) ロケ地でブロンソンは、意外な一面を見せたという。ハリウッド俳優は危険を避けるため吹き替えが基本だったからか、馬に乗れず、拳銃の使い方もお世辞にも上手とは言えなかった。「私の方がよほど上手」(大林監督)だったという。 さらに、CMラストの「う~ん、マンダム」と呟きながら髭を触る演出にも、意外な裏話があった。「演出プランにあったわけじゃないんです。撮影スタジオの控え室で、生やしはじめた髭を気にして手で撫でていた彼の仕草を見て閃いた。『僕は演技者です。これは演技じゃないけど』と戸惑っていましたけどね(笑い)。普段の仕草が、彼の人柄で愛されたのですね」(大林監督) 一世を風靡した映像は、こうして才気溢れる気鋭のクリエーターとハリウッドスターの出会いによって誕生した。※週刊ポスト2018年9月14日号
2018.09.07 16:00
週刊ポスト
見応えあるビジュアル系社史 総重量4.6kg、海外VIP写真など
見応えあるビジュアル系社史 総重量4.6kg、海外VIP写真など
 退屈すぎて社員にすら読まれていない──会社の歴史が書かれた「社史」のイメージは見事に覆される。社史編纂に会社を挙げて取り組み、見応え、読み応えのある社史を作った企業がいくつも存在するのだ。 日本最大の社史コレクションを誇る神奈川県立川崎図書館所蔵の「見て刺激的、触って興奮」の“ビジュアル系社史”を紹介する。 川崎図書館所蔵の社史で最も重いのが『東京急行電鉄50年史』。重量は4.64kg、厚さは7.7cmで、とても片手では持ちきれないほどである。私鉄トップ、年間11億人以上の乗客を乗せる“重み”を感じさせる。 1999年に刊行されたワコールの社史はとにかく華やか。女性の社会進出と社会情勢、ファッションには深く関わりがあるところから時勢を反映したつくりとなっており、中にはパルコのヌードポスター(1975年)やマドンナの写真なども載っている。 帝国ホテルの『帝国ホテルの120年』には、戦前、戦後の帝国ホテルの建物だけでなく、女優のマリリン・モンロー、ロバート・ケネディ(元米司法長官)、映画俳優のアラン・ドロンら宿泊したVIPがくつろぐ写真が収められている。 東京駅・丸の内駅舎内にある東京ステーションホテルの100年史『東京ステーションホテルのあゆみ』は、関東大震災などの歴史を写真で振り返り、宿泊した江戸川乱歩など文豪に加え東郷平八郎らの顔もずらりと並ぶ、名門ホテルとしての歴史を感じさせる1冊。 江戸時代からの三井の歴史を綴った『三井事業史』(2001年最終巻刊)は本編・資料編合わせて全10冊に上る。江戸時代前期に創業した「越後屋」の時代から始まるグループ企業のルーツを横断的に描き、本編の最終巻(本編第三巻下)には戦後の三井財閥解体について記されている。NHK朝ドラのモデルになった三井家出身の広岡浅子の実家や兄弟も登場する。※週刊ポスト2018年1月12・19日号
2018.01.09 07:00
週刊ポスト
小林亜星「このあたりで人類は終わるんじゃないか」
小林亜星「このあたりで人類は終わるんじゃないか」
 老若男女問わず、誰もが口ずさめる大衆歌はいつしか消えた。人の関心は多様化し、流行はめまぐるしく移ろう。それが平成という時代。昭和のど真ん中を歩いてきた作曲家・小林亜星は今、なにを思うか。 小林亜星は、都はるみの「北の宿から」で日本レコード大賞をとり、日立の「この木なんの木」など数々のCMソングの作曲家として知られている。だが、彼の活動分野は俳優、歌手にも及んでおり、元祖マルチタレントといった方がぴったりくる。特にTBSテレビの「寺内貫太郎一家」に頑固親父役で主演したときは、“しゃべる大道具”と酷評されながら、圧倒的な存在感で30%を超える平均視聴率を叩き出した。 小林は自分の仕事を“ちんどん稼業”と言う。エメロンシャンプーの「ふりむかないで」やアラン・ドロンを起用したダーバンのCMソングなどを多作してきた小林にとって、日本のサブカルチャーを牽引してきたのは自分だという自負が、一見卑下した言い方になったのだろう。 小林の事務所は赤坂TBS裏手のライオンズマンション内にある。部屋の外はコンクリートの廊下となっており、見るからに古い造りである。小林が日本最初のライオンズマンションとなるこの部屋を事務所として使い始めたのは、30歳前だからもう50年以上になる。 ライオンズマンションというと、今では大衆マンションの代名詞となっているが、当時は洒落たマンションのはしりだったという。「李香蘭(山口淑子)はじめ、有名人が沢山いた。ここは目の前が日本コロムビアだったし、TBSも近くだったので、音楽やテレビ関係者が多く住んでいました」 日本コロムビアは、美空ひばり、島倉千代子など昭和を代表する歌手を輩出したレコード会社である。 小林の著書の『亜星流!ちんどん商売ハンセイ記』の中に、CMディレクターの杉山登志が自殺した日のことが書かれている。杉山は資生堂のコマーシャルなどで数々の賞を受け、CM業界の寵児と持て囃された。その男がクリスマスまであと10日あまりと迫った1973年冬、自宅マンションで首を吊って自殺した。37歳だった。遺書にはこう書かれていた。「リッチでもないのに、リッチな世界などわかりません。ハッピーでもないのに、ハッピーな世界など描けません。〈夢〉がないのに、〈夢〉を売ることなどは……トテモ、嘘をついてもばれるものです」 杉山が自殺したのは、小林のオフィスの真下の部屋だった。小林は著書で書いている。〈ある朝、僕がいつものように赤坂にある自分の事務所に行くと、管理人さんがとんで来て「大変です、亜星さん、自殺者が出たんです」と言ったんです。そのとき僕はなぜか直感的に、トシだ、と思いました。僕の事務所が三〇五号室で、彼はすぐ真下の二〇五号室に住んでいました〉 世間は杉山の早すぎる死をこぞって悼んだ。だが、小林の見方は少し違い、同書で大意こう述べている。 彼の生き方はカッコよさばかりに価値観を見出す今の日本の若者に大変似ている。生きるっていうことは、すごくダサいことなのに、ファッショナブルな世界を撮り続けなければならなかった彼はそのギャップに悩まされ、遂に死の誘惑に負けた……。 杉山は何事にもリッチさとハッピーさを求める時代の要請に負けて自死を遂げた。が、自分の職業を“ちんどん稼業”と見定めた小林は84歳になる今日まで図太く生き抜いた。 満州国が建国された1932年に生まれた小林は、間もなく生前退位される天皇より1歳年上である。──小林さんにとって平成とはどんな時代でしたか。「いまは昭和の時代に比べて比較にならないくらい情報量はふえているのに、行き詰まり感ばかりが増しているという感じがしますね」 小林は熱狂的な洋画ファンである。──実は昨日、アカデミー賞を総なめするといわれた「ラ・ラ・ランド」を観てきました。はっきり言って評判倒れの映画でした。小林さんが激賞している「巴里のアメリカ人」や「雨に唄えば」などと比較すると、はるか足元にも及ばない。「そのミュージカル映画を私は観ていませんが、よくわかります。大体、映画にしても音楽にしても、ヒットするのは8割以上がアメリカ発のものだったんです。今はジャズも衰退するし、ハリウッドも弱体化する一方です。アメリカだけでなく、人類みんなが昔の勢いがなくなっちゃったという感じですね」 これを聞き、トランプが大統領になったのも、衰微した「国力」をなんとか回復しようとするアメリカの窮余の一策ではないかと思った。そう言うと、小林は「そう思いますね。ヒットラーだって選挙で選ばれた」とつづけた。小林は、ヒットラーは独裁で政権をとったと思われているが、実は選挙で政権をとった、だから恐ろしい、と言っている。この意見に戦中派の自負と自省が垣間見えた。──世界的にリビドーが落ちているというわけですね。「黒澤(明)さんや小津(安二郎)さんがいた頃は、日本映画にも力があった。いまあるのは閉塞感だけです。このあたりで人類は終わるんじゃないかって気もする」◆「戦前にもエロ本は出版されてた」 小林は平成より昭和の時代をずっと長く生きている。──昭和の時代をどう思いますか。「そうですね、ひどい戦争があって、その焼け跡から人々がみな立ち上がって奇跡的に日本が再建できた。それから、みんな食いまくり飲みまくったバブルの時代があり、それが崩壊して平成という時代がやってきた。ところが最近の風潮を見ていると、下手すると日本人がまた戦争に向かうんじゃないかと思うことがある」──それはなぜだと思いますか。「戦争を肌身で知っている我々の世代は二度と戦争をしないと誓った。それが平成になって風向きが変わり始めたのは、戦争から70年あまり経つと人間という生き物は、過去のことをすっかり忘れちゃう習性があるからとしか思えません。いま大阪の方のヘンな幼稚園でヘンな歌を歌わしているでしょ」──国有地払い下げ問題で世間を騒がせている森友学園ですね。園児に「教育勅語」を暗唱させ、「愛国行進曲」を歌わせている。「あれを見てまだ僕が5、6歳の頃、右翼がオート三輪に乗って『愛国行進曲』をガンガン流して町中を行進してゆく姿を思い出しました。まだ戦争前でしたが、世の中がどんどん退廃的になっていった。 ダンスホールは朝方までやっているし、人々は『東京音頭』で毎日お祭りのように踊りまくっている。戦争前は財閥や軍人が威張って、窮屈な時代だったと思っている人が多いけど、そんなことはありません。エロ本だって梅原北明(*1)や斎藤昌三(*2)が盛んに出版していた」【*1/大正・昭和時代の編集者・翻訳家。性風俗関係の書籍を刊行し、その多くが発禁処分に】【*2/大正・昭和時代の書物研究家・編集者。雑誌「いもづる」「書物往来」などを創刊した】 戦前の日本は恐しく明るかった。戦前というと、つい眦を決した特攻隊という印象に囚われがちだったので、この見方には意表をつかれた。【PROFILE】こばやし あせい:1932年、東京都生まれ。慶應大学経済学部卒業。服部正に師事し、1961年に作曲家デビュー。歌謡曲、ドラマ音楽、CMソング、アニメの主題歌など多数作曲。1974年、向田邦子脚本「寺内貫太郎一家」の父親役に起用され、俳優としても脚光を浴びる。76年、都はるみに楽曲提供した「北の宿から」で日本レコード大賞。■聞き手/佐野眞一(ノンフィクション作家)※SAPIO2017年6月号
2017.05.10 16:00
SAPIO
二階堂ふみ 『若者のすべて』のアラン・ドロンを素敵だと思った
二階堂ふみ 『若者のすべて』のアラン・ドロンを素敵だと思った
 女優・二階堂ふみ(21)が、14日に行われたルキノ・ビスコンティ監督の『若者のすべて』4K完全修復版のジャパンプレミアに出席し、同作に対する思いを述べた。同作は1960年公開で主演はアラン・ドロン。 二階堂は、16才の時に同作を初めて観て、ドロンのカッコ良さを素敵だと思ったという。2時間48分の大作だが、まったく飽きがこないと述べて、さらにはドロンの横顔があまりにも素敵で一時停止して見たくなるほどだという。 この日の二階堂は自身が選んだというグッチの衣装を身にまとい登場した。■撮影:小彼英一
2016.05.03 16:00
女性セブン
表現の自由どこまで?(graphicalicious/PIXTA)
煙草シーン映画にR指定勧告 「若者の喫煙助長」は本当か
 映画が未成年者の喫煙を助長している――。2月1日、WHO(世界保健機関)が出した「勧告」が波紋を広げている。 WHOによれば、2014年に上映された米ハリウッド映画の44%に喫煙シーンが登場したほか、米国で喫煙を始めた青年の37%が、映画がきっかけだったとする調査結果もあるという。そこで、喫煙シーンのある映画について、「R指定」などの年齢制限を設けたり、放映前に“禁煙広告”を流したりする措置を取るよう各国に勧告したのだ。 これに対し、すぐさま全英映像等級審査機構が〈喫煙する場面を含むからといって、成人指定にする必要はない〉との見解を示すなど、反発が強まっている。日本でも賛否両論が渦巻いているが、ネット上のアンケート調査などを見ると反対意見が多数を占める。巷ではこんな声が聞かれた。「シャーロック・ホームズも刑事コロンボも鬼平犯科帳もルパン三世もワンピースもみんな18禁にでもするのか。あり得ない話」(40代男性)「それを言い出したら殺人シーンも若者の残虐な犯罪を誘発するからと、すべてカットしなければならず、行き過ぎた規制だと思う」(30代男性) ツイッターでは【タバコを吸う海外俳優画像祭】というハッシュタグで、コロンボ役のピーター・フォークやオードリー・ヘップバーンほか多数の喫煙画像がツイートされる「反対運動」まで起きている。「往年の名作には、たばこが表現の幅を広げる重要な小道具として使われたケースが多い」と話すのは、映画評論家の野村正昭氏だ。「ハードボイルドの最高傑作と呼ばれた探偵モノの『ロング・グッドバイ』(1973)や、ウィレム・デフォーが戦場でたばこを吸う『プラトーン』(1986)など、画面にたばこが出てくる名作は無限にあって挙げきれません。 映画史上最高にたばこを効果的に使ったのは、アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソン主演の『さらば友よ』(1968)でしょうね。ラストシーンで警察に連行されるブロンソンが咥えたたばこに、他人のふりをしながら無言で火を貸すアラン・ドロンの姿はとても印象的でした。こうしたシーンはたばこなくしては生まれなかったでしょう」 日本映画でも刑事モノやアクションシリーズ、時代劇などで、喫煙シーンは台詞をつなぐ「間」に使われたり、場面転換、煙による空間演出を表現したりするのに欠かせないアイテムだった。 ところが、近年の過度なたばこバッシングにより、作り手も委縮せざるを得ない状況に追い込まれている。大手映画会社の幹部が嘆く。「昔の刑事モノといえば、捜査班のボスが事件解決後に決まって一服し、どうかしたら足で吸い殻を揉み消して颯爽と去っていくシーンもありましたが、今そんな作品を撮ったら大変です。 もちろん、敢えて荒唐無稽な作品にする必要はありませんが、合法でもあるたばこを使ったシーン自体がNGになれば、劇場の大画面だからこそ味わえる場面の深みや登場人物の感情表現、時代背景などの演出効果も薄れてしまいます。映画はわざわざお金を払って観に来てもらうもの。『表現の自由』を手放してしまったら終わりです」 映画評論家、野村氏もWHOの勧告は「まったくのナンセンスで、憲法で保障されている〈表現の自由〉の侵害にあたる」と断罪する。弁護士の中には、未成年者の「基本的権利」を奪うものだ――との指摘も出ている。 そもそも米国と同じように、日本の若者の多くが映画をきっかけにたばこを吸い始めるとは限らない。今から10年前に市場調査会社のマクロミルが発表した「タバコに関する意識調査」によると、喫煙を始めたきっかけのトップは「友人」(52.9%)で、「テレビ・映画」はわずか5.8%だった。 しかも、映画より身近なテレビやCMは、すでに自主規制の嵐が吹き荒れている。脚本家の倉本聰氏が〈まるで検閲のようにたばこの出てくるシーンを削除されてしまう〉と打ち明けているように、テレビドラマの喫煙シーンはめっきり見かけなくなった。 また、たばこ製品のテレビCMはとっくに消滅、嗜好品で残る酒類のCMも喉元を映して「ごくごく」という効果音を立てる表現を取りやめるなど、次々と制約が設けられている。それでもなお、若者に悪影響が及ぶというのか。「表現の受け止め方は人によって違う。いくらカッコイイ主人公が紫煙をくゆらせたり、夜の酒場でウイスキーを煽ったりする映画を見続けたからといって、酒もたばこも一切やらない人はいる」 前出の40代男性が続けた意見はごもっともだ。2013年に宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』の喫煙シーンを巡って物議を醸した際、当サイトでも経済アナリストの森永卓郎氏や生物学者の池田清彦氏らのコメントを紹介しながら、文化や芸術にまで介入する喫煙規制、多様性を認めない社会風潮について疑問を投げかけた。 WHOの勧告により再び論争が起きている今こそ、「表現の自由」の範疇はどこまでか、そして、映画やテレビ、CMにおけるたばこの規制強化は本当に必要なのか、改めて議論すべきだろう。
2016.02.16 16:00
NEWSポストセブン
SMAP解散騒動 依存度高いフジテレビにとって深刻な痛手に
SMAP解散騒動 依存度高いフジテレビにとって深刻な痛手に
 国民的アイドルグループSMAPの解散報道、続いて所属事務所が「協議・交渉中」と解散の可能性を認めたことで、頭を抱えているテレビ局がある。放送20年目を迎えた人気番組「SMAP×SMAP」を放送しているフジテレビだ。「かつてのように視聴率20%を連発することはなくなりましたが、二桁視聴率が見込める貴重な番組です。最近のフジは一日中視聴率が一桁、なんて日も珍しくないんですよ。テレビというのは前後に放送される番組の視聴率の影響が大きいのですが、月9ドラマが不調でも『SMAP×SMAP』は10%をキープしている。よっぽどのことがないと終わらないと思っていたのですが雲行きが怪しくなってきました」(テレビ番組制作会社スタッフ) 1996年4月から放送が始まった「SMAP×SMAP」は、現在ではメンバー5人が揃って出演する唯一のテレビレギュラー番組だ。看板コーナーである「BISTRO SMAP」では、レストランのオーナーとシェフに扮したSMAPのメンバーが、来店したゲストのオーダーに合わせた料理を振る舞う。 同コーナーには豪華ゲストが出演することでも知られており、日本の芸能人や有名スポーツ選手だけでなく、小泉純一郎や安倍晋三、首相退任後の細川護熙など政治家や、アーノルド・シュワルツネッガーにアラン・ドロン、シャーリーズ・セロンやマット・デイモン、マドンナやレディ・ガガなど世界的スターが続々と出演している。「『SMAP×SMAP』は視聴率だけでなく、テレビ局のステータスとしても貴重な番組です。たとえ映画の宣伝のための来日であっても、普通は日本のバラエティ番組にハリウッドスターは出演しようとしない。でも『BISTRO SMAP』は特別。そういうスペシャルな場所というのは、新しく作ろうと思っても簡単に出来るものじゃないです」(広告代理店関係者) フジテレビとSMAPの関係は深い。グループとして初のレギュラー番組はフジテレビの日曜昼に放送されていたバラエティ番組で、人気上昇のきっかけとなった番組「夢がMORIMORI」も、木村拓哉の知名度を上げたドラマ「あすなろ白書」も主演した昨年のヒット映画「HERO」もフジテレビ制作だ。現在も冠番組「SMAP×SMAP」以外に27時間テレビやFNS歌謡祭など、メンバーそろっての番組出演は惹句になっている。 週の平均視聴率が民放最下位を記録したり、初の赤字など暗いニュースが続くフジテレビだが、この新たな苦境を乗り越えられるか。
2016.01.14 07:00
NEWSポストセブン
【著者に訊け】沢木耕太郎が映画について綴った『銀の街から』
【著者に訊け】沢木耕太郎が映画について綴った『銀の街から』
【著者に訊け】沢木耕太郎氏/『銀の街から』/朝日新聞出版/1600円+税 先月と今月、順次刊行される、沢木耕太郎氏の映画エッセイ『銀の街から』と『銀の森へ』(3月20日発売)。後書きには〈私には映画館に入るという行為が、なんとなく暗い神秘的な森に入っていくという感じがしてならない〉とあり、なるほど「街から森へ」の方が、たしかに流れはいい。「元々は15年前に朝日新聞で始めた連載が『銀の森へ』で、それが朝刊に移動して『銀の街から』になった。今は『街』のまま、また夕刊に戻りましたけど(笑い)」 本書はその月々の封切作を紹介した最近の約7年分、計90本を収録しているが、1作につき3頁足らずの文章が、殊のほか味わい深い。映画を観る楽しみはその時空間にたゆたう愉悦そのものとも言えるが、沢木氏の映画評も然り。その一文一文にいつまでも浸っていたくなり、次の頁を繰る手がつい止まりがちになる。「僕は映画評論家と違って語るべき薀蓄も知識もないし、ネタバレという言葉もあまり好きではない。仮にあらすじを知っていても、僕らはその映画でしか観られない何かを観に行くわけで、単なる映画紹介を超えて楽しめる読み物を毎月書いてきたつもりです」 それはあらすじでも結末でもなく、その映画をその映画たらしめる核のようなもの、と解釈すればいいのだろう。例えば『天然コケッコー』(2007年 山下敦弘監督)のこんな紹介──。〈夢のような土地に、夢のような学校がある〉〈そよが、この「夢のような時間」もやがて消え去るものなのだということに気がつくようになったとき、すでにそよの成長物語としてのこの映画は完結している〉〈だとすれば、後半におけるそよの「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」という独白は必要のないものだ〉〈その思いは、この映画が、全編を通して、見ている者に静かに語りかけつづけていたはずのものであり、また、見ている者が『天然コケッコー』の世界をたゆたっているあいだ、常に感じつづけていたはずのものであるからだ〉「つまりその台詞がいわんとすることはもう十分描けている。最近も朝日新聞の連載で『アメリカン・スナイパー』のある場面に焦点を当てましたが、それはむしろ僕がこの映画で最も感心した点とは真逆のシーンだった。つまり全体を輝かせる断片を表面的な是非を超えて切り取れると、割合、うまくいきます」 具体的には週2本、月に8本程度の新作を観た上で、今月はこれと思える作品を探す生活を15年間続けた。「そもそも僕は小1から中3の9年間くらい、伯父が東映の封切館に勤めていた関係で東映の時代劇を毎週観ていた時代があるんですよ。今から思うと、そのお陰で映画の基礎が身についた気がしますね」 その後はアートシアター系の作品に熱中もしたが、「転機は『タワーリング・インフェルノ』でした。そういう時代でもあったのだけれど、難解=高尚、と勘違いしていた僕を友人がこういう映画も見に行こうと誘い出してくれ、そうか、こういう映画を面白いと言えなきゃダメなんだと気づいた。以来観客を楽しませてこそ、という大原則が映画を判断するベースです」 内外の小品から大作までを観続けた沢木氏に、昨今の映画事情はどう映るのか。「もちろん傑作はあるけど、個人的に印象に残る映画となると、『ローマの休日』であり『アラビアのロレンス』であり、ジャン・ギャバンとアラン・ドロンが共演した『地下室のメロディー』の3本。これに匹敵する名画にこの15年間で出会えたかというと哀しいかな、ノーと言わざるを得ない。 それは僕の感受性が衰えたのか、映画が衰えたのか、その両方かもしれないけど、僕らが若い頃、大江健三郎さんの『万延元年のフットボール』(1967年)が出た時の衝撃は一つの事件だったし、社会に対する発信力や出来事性を、僕の作品を含めた文学や映画や音楽が持てなくなっているのかもしれない。 一方で、いつかこの一本の映画さえあれば他はなくていいとまで思える〈生涯の一作〉に出会いたいという希望だけは、失いたくないでしょう?」 観客とスクリーンの間にその瞬間だけ生じる一回性の現象を、氏は映画と呼ぶ。「以前、ある年長の作家に聞かれました。『君は本棚を整理する時、まだ読んでない本と読んだ本のどっちを捨てる?』って。僕が当然読んだ本を捨てると言うと、『君は若いな。本当に大事なのはこれから読む本より、既に読んだ本だよ』って。 その意味が今は分かる。同じ映画を観ても観る人次第で全く違う電流が流れたり、昔観た映画が全く新しいものに思えたりもするでしょう。その一回性が映画の魅力で、その役を演じるために生まれてきたような俳優が1人いるだけで観る価値があるし、その監督やスタッフが2度と作れないものを作るからこそ、その映画は素晴らしくなる。 僕はよく“完璧な時間”という表現を使うんですが、監督や役者が果ての果ての極限まで行って得たものを、僕らが受け取るのも一回きり。そこに生まれる完璧な一瞬に僕は出会いたくて、たぶんこれからも観た映画や読んだ本を積み重ねていくんだと思います」 この世に永遠など存在しない。だから一瞬が美しく愛おしい。その事実を否応なく知る大人による大人のための、街から森への映画案内だ。【著者プロフィール】沢木耕太郎(さわき・こうたろう):1947年東京生まれ。横浜国立大学経済学部卒。1979年『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、1981年『一瞬の夏』で新田次郎文学賞、1993年『深夜特急第三便』でJTB紀行文学賞、2003年菊池寛賞、2005年『凍』で講談社ノンフィクション賞、2013年『キャパの十字架』で司馬遼太郎賞。「1970年代にスポーツノンフィクションを書き始めて以来、常に自分なりの表現方法を開拓してきた。もちろん、この映画論も」。180cm、65kg、O型。(構成/橋本紀子)※週刊ポスト2015年3月27日号
2015.03.19 16:00
週刊ポスト
宮本武蔵より「時計じかけの木村拓哉」見てみたいと女性作家
宮本武蔵より「時計じかけの木村拓哉」見てみたいと女性作家
 数字を期待される役者は有形無形の重圧にさらされる。視聴者の厳しい視線こそが、役者を成長させるのもまた事実だ。作家で五感生活研究所代表の山下柚実氏が、話題のドラマについて考察した。 * * * 3月15、16日に放送された鳴り物入りのスペシャルドラマ、木村拓哉主演「宮本武蔵」(テレビ朝日系)。視聴率は第1話14.2%、第2話12.6%。なんだかパッとしない結果に終わりました。ネットを見回してみても、視聴者の厳しい感想が目につきます。 いったいなぜ、2日にもわたって5時間もかけて、しかもテレビ局開局55周年と銘打ったスペシャルな枠組みで、こんな結果になったのか? みんなの謎です。何が、原因なのでしょう? このドラマを見て、一つ気付いたことがありました。「真木よう子って、こんなにヘタな役者だったの?」ということ。演技が「下手」、セリフが「棒読み」、女優として「大根」という書き込みがネット上でも見受けられました。やっぱり私と同じように感じていた視聴者は多いらしい。好きな役者さんだったのに、な。 今回の真木さんは、残念な登場の仕方でした。新劇セリフがひっかかって、口から滑らかに出てこない。姿もお芝居も、「お通」というヒロインの役柄に見えてこない。だから、ドラマに没入できない。どんどんさめてしまう。そんな所にも、このドラマ作りそのものをめぐって問題点が現れていたのではないでしょうか。 真木よう子は、いわゆる演技派ではなくて、個性派。テイスト感がいい。持っている雰囲気が独特。その特性を引き出したり生かすような脚本や演出ができなければ、むしろ、彼女の「技術的な不足」ばかりが目についてしまう。「宮本武蔵」は、それが露呈してしまったドラマだったと言えるのでは。 さらに、主役の宮本武蔵には、お通よりも、もっと多くの???が。 そもそも「キムタク」って何なのだろう? この世の中で、今、何を期待されている存在なんだろうか? どんな役割を果たすことを望まれているんだろうか? 「宮本武蔵」はそんな意味からも考え込まされるドラマだった。 誰もが認める超二枚目アイドルの時期は明らかに過ぎ去りました。それでも、役柄を背負い続けて走る男、キムタク。 たしかにこれまでそうした二枚目俳優は何人かは存在した。でも今のキムタクには、多くの視聴者が、もはや「痛々しさ」まで感じ始めているようです。剣豪にはとても見えないキムタクによって、真木よう子の演技ベタまでがはっきりと浮き彫りにされてしまったとすれば。何という悲劇でしょうか。 かつて、トレンディドラマのヒーロー時代に、キムタクとヒロインの演じ方・見せ方には「様式」や「型」がありました。ちょっとした言葉のやりとりを、スピード感あるキャッチボールのようにポンポンと受け渡し、楽しませる技術。口先芝居の軽やかなライブ感。細やかなしぐさやちょっとした目つきから生まれるリアリティ。それが、他のドラマでは見ることのできない、都会的で軽快な魅力となり商品性にもなっていたのではないでしょうか。 でも、少なくとも宮本武蔵にその「様式」は成立せず。だからといって、剣豪としての「型」を見せることもできず。ひたすら剣の道を求める求道者にも見えないし、人を斬る迫力も怪しさも感じない。果たして、キムタクは宮本武蔵の、何を演じたかったのか? 第1話が終った後に、第2話の宣伝もかねてでしょう、キムタクが登場した「スマステーション」(テレビ朝日)。その番組の中で視聴者から問いかけが入りました。「二人で演じたいのはどんなドラマ?」 質問に、「相棒なんてどう?」と好き勝手にキムタクに問いかける香取慎吾。 一方で、しばらく考えこみ、どんなドラマがいいのか、なかなか答えられず固まったままのキムタク。その姿に、行き先の定まらないアイドルの苦悩を感じとったのは私だけでしょうか? キムタクが2枚目アイドルから脱皮し、1人の成熟した役者として生きていくには……まず「これをやりたいんだ」という、ほとばしる肉声が聞きたい。他者によって作られるアイドルではなく、自分の意志で演じる道を歩んでみて欲しい。単なるアイドルであることを、越えて欲しい。 たとえば……無茶ぶりということを承知でいえば、キムタク主演の「時計じかけのオレンジ」(監督 スタンリー・キューブリック)なんて、見てみたくないですか? 私は見てみたい。狂気を孕んだキムタクの、どこまでも透明なままに爆発する暴力性。 ロードームービーならば、「イージー・ライダー」(監督 デニス・ホッパー)。あんな映画に挑戦して欲しい。剣道で鍛えた腕っ節でチョッパーバイクを引き回し、社会の硬直した制度と大地を思い切りねじふせて、世の中へのいらだちをぶつける。そんなキムタク、あり得ないでしょうか? あるいは、二枚目のカードを切るなら、「太陽がいっぱい」。(監督ルネ・クレマン)。アラン・ドロンに学んで、憂いをたたえた退廃的な二枚目を、演じてきってみて欲しい、あっち側まで振り切れて、遙か彼方へ飛んで行って欲しい。アロン・ドランはこの映画で、単なる二枚目を超える挑戦に打って出たのです。 要するに、求められた二枚目像に答えるのはもういい。破綻していいから自分本位の役者へと向かっていって欲しい。そんなキムタクに会ってみたい、と願うのは、もはや私だけではないはずです。
2014.03.22 16:00
NEWSポストセブン
【プレゼント】伝説のギャング映画リマスター版の劇場鑑賞券
【プレゼント】伝説のギャング映画リマスター版の劇場鑑賞券
 映画史に残る伝説のギャング映画『ボルサリーノ』。本作が44年ぶりにデジタル・リマスター版にて3月1日(土)からシネマート六本木で1週間限定ロードショー公開されます。1930年代のマルセイユ。青春の野心とロマンを生きたふたりの男、シフレディ(アラン・ドロン)とカペラ(ジャン=ポール・ベルモンド)の壮絶な生き様を描いた作品です。 今回は公開を記念し、劇場鑑賞券(3月1日~7日までシネマート六本木のみ使用可能)を抽選により10組20名様にプレゼント。●宛先/〒151-0053 東京都渋谷区代々木2-26-5-217 トラヴィス「ボルサリーノ」Wポスト係●応募方法/はがきに、住所・氏名・職業・年齢・電話番号を記して宛先へ。ご記入いただいた個人情報は、景品発送のみに利用し、そのほかの目的では利用致しません。●締め切り/2月19日(水)当日消印有効。●当選者発表/プレゼント品の発送をもってかえさせていただきます。※週刊ポスト2014年2月21日号
2014.02.12 16:00
週刊ポスト
近藤正臣 役柄へこだわり徹底的に台本読み小道具を自ら用意
近藤正臣 役柄へこだわり徹底的に台本読み小道具を自ら用意
 数多くのドラマ、映画、舞台に出演。クールな二枚目、コミカルな三枚目、エキセントリックなドラッグクイーン役など、どんな役も独特の深みをもって表現する俳優・近藤正臣。「大奥 第一章」(6月大阪松竹座、7月博多座)に出演する近藤の、独特のキャラクター造形の方法について、時代劇研究家の春日太一氏がせまった。 * * * 近藤正臣といえば、1970~1980年代は「二枚目」俳優の代名詞でもあった。といって、昨今の「イケメン」のようにビジュアルだけで勝負することはなく、口調から細かい動作まで丁寧に作り込みながら「二枚目」を演じていたように思える。 特にキスシーンは、その真骨頂かもしれない。日本の俳優は不器用なのか照れ性なのか、キスシーンになるとどこか硬さが見られる。が、近藤のそれには、欧米映画さながらのロマンティックな雰囲気が漂っていた。「フランス映画の雰囲気で演技することは、自覚しています。ジャン・ギャバンにリノ・ヴァンチュラにアラン・ドロン。ジャン・ギャバンのパンの喰い方なんかは、憧れました。 ラブシーンにしても、洋画のテキストからいろいろといただいたりしています。テレビドラマでラブシーンする時でも、そういう映画を参考にしながら、『この俳優ならキスするより先に髪を触るんだろうな』とか。そういう細かなことを考えていくんです。日本人はそういうことは、あまりやらないんですよ」 近藤正臣は芝居のアイディアを考え、工夫を重ねて役に臨む。そこには、台本に書かれたことだけでは納得しきれない、役柄へのこだわりが込められている。「台本の台詞は人が書いたもので、俺の言葉じゃない。台本にごっついエエ人に書かれても、こっちはちょっと意地悪したいこともあるんです。それで、言葉を変えられへんのやったら、ニュアンスを変えよう、と。 本当は役者ってのは、台本に与えられた素材の中で役を生きればいいわけです。でも、それだけじゃ納得できないことがある。このキャラクターがここでそんな不用意なことをするか、こんなにイージーな言葉を吐くか、というところでね。この素材じゃあ、生きられないということは、どうしても出てくる。 ですから、台本を徹底的に読んで行間を拡げていきながら、アイディアを見つけていくんです。こいつは古風な男だから腕時計やなしに懐中時計を使わせよう、とか。そんなことだけでも、演じている人間が生きてきよるんです。これは急にスタッフに言っても無理やな、と思ったら、自分で小道具を用意して持っていくこともあります」●春日太一(かすが・たいち)/1977年、東京都生まれ。映画史・時代劇研究家。著書に『天才 勝新太郎』(文春新書)、『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』(PHP新書)ほか。※週刊ポスト2013年5月31日号
2013.05.24 16:00
週刊ポスト
福岡の“女帝” 王貞治やさだまさし、樹木希林らから慕われる
福岡の“女帝” 王貞治やさだまさし、樹木希林らから慕われる
 福岡・中洲一の高級クラブ『ロイヤルボックス』のオーナーママ、藤堂和子さん(66才)。“中洲の女帝”とも称される彼女のもとには、政財界、芸能界をはじめ、内外の名だたるVIPが連日のように訪れる。藤堂さんはいかにいまの地位を築いてきたのか。 和子さんの水商売における礎は伝説のギャング、アル・カポネ時代のアメリカでバーを開店させた祖母・マツさんの時代にまでさかのぼる。和子さんにとって、祖母が人生のお手本なら、日本で店を開いた母のアヤさんはライバルだという。「祖母と私は“出っ張り虫(でしゃばり)”ですが、母は基本的に控えめ。なにもかもが正反対なんです」(和子さん) 母・アヤさんは日本で美容師として働いていたが、やがて酒場に勤め始める。控えめな性格にもかかわらず、エキゾチックな美貌で、たちまち売れっ子となり、自分の店を持った。「高校受験のころ遅くまで勉強していると、酔った母が鮨折りを持って帰ってくるんだけど、酔っぱらって振り回すから、お鮨が隅に寄ってしまうんです。そのたびに、“ああ、きれいに詰まったお鮨が食べたか”と思ったものです(笑い)」(和子さん) 和子さんがお土産として出しているのが赤飯であるもうひとつの理由は、揺すっても隅に寄らないから、と笑いながら明かす。 母のようにはなるまい、と思っていた和子さんは平凡なOLの道を選ぶ。しかし皮肉にも、叔父が趣味で始めたスタンドバー『リンドバーグ』を、義姉のお産のために手伝うことに。「初めは店に出るのがいやでいやで。嫌いな相手だったら話すらしませんでした(笑い)。ところがあるとき、ホステスの先輩から“お客様に好かれて初めて、私らはごはんが食べられるとよ”と叱られて、私の負けず嫌いに火がついたんです。“よし、本気でしゃべって接客してやろうたい”って」(和子さん) 19才という若さと、媚びも物怖じもしない率直な性格。和子さんはたちまちお客の心をつかみ、この仕事は「天職」だと自覚していった。 接客の技術を磨くために、ゲイバーへも通った。「女よりも女らしい“彼女”たちに教わることは多かったですね。“彼女”たちは階段を上がるとき、爪先だけでとんとんと上がるんですが、女っぽいうえにヒップアップ効果があって、すぐにマネしましたね(笑い)」(和子さん) いいな、と思ったことはすぐに取り入れ、がむしゃらに努力を続けた結果、和子さんの常連客はますます増えていった。「私は面食い」という和子さんの恋愛遍歴は華やかだ。最初に結婚を意識したのは、大阪の資産家の息子。だが、彼の姉がいった「嫁になるなら、水商売はやめてもらわな、あかんわ」というひと言が、和子さんを怒らせた。 誇りを持って働いていた和子さんは、「水商売という仕事をきちんと認めてくれる人以外とは、結婚しない」と決心する。「仕事を続けることを許してくれる人と結婚したのは、24才のとき。彼はひとつ年下です。そりゃ、よか男よ。アラン・ドロンと石坂浩二を足して割ったような(笑い)」(和子さん) それからまもなくして『リンドバーグ』のママを任される。生まれた長男は、母に預けて仕事を続けた。「でも、男の人って、生活が落ち着くにつれて“仕事をやめてくれ、暗い家に帰るのはいやだ”といいだす。それならと思って、家を出るとき、電気もエアコンもつけておいたんですけど、そういうことじゃないって(笑い)」(和子さん) 35才のときに離婚。独り身になった和子さんはますます仕事にのめり込んでいった。そして、運命の人であり “人生の恩師”となる男性・磯貝浩さん(享年67)と出会う。写真家であり雑誌などの企画編集に携わる磯貝さんにはすでに家庭があったが、「おれはおまえさんに品物をプレゼントする趣味はない。 でも、おまえさんの知識を増やしてあげることはできるよ。おれが死んだとき、“ガイがいてよかった”と思えるようなことは、なんでもしてやる」といい、銀座をはじめ一流の場所、一流の人を次々と紹介してくれた。 いつしか男と女の関係になり、そして別れを迎えるが、情は切れることなく、遠くから和子さんを見守っていてくれた。 その磯貝さんが亡くなったのは、いまから5年前の夏。突然の訃報に驚いている和子さんに、磯貝夫人はいったそうだ。「密葬ですませましたが、お別れの会には藤堂さんにも来ていただくと、磯貝も喜びます」 この夫人の言葉に、和子さんは同じ女性として“かなわない”と感じたという。同時に、自分が愛した男性の懐の深さを改めて知るのだった。 愛にも、仕事にもありったけの情熱でぶつかった和子さんは、1990年代半ばには、経営難に陥っていたクラブ『ロイヤルボックス』の立て直しという大仕事を任せられる。 180坪もある『ロイヤルボックス』は一時期繁盛していたが、バブルがはじけたころから経営が苦しくなり、借金は約5億円にものぼっていた。しぶしぶこの大役を引き受けた和子さんだったが、またも見事に祖母譲りの気働きで“中洲一のクラブ”に育て上げてしまうのだ。 和子さんは2010年に自伝『中洲通信 親子三代ママ稼業』(河出書房新社)を出版し、東京の帝国ホテルで出版記念パーティーを行った。 その発起人には王貞治(71才)、樹木希林(69才)、三枝成彰(69才)、さだまさし(60才)、手嶋龍一(62才)など78名の名前がずらりと並び、約2300名もの著名人が訪れた。 いったいなぜ、これほど大勢の、しかも成功者と呼ばれる人たちに彼女は慕われるのか。そこを問うと、本人は笑いながら、「私、全然気を使ってないの。頭使ってない。ただのボンクラなの(笑い)」とはぐらかす。 気を使っていることを悟られずに、相手が求めていることを瞬時に判断して、接する。だからこそ、誰もが認める “接客の天才”なのだ。※女性セブン2012年5月24日号
2012.05.15 16:00
女性セブン

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