十朱幸代一覧

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名作映画の「辞世の言葉」を紹介。写真は『いしゃ先生』(2015年、キャンター)/(C)2015 志田周子の生涯を銀幕に甦らせる会/「いしゃ先生」製作委員会
『いしゃ先生』『楢山節考』…名作映画の「辞世の言葉」を浜村淳らが解説
 最後の別れを前にして、愛する人に伝えたい気持ちがある。名優たちのセリフには、演技を超えた万感の思いが込められている。銀幕で描かれた「心に染み入る辞世の言葉」を、映画評論家の浜村淳氏と映画パーソナリティのコトブキツカサ氏が選んでくれた。「人は慈悲の心を失っては人ではないぞ。己を責めても人には情けをかけろ。人は等しくこの世に生まれてきたものだ。幸せに隔てがあってよいはずがない」『山椒大夫』(1954年、大映)より監督:溝口健二 出演:田中絹代、花柳喜章、香川京子【あらすじ】人買いによって母(田中絹代)と離ればなれになってしまった安寿(香川京子)と厨子王(花柳喜章)は、奴隷としてこき使われる。成長した2人はついに脱走を図り、安寿は厨子王を逃がすために池に身を投げるのだった。「脱走した厨子王は、父の言葉を胸に人買いに復讐を果たして、奴隷を解放しました。その後、母と再会するわけですが、遊女に身を落とし、目も見えない老いた姿となってもその美しさが少しも損なわれていません。凄まじいラストシーンでした」(浜村氏)「ありがとな」『いしゃ先生』(2015年、キャンター)より監督:永江二朗 出演:平山あや、榎木孝明、長谷川初範【あらすじ】山形の農村から東京に出て医者になったばかりの志田周子(平山あや)は、父・荘次郎(榎木孝明)に呼び戻され、この村で医者になって欲しいと頼み込まれる。3年だけの約束で引き受けた周子だったが……。「無医村に医者を置きたいという父親の願いを叶えた周子でしたが、村人全員に歓迎されたわけではありませんでした。しかし、やがて『ありがとう』と言われることの尊さを学んでいきます。死の前に、父も娘に感謝の言葉を捧げるのでした」(コトブキツカサ氏)「好きなことをやりなさい。それがいちばんの親孝行だがね」『RAILWAYS~49歳で電車の運転士になった男の物語~』(2010年、松竹)より監督:錦織良成 出演:中井貴一、高島礼子、本仮屋ユイカ【あらすじ】大手企業で働く筒井肇(中井貴一)は順調に出世街道を歩んでいた。そんなある日、母(奈良岡朋子)の入院で帰郷。同期の死も重なったことで、これまでの人生を振り返り、子どもの頃からの夢に挑戦することを決意する。「一流企業から地元の鉄道会社に転職が決まったことを入院先の母に伝えた時の言葉です。母は息子の決断に対して賛成も反対もしませんが、嬉しそうです。人生の挑戦は何歳からでも可能。人生で最も大事なものを教えてくれます」(コトブキツカサ氏)「ボケてなお、人は生きるのか。生きるなり」『花いちもんめ』(1985年、東映)より監督:伊藤俊也 出演:千秋実、西郷輝彦、十朱幸代【あらすじ】元大学教授の冬吉(千秋実)は認知症と診断され、次第に家族の名前すら分からなくなっていく。長男の治雄(西郷輝彦)は、そんな父を献身的に介護する妻の桂子(十朱幸代)を見て、失われかけていた家族の絆を取り戻していく。「認知症は誰の人生にも降りかかる可能性があり、他人事ではいられませんでした。治雄は父の日記からこの言葉を見つけて、父への、そして妻への絆を再認識していきます。生きる儚さとともに、人生の素晴らしさを教えてくれる作品です」(コトブキツカサ氏)「辰平、わしの目の黒いうち、顔くらい見せておけよ。気にしていてくれたんだな。来年は山へ行ってくれるんじゃな」『楢山節考』(1958年、松竹)より監督:木下惠介 出演:田中絹代、高橋貞二、望月優子【あらすじ】70歳になると楢山まいりに行く風習がある村で、おりん(田中絹代)は息子の辰平(高橋貞二)に嫁が来たのを見届けた後、山へ行くと言い出した。楢山まいりとは姥捨のこと。辰平は母を山に捨てる悲しみを必死に堪えていた。「辰平は楢山に老母を置き去りにした帰りに雪が降ってきたので思わず老母の元に戻ります。しかし、おりんは死ぬためにここへ来たんだ、心配は要らない、さっさと帰れ、とでも言うように黙って手を振るのです。何とも悲しい場面です」(浜村氏)取材・文/小野雅彦※週刊ポスト2021年6月11日号
2021.06.04 11:00
週刊ポスト
フィルムに刻まれた女優たちの美を振り返る(写真は十朱幸代)
十朱、池上、水沢、あべ、大原、香坂…日本カメラ財団の超貴重写真
 日本カメラ財団は一般財団法人。「日本カメラ博物館」やJCIIフォトサロンを東京・千代田区一番町で運営する。1989年の博物館開館以来、同財団は活動の一環として歴史的写真資料や写真家のフィルムを積極的に収集してきた。所蔵フィルムは数十万点に及び、本特集の写真は、今は亡き2人の写真家が遺したフィルムから発掘した。 一人は1980年代から小誌や『GORO』『週刊プレイボーイ』などでグラビア撮影をし、2005年に逝去した浅井鉄雄氏。もう一人はファッション、ポートレート、ドキュメントで活躍し、2015年に逝去した大倉舜二氏。 女優名が走り書きされた袋や雑誌名で整理されたファイルに収められた膨大なフィルムは、退色もなく非常に保存状態がよかった。丹念にルーペで覗いていくと、レンズに挑むかのような眼差し、架空の女を演じきる表情、心を許した一瞬から、女優たちの息遣いまでが聞こえてくるようだ。フィルムに刻まれたその美しさは、永遠に語り継がれていく。●十朱幸代(とあけ・ゆきよ)/1942年11月23日生まれ、東京都出身。1958年、NHKドラマ『バス通り裏』でデビュー。1980年、1985年ブルーリボン主演女優賞に輝く。2003年に紫綬褒章、2013年に旭日小綬章を受章。自叙伝『愛し続ける私』(集英社)が発売中。撮影/浅井鉄雄●池上季実子(いけがみ・きみこ)/1959年1月16日生まれ、ニューヨーク出身。1974年、NHKドラマ『まぼろしのペンフレンド』でデビュー。1984年に日本アカデミー賞優秀主演女優賞、1989年に助演女優賞を受賞。女優、ナレーターなど多方面で精力的に活動中。撮影/浅井鉄雄●水沢アキ(みずさわ・あき)/1954年12月5日生まれ、東京都出身。1972年、TBSドラマ『夏に来た娘』でデビュー。1975年からNHK『連想ゲーム』に出演し、人気を博した。篠山紀信撮影の写真集『AKI MIZUSAWA 1975-2020』(小学館)が発売中。撮影/浅井鉄雄●あべ静江(あべ・しずえ)/1951年11月28日生まれ、三重県出身。1973年『コーヒーショップで』で歌手デビューし、2枚目『みずいろの手紙』もヒット。1974年『NHK紅白歌合戦』に初出場。現在、コンサート『夢スター歌謡祭』で全国を回っている。撮影/浅井鉄雄●大原麗子(おおはら・れいこ)/1946年11月13日生まれ、東京都出身。1965年、東映入社。1989年、NHK大河ドラマ『春日局』に主演。CM『サントリーレッド』の「すこし愛して、なが~く愛して」というフレーズは流行語に。2009年8月逝去。撮影/大倉舜二●香坂みゆき(こうさか・みゆき)/1963年2月7日生まれ、神奈川県出身。1975年、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』のマスコットガールとして人気者に。1984年、『ニュアンスしましょ』がヒット。現在、『なないろ日和!』(テレビ東京系)のMCを務める。撮影/浅井鉄雄※週刊ポスト2021年4月16・23日号
2021.04.13 19:00
週刊ポスト
妻とのショット
吉永小百合、松坂慶子… 渡哲也さん、名女優との2ショット
“相手によって態度を変えない”──故・石原裕次郎さん(享年52)に憧れて芸能界入りをした渡哲也さん(享年78)が、8月10日に肺炎のため家族に見守られながら旅立った。生涯をかけて貫いたのは冒頭の石原さんのこの美学。当時大スターの石原さんが初対面の渡に対し、両手で握手を求めてきたことに渡さんは感激したという。 石原さんの遺志を継ぐように、渡さんの懐の深さや優しく親しみのある人柄は、ファンだけでなく共演者からも愛された。“男・渡哲也”に惚れた女優と、最も愛し愛された家族との貴重な写真を振り返る。1973年 妻・俊子さん 1972年11月に誕生した長男を抱いて散歩に出かける一家を本誌・女性セブンがキャッチ。(1973年)。兵庫県淡路島出身の渡さんは「彼女の都会的なところに惹かれた」と婚約発表(1970年 10月)のときに明かしていた。1998年 吉永小百合(75才)「夏の海が好きだった渡さんは、泳いで泳いで、恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか」と吉永小百合。映画『時雨の記』(1998年)で29年ぶりの共演となった2人は、1966年『愛と死の記録』で初共演以来50年にわたり公私のつきあいがあった。1986年 いしだあゆみ(72才)1986年、いしだあゆみとのデュエット曲『わかれ道』を発売。男と女の別れをしみじみ歌い上げた。1988年 松坂慶子(68才)1988年『ラストシーンは見たくない』を松坂慶子とのデュエットで発売。1987年 長山藍子(79才)ドラマ『待っていたんだ~ボランティアより~』(TBS系)で長山藍子と共演。長山演じる派遣家政婦に恋心が芽生える物語。1984年 十朱幸代(77才)十朱幸代のブルーリボン賞主演女優賞受賞パーティーにかけつけた渡さん。1996年 南野陽子(53才)1996年、舞台『信長』で濃姫役の南野陽子と。撮影/女性セブン写真部※女性セブン2020年9月3日号
2020.08.22 16:00
女性セブン
十朱幸代 ひとりは孤独だけれど自由、何ものにも代えがたい
十朱幸代 ひとりは孤独だけれど自由、何ものにも代えがたい
 中学生でモデルデビュー。恋多き女といわれ、死亡説まで飛び出した大手術を乗り越えて、今なお第一線で活躍を続ける、女優・十朱幸代がその人生を振り返り記した自伝『愛し続ける私』(集英社刊)が話題になっている。そんな彼女に「ひとり」についての考え方について聞いた。「ひとりは強いわよ」(十朱・以下同) 笑いながら、言葉に力を込める。その暮らしに寄り添うのは愛犬「きらら」だ。きららのためにもあと10年は元気でいなくちゃと思っている。また、高校時代からの友人との交流が今は何よりの楽しみだという。「私たちの世代になると、子供が独立したり、離婚や死別でひとりになる人も多いのよ。そんな仲間が4~5人集まっては、旅行したりおしゃべりしたり。そんな時いつも言うの。“ひとりの暮らし方なら任せておいて”って(笑い)」 ひとりで強く生きるためには食事が基本だと考えている。1日2食だが、朝をしっかり食べる。卵、ナッツ類、くだもの、乳製品などをたっぷり。はちみつも欠かさない。夜は野菜と海藻をふんだんに取り入れた和食。 肉と魚は交互に摂る。若い頃は酒豪でならしたが、今は飲む回数も量も減った。「私はもともと太りやすい体質なんです。若い頃、映像を見て“このお尻は誰の?”と思ったら、私のお尻でショックを受けたことも(笑い)。もしも女優をやっていなかったら、コロコロになっていたと思うんです。若い頃は70才になったらもう太ってもいい、好きな物を好きなだけ食べようと思っていたけど、体重が増えれば足に負担がかかるので、やっぱりほどほどのダイエットとジム通いはやめられませんね」 ガーデニングはひとり暮らしに文字通り花を添える。楽屋見舞いにもらう花々を捨てるに忍びなく、育てているうちに庭の手入れが欠かせなくなった。 特に自慢なのは白とピンクのつるバラ。花の手入れをする手指を「いやあん、手が大きくて恥ずかしいの」とひっこめる。だが、この手で確実に女優の道をこじ開け、運をつかんできたのだ。「ひとりは孤独だけど、自由。この自由は何ものにも代えられないわ」 ただきれいなだけではない、若々しいだけでもない。仕事も生き方もきちんとしてきたチャーミングな人。それがありのままの十朱幸代だった。※女性セブン2018年12月13日号
2018.12.05 07:00
女性セブン
十朱幸代「すべてがいい恋だった。これからも恋してもいい」
十朱幸代「すべてがいい恋だった。これからも恋してもいい」
 日本の帯ドラマの基礎を固めたといわれるドラマ『バス通り裏』で女優デビューを飾り、今年で60年。十朱幸代(76才)がその人生を振り返り記した自伝『愛し続ける私』(集英社)が話題になっている。華やかな世界で活躍し続ける彼女の素顔に迫る。 17才の少女・十朱の初恋は、7才上の歌手で、映画でも活躍するスター・小坂一也だった。「映画で共演して、一緒にいる時間が増えたんです。みんなが私を子供扱いする中、レディーとして扱ってくれたのが彼でした。すごく嬉しかった。当時は連絡をとるのはもっぱら手紙。ラブレターをせっせと書いたわ(笑い)」(十朱・以下同) つきあいだしてすぐにプロポーズされ、彼女が20才で建てた家には彼の部屋も用意された。交際を公表していたこともあり、芸能マスコミは2人を「ついに結婚か」と書き立てた。「こんなに書かれるんなら、籍は入れないまでも“結婚した”と発表しようと決めて、寿ムードで盛り上げていただいたのが、31才の時でした」 ところが、それから1年もしないうちに突然の別れを迎え、今なら流行語大賞になったであろう「永すぎた春」という言葉がついて回った。「彼から突然、別れると言われたんです。“好きな人ができたんだ”って。出会ってから15年間ずっと楽しく過ごして、もう空気のような、一緒にいるのが当たり前の存在になっていたのに…。私は悲しみと怒りで、泣いて泣いてまぶたが腫れてしまって、氷で冷やしてもひかないの。これでは映像にも残ってしまうし、仕事で迷惑をかけると思って、ある時からもう泣かないと決めたんです」 それからも恋はした。不倫もあったし、結婚寸前までいった恋もある。「すべてがいい恋でした。でも、その都度“私の仕事はまだまだ発展途上。今、やめるわけにはいかない”と思って仕事をとってきたんです」 どの恋も一途だったことを今も誇りにしている。だから「これからも恋はしてもいいかな」。※女性セブン2018年12月13日号
2018.12.02 07:00
女性セブン
ずっとフリーの十朱幸代「私ほどスターと共演した女優いない」
ずっとフリーの十朱幸代「私ほどスターと共演した女優いない」
 日本の帯ドラマの基礎を固めたといわれるドラマ『バス通り裏』で女優デビューを飾り、今年で60年。十朱幸代(76才)がその人生を振り返り記した自伝『愛し続ける私』(集英社)が話題になっている。華やかな世界で活躍し続ける彼女の素顔に迫る。 女優を志したのは父の影響が大きい。父・十朱久雄は東京・日本橋に江戸時代から続く老舗の麻問屋「小倉貿易」を営む家に生まれながら、家業を継がずに俳優になった。その父の仕事先についていくうちに、テレビ放送が始まって間もないNHKの連続ドラマ『バス通り裏』の主演・元子役に抜擢された。当時は生放送だったので、入学したばかりの高校を早退してスタジオ入りする日々になった。 それ以前に銀座でスカウトされ、子役モデルとして少女雑誌のグラビアを飾っていたので、カメラには慣れていた。「だけど、女優としての勉強は何もしていない、素養もない。でも“そのままがいい”と言われて、遊びに行っているようなものでした(笑い)」(十朱・以下同) この作品での素直な演技が認められ、巨匠・木下惠介監督の映画『惜春鳥』に起用され、さらには舞台へと活躍の場が広がる。「でも、演じてみて力のなさに自分でも呆れました。特に舞台では歩く姿さえサマにならない。役をいただくたびに慌てて日本舞踊を習い、お茶を習い、三味線を習い…、そうやって、所作や決まり事を身につけたんです」 独特の舞台化粧にも悩んだ。「舞台メイクは自分でするんですけど、普通は弟子入り先や、所属する劇団などで教えてもらうんです。でも、私はフリーなので、誰にも干渉されない代わりに教えてももらえない。眉一つ描けないから、毎回、ヘンな顔になってしまって(笑い)」 共演の大女優・山田五十鈴が見るに見かねて、照明も考慮し、客席の最後尾からもきちんと見える「顔」の作り方を教えてくれたという。「ずっとフリーだったから、映画会社の枠にしばられることなく、私ほどたくさんのスターさんと共演してきた女優はいないんじゃないかしら。本当に恵まれてきたと思います」 人気絶頂だった頃の中村錦之助(のちの萬屋錦之介)、高倉健、渥美清、仲代達矢、緒形拳、勝新太郎、津川雅彦、舞台でも森繁久彌や長谷川一夫、島田正吾など日本の芸能史に燦然と輝く俳優たちと共演してきた。「私、当時の女性としては背が高い方で、162cmを超えていたんです。思いっきり高いハイヒールを履いても、気を使わないでいられたのは、石原裕次郎さん、小林旭さん、高倉さんくらい。でも、年とともに縮んじゃって、いやだわ(笑い)。脊柱が縮むんですって」 いつしか清純派から、汚れ役もできる演技派に変貌を遂げた。芸を教えられ、演技を語り合った俳優もそのほとんどがすでに世を去った。同じ時代を生きた女優たちは結婚し、引退した人も少なくない。「仕事がつらいと思ったことも、やめようと思ったこともありません。恋愛した時、迷いはあったけど、私には女優以外の生き方はないと思って。失恋の苦しみや悲しみは、いつしか演技に生かしてきたんです。人と競うという気持ちもないし、器用でもない。でも、仕事に対する情熱だけは捨てられなかったんです」※女性セブン2018年12月13日号
2018.11.30 07:00
女性セブン
西城秀樹がスターになるまでの道、そしてとんねるずへの配慮
西城秀樹がスターになるまでの道、そしてとんねるずへの配慮
 今年5月に63才という若さで亡くなった西城秀樹さん。それから半年、妻の美紀さん(46)は『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』(小学館刊)を上梓、「秀樹さんの頑張ってきた日々の記録が、どなたかのお役に立てれば本当にうれしいです」と秀樹の知られざる秘話を明かしている。 秀樹は戦後10年目にあたる1955年、広島市で生まれた。姉と兄のいる末っ子の秀樹は、タイヤの卸商や雑貨店などいくつもの商売を手がけ、実業家として成功する父と、その仕事の手伝いをいとわなかった母の下で育った。 音楽好きの父親の影響でバイオリンを習った秀樹は、中学生になると、兄の誘いでバンドに加わり、アメリカの音楽に親しむようになる。高校生になった夏休み、ジャズ喫茶でのアルバイトを始めた。 そこで、芸能界へとスカウトされる。しかし、両親の大反対を受けた。「音楽は仕事ではなく趣味だ」と怒鳴られ、高校中退ということも認めてくれなかった。 厳格な父は、芸能界入りはもちろん、上京にも猛反対した。実業家の父からすれば、仕事とはどういうものなのか、誰よりもその厳しさを知っているという思いもあったのかもしれない。 そのとき、秀樹の味方になったのは、母だった。父親の目を盗みそっと末っ子を東京へと送り出してくれたのだ。 1971年に上京、所属するプロダクションの社長宅での居候を始め、翌1972年に『恋する季節』でデビューしたのは秀樹が16才の時だった。当時のキャッチフレーズは181cmの長身をアピールするように「ワイルドな17才」。歌声も注目された。 後に70年代を代表するスターとして、郷ひろみ(63才)、野口五郎(62才)と並んで新御三家と呼ばれる秀樹だが、デビュー当初は苦戦した。「ほぼ“同期”の3人ですが、甘いマスクでアイドル然とした郷さん、品のあるたたずまいで歌謡界の新星と期待された野口さんと比べ、秀樹さんはキャラクターが定まっていませんでした。そんな中、彼の代名詞である“絶唱系”が浸透していき、1973年に5枚目のシングル『情熱の嵐』で初のオリコンベストテン入りを果たすと、次の『ちぎれた愛』で、初のチャート1位を獲得しました。新御三家で1位を獲ったのは秀樹さんが最初。ここから秀樹さんの人気は新御三家でも突出したものとなっていくのです」(レコード会社関係者)◆スターへの転換期は貫太郎と『YOUNG MAN』 翌1974年には『傷だらけのローラ』の大ヒットで、スターの座を不動のものに。さらに同年、ドラマ『寺内貫太郎一家』(TBS系)に出演。作曲家の小林亜星(86才)演じる貫太郎の息子・周平に抜擢されると、俳優としての勘のよさも披露した。「歌手なのに、けがもいとわない体当たり演技が話題となりました。この作品で知り合った小林さん、樹木希林さん(享年75)、浅田美代子さん(62才)は、彼の一生の友人となりました。小林さんからは1999年にアニメ『ガンダム』の主題歌のオファーをいただきました。このとき、秀樹さんは“ガンダムって面白いの?”というレベルでしたが、周囲が“絶対に断っちゃダメ”と後押しして、実現しました。その後も“おれ、ガッチャマンの曲歌うんだろ?”と勘違いしていましたが(笑い)。 樹木さんと浅田さんとは、温泉旅行に行ったことも。2人だけで秀樹さんのバリの別荘に行って遊んでいたこともあった。共演者との親交はずっと続きました」(前出・レコード会社関係者) 1979年には、周囲を説き伏せてアメリカでヒットしていた『Y.M.C.A.』をカバーし、シングル『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』として発表。すると、瞬く間に、全国にあの歌とダンスが広まった。人気番組『ザ・ベストテン』(TBS系)では9週連続1位に輝き、うち2回は9999点の満点をたたき出した。振り付けは、秀樹自身が決めたものだった。「アメリカ・ロスに行った時、カーラジオから流れる『Y.M.C.A.』に心奪われた秀樹さんが、これを原曲に歌詞を書き換えて作ったんです。レコード会社は“外国曲は売れない”と猛反対しましたが、秀樹さんが“絶対に歌う”と押し切った。結果的に圧倒的な人気を得ました」(スポーツ紙記者) 1983年、個人事務所を設立。『ギャランドゥ』をヒットさせ、新たなステージへと歩みを進めた。◆“気配りの人”だった秀樹 歌うときは“自分勝手” この頃、秀樹は日本中の女性が熱狂する大スターとなっていたが、私生活では意外な素顔を見せていた。長年秀樹のマネジャーとして連れ添った片方秀幸さんはこうふりかえる。「私は1984年にマネジャーとして入社したのですが、採用時の面接官が秀樹さんでした。スタジオ収録の合間の楽屋に呼ばれて対面した秀樹さんは、柔和な表情で“この業界ではお茶が欲しいと言われる前にお茶を出せる、そんな気配りと想像力が大事なんだ”と、業界のルールのようなことを説明してくれました。3分程度でしたが、大学を出たばかりのロン毛の若造にも丁寧な対応をしてくれたことに人のよさを感じました。翌日、事務所の方から“秀樹さんも気に入ったようなので、髪を切って明日から来て”と(笑い)」 マネジャーになって驚いたのは、そのスケジュールだった。朝から始まった仕事は夜になっても終わらず、遅いと午前3時頃まで続いたという。「秀樹さんはその後に飲みに行くから大変でした。行きつけのバーで出会った人たちと意気投合して朝まで飲んで、起きませんから(笑い)。 秀樹さんは誰にも分け隔てなく同じ対応をされるかたでした。芸能人より一般の人とよく飲んでいた印象です。寂しがりやだったので、多忙な芸能人より誘いやすい人がよかったのでしょう。とんねるずさんとは彼らが売れる前、ショーパブで働いていた頃からの仲。でもとんねるずさんが売れ始めると、秀樹さんは距離を置くようになりました。彼らの番組に呼ばれた時には、“おれが出るとあいつらが遠慮して面白さが出ないから”と断っていました。いつも相手のことを第一に考える人でした」(片方さん)“気配りの人”だった秀樹は一転、歌うときは“自分勝手”だったという。「誰の真似でもなく秀樹さん独特の感性で“いちばんかっこよく歌う”ことができる人。よくロックに日本語を乗せて歌ったハシリだといわれています。なぜ、あんな歌い方ができたのか、本人は近くに岩国の米軍キャンプがあったことで、幼い頃から海外の音楽をラジオで聴けたことが影響している、と言っていました」(片方さん) 歌えて踊れて、演技もできて、そして長身でハンサム。その上、共演者やスタッフの間でも評判になるほどの人柄のよさ。異性が放っておくはずがない。秀樹には常に、恋の話がつきまとった。 岩崎宏美(60才)、中村江里子(49才)、長谷川理恵(44才)…多くの女性と交際、そして結婚の噂が飛び交った。特に女優の十朱幸代(75才)との交際は、秀樹の方が13才も年下ということでも注目され大々的に報じられた。しかし、45才になっても独身のままだった。そして、ひとりの女性に出会う。のちに妻となる美紀さんだった。(文中、敬称略)※女性セブン2018年11月29日・12月6日号
2018.11.18 07:00
女性セブン
大山のぶ代、亡き夫の親族とマネジャーが相続巡り不穏な空気
大山のぶ代、亡き夫の親族とマネジャーが相続巡り不穏な空気
《生きてるぜ 三途の川より天の川》。七夕を間近に控えた7月上旬の週末、東京・青山斎場で開かれた砂川啓介さん(享年80)の一周忌法要。弔辞を読んだ毒蝮三太夫(82才)は、昨年7月11日に尿管がんで他界した盟友にこんな句を送った。 その日、参列したのは毒蝮のほか、十朱幸代(75才)など故人と親しかった150人ほど。白い菊の花で飾られた壇上には優しく笑う故人の遺影が置かれ、最後のお別れに花を添えた。しかし、賑わう会場に砂川さんの最愛の妻である大山のぶ代(84才)の姿はなかった。 昨年、砂川さんが亡くなった際には葬儀・告別式は近親者のみで行われた。「生前の砂川さんは“自分がペコ(大山の愛称)より先に逝ったら、葬儀はしないでほしい。ペコの病状を多くの人が気にするから”と話していました。それでも今回、砂川さんと親しい人々から、“きちんとしたお別れをしたい”という声が多く寄せられ、親族の意向もあって一周忌の法要を開くことになりました」(砂川さんの知人) 弔辞では砂川さんの60年来の友人である毒蝮が、妻の看病に明け暮れた砂川さんを労った。最後に大山の「今日はありがとうございました」とのテープメッセージが流れ、夫婦の変わらぬ絆の強さを感じさせたものの、実は舞台裏には「すき間風」が吹いていたという。「喪主は大山さんでしたが、彼女は認知症の症状が進んで介護施設に入っており、役割を果たせる状態ではありません。そこで30年来の女性マネジャーのAさんが親族の意向を聞き取り、準備や手配に駆けずり回りました。しかし、親族とAさんには“お金の不信感”があるそうで、不穏な雰囲気がひしひしと伝わってきました」(前出・知人) 大山と砂川さんは、東京五輪が開かれた1964年に結婚。大山は亭主関白の砂川さんを誰よりも理解し、ドラえもんの声で大人気を得てからも常に一歩下がって夫をサポートした。 おしどり夫婦に大きな転機が訪れたのは2012年だった。認知症を患った大山は5分前のことも忘れるようになり、排泄処理も自力でできなくなった。トイレの使い方がわからなくなり、ところかまわず粗相する妻の排泄物を夫は黙々と処理した。「認知症発症後、砂川さんは仕事を辞めて1人で介護を抱え込みました。大山さんのイメージが壊れることを避けるため、周囲に認知症を隠したので心労は募るばかり。精神的にも肉体的にも追い詰められた日々を過ごしていました」(スポーツ紙記者) 親友の身を心配した毒蝮の助言もあり、砂川さんは2015年5月にラジオの生放送で妻の病状をカミングアウト。少し肩の荷が軽くなったはずだったが2016年4月、今度は砂川さんが尿管がんの宣告を受けた。「砂川さんは放射線治療や抗がん剤治療を行いながら、十数回も入退院を繰り返してがんと闘いました。“このままでは共倒れになる”と危惧して大山さんを老人ホームに入れましたが、闘病中も気にするのは妻のことばかり。常に“ペコはひとりでやっていけるだろうか”と心配していました」(前出・スポーツ紙記者)◆マネジャーへのお世話代 その時期、砂川さんと二人三脚で大山の介護を受け持ったのがAさんだった。「Aさんはもともと大山さんのマネジャーを30年以上担当していて、砂川さんからの信頼も厚かった。彼たっての希望でAさんは大山さんの介護を手伝うようになり、彼女の暮らす老人ホームにも足繁く通っています。砂川さんのがんが見つかってからは彼の入院にも付き添うことが多く、“ペコをくれぐれも頼む”と言われていたそうです」(芸能関係者) がんという大病を患った自分に、もしものことがあったら認知症が進む妻の余生はどうなるのか。思い悩んだ砂川さんは、「2つの手」を打った。「砂川さんは口では“決してペコより先に死なない”と言っていましたが、本心では最悪の事態を想定していました。夫婦には子供がいなかったので、砂川さんがいなくなったら誰かが天涯孤独の大山さんの面倒を見て、財産を管理する必要がある。そこで砂川さんは、Aさんにお世話代として毎月一定額のお金を渡して、大山さんの面倒を見るようにお願いしたようです。 また、夫婦の財産管理は、『成年後見制度』を利用することにしたそうです。砂川さんのきょうだいが成年後見人になったという話を聞いたことがあります」(前出・芸能関係者) 成年後見制度とは、国が法的権限を持つ「成年後見人」などを指定する制度のこと。九段下総合法律事務所の伊倉秀知弁護士が説明する。「認知症などで充分な判断能力を持たない人の財産を管理するための制度です。家庭裁判所が選任する成年後見人による財産管理には強い法的権限が与えられ、たとえば認知症のかたが家を売ってしまったとしても、後見人はその契約を取り消すことができます。親族でも勝手に被後見人の財産を処分することはできなくなります。以前は親族が成年後見人になることが多かったのですが、最近は弁護士や司法書士など専門職がなるケースが多い。その理由の1つは親族後見人が“いずれ自分が相続するお金だから”と使いこむケースが増えたから。その場合、財産の価値によって支払う費用が変わってきます」 砂川さん亡きあと、大山には多くの資産が残された。「介護費用がずいぶんかかったそうですが、大山さんは料理上手の倹約家でもあり、ある程度の預貯金があるはずです。都内の閑静な住宅地にある夫婦の自宅の敷地は40坪ほど。一坪あたり300万円ほどなので土地代だけでも1億2000万円以上の資産価値があると思われます。特別な遺書でもなければ、大山さんが砂川さんの遺産の4分の3を受け取るので、けっこうな額が資産として残っているはずです」(前出・芸能関係者) その財産を成年後見人が管理する一方、前述の通り、Aさんには「お世話代」が支払われているという。そうした金銭の動きがギクシャクのもとになっているという。「認知症の発症以来、砂川さんは病気のことが知られるのを避けるため、親族にもほとんど大山さんを会わせていませんでした。そこから徐々に砂川さんと親族は距離を置き始めたそうです。砂川さんと疎遠になった親族としては、毎月決められた額がAさんに支払われることに、“その約束は本当なの?”という不信感があるそうです。一方、大山さんのすべての面倒を見るAさんは“成年後見人が大山さんファーストでちゃんと考えてくれるのか”という不安があるみたいです」(前出・芸能関係者) そうした問題の決定権は成年後見人にある。「大山さんとマネジャーの契約ですから、親族は解除できません。しかし、成年後見人ならば、その契約を解除することができます。また、大山さんに関しても本人や親族の意思に関係なく、成年後見人が介護施設の費用が高いと判断すれば、契約を解除し、別の施設に入所させることができます」(伊倉弁護士) 砂川さんは大山を思って成年後見人をたてたが、その制度によって周囲の空気は不穏なものになりそうだ。この顛末は決して他人事ではない。※女性セブン2018年8月2日号
2018.07.19 07:00
女性セブン
邦画の質低下 女優の体当たり演技減少が重大な要因か
邦画の質低下 女優の体当たり演技減少が重大な要因か
 黒木瞳、夏目雅子、松坂慶子、名取裕子、十朱幸代……かつて銀幕を彩った女優たちは、みな体当たりの濡れ場に挑戦してきた。しかし最近の日本映画では、後世に語り継がれるようなな濡れ場を演じる女優は少ない。なぜ“濡れ場”は減ってしまったのか? 大島渚監督の名作『愛のコリーダ』(1976年)無修正版の生々しい性描写を誌上再現した6月23日号の特集には、読者から大きな反響があった。ヘアも解禁されていなかった時代に“性表現の限界”に真正面から挑んだ大島監督はもちろん、日本初の「本番撮影」に臨んだ藤竜也と松岡暎子には感服するほかない。とりわけ自らの秘部への男根の“抜き差し”まで露わにした松岡の女優魂は、時代を超えても決して色あせることはないだろう。 体当たりで濡れ場を演じていたのは、彼女だけではない。過去には人気絶頂の有名女優も、若手の清純派女優も、そしてすでに地位を確立していた大女優でさえも、作品をより高めるために一肌脱いでいた。映画評論家の秋本鉄次氏はこう語る。「現在の大物女優たちは、若い頃、濡れ場を厭わなかった。20~40年前までは、高名な監督の作品に出演するなら“脱ぐのは覚悟の上”というのが当たり前の時代だった。名監督に請われて脱がされるのは女優としてむしろ誇らしいことでした。 信頼する監督のもとですべてをさらけ出し、男女の抜き差しならない関係や情念、命をかけたギリギリの衝動を表現するために、全身全霊をかけてセックスシーンを演じる。そうやって女優は成長していったのです」 だが、近年、有名女優が銀幕に肌を晒す機会はほとんど見かけなくなってしまった。その背景には何があるのか。前出・秋本氏が続ける。「最近は女優や事務所が力を持ったため、監督や制作サイドが気を遣い、女優に濡れ場を演じさせることが少なくなった。その結果、若手女優の“学びの場”がなくなっている。日本映画全体の質が下がっているのは、女優たちが“体当たりの演技”をする場が減ってしまったことが、最大の要因かもしれません」 名女優たちの“魂”と“覚悟”が詰まった伝説の名濡れ場を振り返ることで、日本映画の未来を考えるヒントとしたい。※週刊ポスト2017年7月7日号
2017.06.26 16:00
週刊ポスト
伝説の雑誌『ザ・ベスト』 最盛期は107万部を記録
伝説の雑誌『ザ・ベスト』 最盛期は107万部を記録
 和服姿で「すこし愛して、ながーく愛して」とささやくサントリーウイスキーのCMで世の男性を虜にし、その台詞そのままに長く愛された大女優・大原麗子。そんな彼女の鮮烈な写真が表紙を飾った雑誌があった。大原の大ファンだったという50代男性が振り返る。「あれは……いま思い出しても衝撃的です。目を閉じた大原さんの横から膨大な量の水がぶっかけられ、顔半分がびしょ濡れでしたからね。一体、何の雑誌なんだろうと驚きました」 その雑誌とは、『ザ・ベストマガジン』の創刊号である。1984年4月の創刊当時は先述したCMも放送中で、「好感度ナンバーワン女優」だった大原が顔面に水をぶっかけられる表紙は世に大きな衝撃を与えた。『エロの「デザインの現場」』(アスペクト刊)の著者で、様々な成人向け雑誌のデザインを手がけたデザイナーの有野陽一氏が内幕を明かす。「今も昔も男性誌の表紙を飾る女優さんは笑顔が基本。そんな常識を壊すために、創刊にあたり“とにかく過激な雑誌にしよう”という路線に決まって、“どうせなら誰もが知っている一流女優に水をかけよう”となったそうです。初代編集長の印南和磨さんが多くの芸能プロにパイプを持っていたので、大女優の大原さんをキャスティングできた」 雑誌は爆発的な人気となり、創刊年の12月には100万部を超え、最盛期は107万部に達し、成人向け雑誌というジャンルの枠を超えた存在となった。1980年代半ば、出版界は成人向け雑誌ブームが花盛りだった。中でも2大雑誌と呼ばれたのが『ザ・ベスト』と、『デラべっぴん』(英知出版。1985年創刊)だった。 若者たちを“ベスト派”と“べっぴん派”に取り込むために切磋琢磨した両誌の表紙には違いがあった。『デラべっぴん』が人気AV女優を起用する一方で、『ザ・ベスト』は、大原以降も大物女優が続々と登場。坂口良子、加賀まりこ、萬田久子、田中好子、十朱幸代、岩下志麻、倍賞美津子といった錚々たる女優陣を“びしょ濡れ”にしてきた。 今ではとても考えられない話だが、大原が先陣を切ったことで「あの大原さんがやったのなら」と後続の女優を生んだのだという。「『ちょっと水をかけるだけです』と交渉していたので、『話が違う!』と怒られたことも多かったとか。シャッターチャンスを逃したらメイクや髪のセットもやり直し。女優さんの我慢の限界もあるから3テイクが限度だったそうです」(同前)※週刊ポスト2016年4月8日号
2016.03.30 16:00
週刊ポスト
35才弁当配送男性 50代後半十朱幸代似美人にドキッとした理由
35才弁当配送男性 50代後半十朱幸代似美人にドキッとした理由
 20代、30代の男性は40代、50代の年上女性の思わぬ仕草にドキッとするようだ。35才会社員の男性はこんなエピソードを明かしてくれた。 * * * ぼくは弁当を配送する仕事をしています。そこで一緒に働いている50代後半のパート従業員の女性がいます。彼女はお弁当を調理する仕事をしていて、見た目は目がぱっちりした十朱幸代似の美人です。 あるとき、彼女が片方のまぶたをけがしていたので、「どうしたんですか?」と声をかけたんです。すると「高い棚にある食材をとろうとしたとき、物が落ちてきて顔に当たってしまった」と言うんです。そのとき彼女が、ぼくのほうにグーッと顔を近づけて、傷を見せたんです。 ぼくの顔にくっつくんじゃないかというぐらいの距離で…。あまりにも近かったので思わずドキドキしちゃって。無防備に傷を見せて顔を近づけてくれたということは、心を許してくれているのかな? とちょっとうれしくなりましたね。※女性セブン2014年10月23・30日号
2014.10.19 16:00
女性セブン
自称“井上和香体型”女 周囲からは「柴田理恵だろ!」の声
自称“井上和香体型”女 周囲からは「柴田理恵だろ!」の声
 夫婦の日常も様々だが、あらゆる夫婦のエピソードが、漫談家の綾小路きみまろにメールや手紙で続々と寄せられている。今回寄せられたのは、私鉄勤務のご主人(46歳)。奥様(43歳)が司法試験にチャレンジです。 * * *「女弁護士 朝吹里矢子」(主演・十朱幸代)「弁護士一之瀬凜子」(主演・高島礼子)「弁護士高見沢響子」(主演・市原悦子)など、BS放送で、女弁護士ドラマが再放送されています。録画して見ていた女房ですが、すっかり感化されてしまったようで、高2の長男が大学受験の勉強を始めると、「ママも勉強して弁護士になるわ!」。と思ったら、「まずは女弁護士に関しての再認識ね」と、これまで録画したドラマを再び見始めました。「『7人の女弁護士』。私が目標にするとしたら、釈由美子はスリムだし、体型的には麻生恵理役の井上和香かな?」って、オイオイ! 外見で決めるのかよ!? 確かにキミは巨乳だけど、和香というよりは、木下五月役の柴田理恵だろ? 口に出してはいえないけどさ。 その後も「実際の法廷ってどういうものか、見学してくるわ」と裁判所通いを続け、女房が机の前に座って六法全書を開いたのは「弁護士になる」宣言の3か月後。それも30分もしないうちに「難しい漢字と用語の羅列で頭がクラクラする。口直しにドラマ見るわ」。 本物の勉強にはなかなか進めない我が女房です。※週刊ポスト2013年7月5日号
2013.06.25 07:01
週刊ポスト
【プレゼント】黒谷友香も姐さんに 『極妻』最新作手ぬぐい
【プレゼント】黒谷友香も姐さんに 『極妻』最新作手ぬぐい
 家田荘子のルポルタージュ『極道の妻たち』を原作として製作された映画『極道の妻たち』。1986年に第1作が公開されると大ヒットを記録し、これまでに15作が作られ岩下志麻、十朱幸代、三田佳子、高島礼子といった女優たちが主役を熱演。 そして、新作となる『極道の妻たち Neo』が6月8日から新宿バルト9ほかで全国ロードショー公開されます。本作で新たに“姐さん”を演じるのは黒谷友香。 今回は公開を記念し、家田荘子デザインのオリジナル手ぬぐいを抽選で3名様にプレゼント。●宛先/〒150-0002 東京都渋谷区渋谷2-7-6-201 グアパ・グアポ「極妻 黒谷姐さん」Wポスト係●応募方法/はがきに、住所・氏名・職業・年齢・電話番号を記して宛先へ。ご記入いただいた個人情報は、景品発送のみに利用し、そのほかの目的では利用致しません。●締め切り/5月29日(水)当日消印有効。●当選者発表/プレゼント品の発送をもってかえさせていただきます。※週刊ポスト2013年5月31日号
2013.05.25 07:00
週刊ポスト
要潤 社長妻は東原亜希の引き出物に自社商品入れ大ヒット導く
要潤 社長妻は東原亜希の引き出物に自社商品入れ大ヒット導く
 2月19日に結婚を発表した要潤(32才)。要といえば、これまでは年上キラーとして知られてきた。 20才のとき、『仮面ライダーアギト』(テレビ朝日系)でデビューした要は、翌年、昼ドラ『新・愛の嵐』(フジテレビ系)に出演して、主婦たちから絶大なる人気を得た。そんな彼にはプライベートでも、年上女性から猛プッシュが…。 2003年に本誌が報じた十朱幸代(70才)との“年の差38才の交際”は世間の大きな話題を呼んだ。その他にも稲森いずみ(40才)、釈由美子(34才)とも噂になった。そんなモテ男が結婚相手に選んだのは、化粧品会社社長のA子さん(31才)。「幼い頃から“25才で女社長”が夢だった」 かつて美容業界誌でこう語っていたA子さんは、2006年9月、25才のときに会社を創立。子供の頃から大好きだったという化粧品を基軸として事業をスタートさせた。 ちなみに元グラビアアイドルだった彼女は、テレビや女性誌などにたびたび登場する美人社長としても知られている。「紗栄子ちゃん(26才)やほしのあきちゃん(35才)、熊田曜子ちゃん(30才)といった芸能人のお友達も多いんです。東原亜希ちゃん(30才)の結婚式のときには、引き出物に自分の会社の商品を入れてもらうという、彼女にしかできない手法を使い、その商品を大ヒットさせたこともありました」(美容業界関係者) 創業から6年が経ち、着実なペースで売り上げを伸ばしているA子さんの会社。しかし、彼女の“超野心”は、こんなものではなかった。 前出の美容業界誌では、こんなことも語っていた。「始めたからには年商20億円を目指していく」※女性セブン2013年3月7日号
2013.02.24 16:00
女性セブン
『男はつらいよ』の記念日を祝し、名マドンナとロケ地をご紹介!
『男はつらいよ』の記念日を祝し、名マドンナとロケ地をご紹介!
8月27日は「男はつらいよの日」。1969年、フーテンの寅さんでお馴染みの映画『男はつらいよ』シリーズの第1作が公開された日である。映画化される前にはテレビシリーズとして放映されていた本作。最終回で寅さんがハブに噛まれて死亡する衝撃的な展開に抗議が殺到したため、続編の映画が制作されたのだとか。つまり8月27日は、寅さんが復活した記念すべき日でもある。映画は全5作で完結する予定が、大ヒットにより更なる続編の製作が決定。寅さん役の渥美清が亡くなるまで、実に48作品が公開され、「一人の俳優が演じた最も長い映画シリーズ」としてギネスブックにも登録された。そんな昭和を代表する傑作シリーズの見どころは、毎回変わるマドンナ役と日本各地のロケ地。ストーリーは旅先や柴又で出会う女性に寅さんが惚れ込み、最終的に見事に振られるというワンパターンながら、何度見ても飽きさせない一因はここにある。そこで、50歳以上向けコミュニティサイト「シニアコム.JP」の歴代マドンナ人気ランキングのトップ3とともに、各ヒロインが登場した作品のロケ地をご紹介したい。【第1位 吉永小百合(歌子)】「やっぱりマドンナといえば、吉永小百合でしょう。今も、歳を取っても詩の朗読など『マドンナ』している」(62歳/男性)登場作品:第9作『男はつらいよ 柴又慕情』(1972年)石川県の兼六園や福井県の東尋坊など、日本を代表する観光名所が登場するが、まずは全シリーズの中心である葛飾区柴又に注目。柴又駅前から帝釈天(経栄山 題経寺)へと続く道のりは商店街となっており、現在でも映画に出てくるままの街並みのまま。せんべい屋、団子屋、民芸品屋、佃煮屋、うなぎ屋などが立ち並び、下町の趣が伝わる。【第2位 浅丘ルリ子(リリー)】「出演回数の多さでも、寅さんとの丁々発止のやり取りでも、やっぱりマドンナは彼女」(79歳/男性)登場作品:第11作『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』(1973年)、第15作『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(1975年)、第25作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(1980年)、第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(1995年)特にファンからの人気が高いのが「寅次郎ハイビスカスの花」。ロケ地は沖縄の那覇市中心部で一番大きなアーケード街「平和通り」や、沖縄本島の北端に浮かぶ瀬底島など。ヒロインのリリーを追いかける寅さんが、瀬底島と沖縄本島をむすぶ渡し船に飛び乗るシーンが印象的だ。【第3位 十朱幸代(京子)】「『女』を感じさせてくれるマドンナは、やっぱり十朱幸代でしょうね」(66歳/男性)登場作品:第14作 『男はつらいよ 寅次郎子守唄』この作品では佐賀県唐津市で毎年秋に開催される祭り「唐津くんち」が舞台のひとつに。ネズミとウサギの玩具を言葉巧みに売りさばく“啖呵売(たんかばい)”のシーンや、ノスタルジックな港町、呼子(現、唐津市)の風景を是非チェックして欲しい。ここでは人気マドンナを軸に3作品のロケ地を紹介したが、他の作品でも数々の日本の名所が登場する。昔に観賞した年配の方も、まだ観ていない若者も、「男はつらいよの日」を機に、日本各地の美しい風景を楽しんでみてはいかがだろう。
2012.08.27 01:30
SUUMOジャーナル

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