日本側から見れば、期限切れが迫っていた旅順、大連、南満洲鉄道などの租借期限を欧米列強並みの九十九か年に延長させたことは、「これで十万の英霊も安らかに眠れるだろう」と考えたのだろうが、袁世凱は最後通牒を受諾した五月九日を「国恥記念日」と定め、第五号が削られた後も一貫して「二十一条」と呼び、日本の横暴を国内外に訴えた。
また日本人の「進出」を阻むため、六月に大総統令で懲弁国賊条例を定めた。これは簡単に言えば「中国の国益を侵害する外国人に土地を売った中国人は売国奴として死刑に処する」というものだが、なにが国益侵害かを定めるのは袁世凱なので実質的には「日本人の中国における土地所有権を認めない」というものだった。
中国は日本人の土地所有権を十三箇条要求に基づく条約で認めたわけだから、これは「国際法違反」というか少なくとも国際法を軽んじる行為と言えよう。しかし中国側の論理で言えば、そもそも欧米列強や日本の中国の主権を無視した行為が問題なのだ、ということである。だから中国国民は拍手喝采し袁世凱の人気はますます高まった。日本国民の考え方は縷々述べたように「孫文ならともかく袁世凱に対しては強硬に出るべきだ」というものだったが、皮肉なことにその行動原理が袁世凱の立場を強化することになった。
そしてこれもすでに述べたことだが、調子に乗った袁世凱が帝政復活を宣言し皇帝の座に就こうとしたのは、まさにこのときであった。具体的には袁の意を体した御用団体の「籌安会」そして「全国請願聯合会」が「大総統の皇帝即位を求む」という国民運動を起こした。
反日運動で培った国民的人気とライバル宋教仁暗殺などによる弾圧への恐怖が相まって、一時この運動は成功し一九一五年の年末には、翌年に袁が皇帝に即位して「中華帝国」を復活させ元号を「洪憲」とする(つまり袁世凱が「洪憲皇帝」になる)ことが決定した。
さすがにこれはやり過ぎであった。まず雲南省から「護国軍」と称する団体の反乱が起こり、腹心の段祺瑞や馮国璋も帝政復活に反対した。そして致命的だったのは、日本の行動に批判的だった欧米列強も、この点では日本と歩調を合わせ帝政に難色を示したことである。それでも一九一六年正月になると袁は強引に「元号を洪憲とする」と宣言したが、結局持病の尿毒症が悪化して六月六日死亡した。享年五十六であった。
「四面楚歌のうちに袁世凱は病没した。彼の死ほど人々に歓迎された死はない、と当時の新聞に報道された」(『世界大百科事典』平凡社刊)。
まさに盛者必衰、政治の世界は一寸先が闇である。