政治は結果責任である
しかし「ストロングマン」袁世凱は、「中国国内がまとまらないときは、日本を非難して国民の団結を図る」という「遺産」を残した。そもそも日本という国は聖徳太子の時代から中国にとっては「生意気な国」である。
下世話な例えだが、古代東アジア社会はすべて「中国組」の「シマ」であった。その東端にあるヤマト組も、最初は中国組の「親分」である皇帝に対し「子分にしてください」と頭を下げ盃ならぬ金印をもらっており、ヤマトの長は国王という名の中国皇帝の子分だった。その子分ヤマトが力をつけた途端「そちらが皇帝ならこちらは天皇で対等だ」と言い出し、「もう盃(金印や国王の称号)はいらない」と開き直った。東映ヤクザ映画なら「日本組」は「世話になった親分の恩を忘れたとんでもないゲス野郎」である(笑)。
もちろん日本組にも言い分があって、「中国(中華つまり世界の中心)、中国と威張るんじゃねえ。日本には独自の文化とプライドがある」ということだ。ちなみに朝鮮半島の国家は中国と陸続きであり逆らえば侵攻されるという弱みを抱えていたため、新羅も高麗も朝鮮もプライドを捨てて「中国組の一の子分」に徹するという国策を採らざるを得なかった。
ところが日本は、明治初期に清朝に「日本と中国は対等」だと正式に認めさせ、日清戦争にも勝った。西洋近代化についても日本がずっと先を行っている。産業構造だけで無く政治制度もそうだ。立憲民主制を確立し、デモクラシー(当時は民本主義といった)も曲がりなりにも進んでいる。それにくらべて中国は、いくら国民の総スカンを食ったとは言えトップの指導者が「帝政復活」などというバカな行動を始めることが可能な国である……。
おわかりだろう。日本から見ればこの状況は「なにが中国だ、世界で一番遅れている国じゃないか」ということになり、またこのことは孫文のような開明的な中国人にとってはきわめて屈辱であった。日本人にしてみれば「中国のレベルの低さ」はいまに始まったことでは無く、中国国民が孫文では無く袁世凱を選んだところから始まっている。だからこそそんなレベルの低い国には強硬に出るしかないということで、日本は「対華二十一箇条」要求に踏み切ってしまった。
一方中国は中国で、事ここに至っても朱子学思想(中華思想)の影響が強く残り、「世界一の国家」であるというプライドはどうしても捨てられない。袁世凱はそこを巧みに刺激したのである。実際、第五号の要求は「誰が見ても過大なもの」だから、作戦はまんまと成功した。そしてこれを機に中国は、日本に非が無くてもそれを巧みにデッチ上げ、国民の不満をそこに集中させて政府への批判を和らげる、という常套手段を得た。この手段は現在の中華人民共和国も使っている(福島原発の処理水を「核汚染水」と非難するなど)くらいだから、日本側から見ればとんでもない禍根を残したということだろう。
それもこれも「対華二十一箇条」などという愚かな振る舞いをしたからである。愚かと言えば、大隈首相、加藤外相コンビが何故こんなことをしたかと言えば、元老政治を排除し政党政治を確立するためだったはずだが、じつはその点でも裏目に出た。