この第二次大隈内閣が瓦解したのは一九一六年(大正5)十月のことだが、政党政治が確立しているならば総選挙で大隈に勝った人間か、「大隈党」の後継者が次の総理大臣になるべきであろう。ところが、実際に次の総理となったのは陸軍出身で元朝鮮総督、陸軍大将の寺内正毅であった。
大隈は辞めるにあたって大正天皇に対し後継候補に加藤高明を推薦したのだが、加藤では無く寺内に組閣の大命が降下した。なぜそうなったかと言えば、「加藤ではダメだ」と確信した元老が寺内を強く推したからなのである。山県有朋である。同じ元老の井上馨(1836年〈天保6〉生まれ)は前年の一九一五年の九月に七十九歳で亡くなっていたが、一八三八年(天保9)生まれの山県は生き残っていた。
山県は結局一九二二年(大正11)までしぶとく生きるのだが、この時点で七十八歳であり当時の感覚では「いつ死んでもおかしくない歳」である。おそらく山県は、最後の御奉公とばかりに衰えた体力・知力を振り絞って政治課題に挑んだ。それは加藤高明を絶対に次の総理にしないということであり、これは結果的に政党政治の確立を遅らせることになった。「裏目」とはこのことだ。
私はかねてから述べているように山県有朋という人間を好きではないし、その政治姿勢とくに政党政治に対して否定的だったことは間違いだと思っている。しかしこの時点で山県の立場に立ってみると、彼がそういう行動に出たのも無理は無いと思える。思い出してほしい。山県も当初から第五号には反対だったのである。そして加藤が頭を下げて「陸軍強硬派を抑えて第五号を削除させていただきたい」と頼んでくれば、山県も腰を上げおそらくは強硬派を抑えることができただろう。
だが加藤は、「政党政治の確立のために元老の力は一切借りない」という方針を貫いた。それは自分の政治家としての理想および信念を守ることだから評価できないこともないが、それならそれで第五号は自分の力で削除に持っていかなければいけない。しかし加藤にはそれができず、そのことで対中関係、対英米関係を著しく悪化させた。政治は結果責任である、いかに信念が立派でも、失敗してしまったのなら価値は無い。そんな「口先だけの連中」に国家の運営を任せることはできない。山県はそう思ったのだろう。無理からぬことではないか。
そして山県がそう思った背景には、加藤の「親分」である大隈重信首相の「失敗」もあった。「二十一箇条要求」の時点では人気絶頂で、その要求中に挙行された一九一五年三月の第十二回総選挙で圧勝した大隈だったが、翌一九一六年一月には大陸浪人福田和五郎に爆弾をぶつけられた。犯人の福田は徳富蘇峰の弟子でジャーナリストだったから、狂信的な右翼では無い。幸いにも爆弾は不発で大隈は無事だったが、前年まで中国に対する強硬政策でとくに福田のような大陸浪人には高い人気を博していた大隈がなぜ狙われたのか?
皮肉なことに、大隈も袁世凱と同じ年に「一寸先は闇」を実体験したのである。
(第1414回へ続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年4月5日号