ライフ

伊集院静 ホテル暮らしの7年「お金なんていい」と言われた

麻雀小説家の阿佐田哲也こと色川武大氏との交流を描いた自伝的小説『いねむり先生』、及びエッセイ集『男の流儀』がベストセラーに名を連ねるなど、人気と注目を集める作家・伊集院静氏。かつて20代後半に広告制作会社を辞めた後、7年間にわたって湘南初の洋館式ホテル「なぎさホテル」に逗留し続けた当時の経験を、新刊の自伝的随想録『なぎさホテル』に綴った。

作家としての未来はおろか明日さえ見えない日々をそのホテルに暮らしたのは28歳から34歳のこと。広告制作会社をわけあって辞め、妻子も東京も捨てたある冬の午後、故郷に帰ろうとしていた彼はふとその前に関東の海が見たくなり、降り立ったのが逗子だった。伊集院氏が振り返る。

「ぼんやり海を見ていたら〈昼間のビールは格別でしょう〉と声をかけてくる人がいてね。それが〈I支配人〉との出会いでした」

大正末期に湘南初の洋館式ホテルとして建てられたという瀟洒な木造二階建ては、正面の時計台が印象的だ。一泊3000円の別館からやがて海を望む絶好の部屋へとI支配人の厚意で移り棲み、従業員とも賄いを囲むうちに家族同然に親しくなった。時にはI支配人と夜の海を見ながら酒を酌み交わすこともあり、かつては氷川丸の厨房長も務めた洒脱な海の男はいう。

〈お金なんていいんですよ〉〈あなた一人くらい何とかなります〉〈あせって仕事なんかしちゃいけません〉

極めつけにこうもいった。

〈何をやったって大丈夫。私にはわかるんです〉……。

「人を遠ざけてきた当時の私にみんながよくしてくれたのも、全てはあの人のおかげ。ホテルの床が抜けるほどの本を買い込んで読書に明け暮れる男のために本棚まで作らせ、旅に出るといえば宿代もまだなのに金庫から幾らか包み、いいから持ってけってね。

その大丈夫の根拠が『野良犬が私とあなたにしか尾を振らなかったから』なんて、ホンモノの大人にしかいえませんよ。

今は私自身よく若い人に大丈夫というけど、なぜ支配人があの時そういったかというと、青年が得か損かでは行動してなかったからだと思うんだよ。そして彷徨える青年を、別に彼らも損得勘定で見守ったわけじゃない。でなきゃ7年も居ないし、居させません」(伊集院氏)

その経験を綴った『なぎさホテル』には〈絶望から再生へ〉と帯にある。この間、作詞家及び作家としてデビューを果たした彼は女優として活躍していた〈M子〉こと夏目雅子・前夫人と再婚。鎌倉に新居を構えたものの1年後、彼女を病で失い、再び失意の底を這い回ることになる。

「それを考えるとあの7年はいい時間だったのかもしれない。至福はあそこにしかなかったかも。滞在後半はマスコミに追い回されてもいたから、撮影が終わるたびに遊びに来るM子をみんなが守ってくれてね。『何号室に週刊○○がいます!』とスパイまでしてくれるわけ(笑い)。

それに私が今まで書いてきた小説の半分以上は、あの時に見聞きした出来事や着想がもとになっていて、その全てがなくてはならないものだったと今は思う」(伊集院氏)

※週刊ポスト2011年7月22・29日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

イベントの“ドタキャン”が続いている米倉涼子
「押収されたブツを指さして撮影に応じ…」「ゲッソリと痩せて取り調べに通う日々」米倉涼子に“マトリがガサ入れ”報道、ドタキャン連発「空白の2か月」の真相
NEWSポストセブン
元従業員が、ガールズバーの”独特ルール”を明かした(左・飲食店紹介サイトより)
《大きい瞳で上目遣い…ガルバ写真入手》「『ブスでなにもできないくせに』と…」“美人ガルバ店員”田野和彩容疑者(21)の“陰湿イジメ”と”オラオラ営業
NEWSポストセブン
「ガールズメッセ2025」の式典に出席された秋篠宮家の次女・佳子さま(2025年10月19日、撮影/JMPA)
《“クッキリ”ドレスの次は…》佳子さま、ボディラインを強調しないワンピも切り替えでスタイルアップ&フェミニンな印象に
NEWSポストセブン
結婚へと大きく前進していることが明らかになった堂本光一
《堂本光一と結婚秒読み》女優・佐藤めぐみが芸能界「完全引退」は二宮和也のケースと酷似…ファンが察知していた“予兆”
NEWSポストセブン
売春防止法違反(管理売春)の疑いで逮捕された池袋のガールズバーに勤める田野和彩容疑者(21)
《GPS持たせ3か月で400人と売春強要》「店ナンバーワンのモテ店員だった」美人マネージャー・田野和彩容疑者と鬼畜店長・鈴木麻央耶容疑者の正体
NEWSポストセブン
日本サッカー協会の影山雅永元技術委員長が飛行機でわいせつな画像を見ていたとして現地で拘束された(共同通信)
「脚を広げた女性の画像など1621枚」機内で児童ポルノ閲覧で有罪判決…日本サッカー協会・影山雅永元技術委員長に現地で「日本人はやっぱロリコンか」の声
NEWSポストセブン
三笠宮家を継ぐことが決まった彬子さま(写真/共同通信社)
三笠宮家の新当主、彬子さまがエッセイで匂わせた母・信子さまとの“距離感” 公の場では顔も合わさず、言葉を交わす場面も目撃されていない母娘関係
週刊ポスト
タンザニアで女子学生が誘拐され焼死体となって見つかった事件が発生した(時事通信フォト)
「身代金目的で女子大生の拷問動画を父親に送りつけて殺害…」タンザニアで“金銭目的”“女性を狙った暴力事件”が頻発《アフリカ諸国の社会問題とは》
NEWSポストセブン
鮮やかなロイヤルブルーのワンピースで登場された佳子さま(写真/共同通信社)
佳子さま、国スポ閉会式での「クッキリ服」 皇室のドレスコードでは、どう位置づけられるのか? 皇室解説者は「ご自身がお考えになって選ばれたと思います」と分析
週刊ポスト
Aさんの左手に彫られたタトゥー。
《10歳女児の身体中に刺青が…》「14歳の女子中学生に彫られた」ある児童養護施設で起きた“子供同士のトラブル” 職員は気づかず2ヶ月放置か
NEWSポストセブン
知床半島でヒグマが大量出没(時事通信フォト)
《現地ルポ》知床半島でヒグマを駆除するレンジャーたちが見た「壮絶現場」 市街地各所に大量出没、1年に185頭を処分…「人間の世界がクマに制圧されかけている」
週刊ポスト
お騒がせインフルエンサーのボニー・ブルー(インスタグラムより)
「バスの車体が不自然に揺れ続ける」“タダで行為できます”金髪美女インフルエンサー(26)が乱倫バスツアーにかけた巨額の費用「価値は十分あった」
NEWSポストセブン