ライフ

松本零士 パンツに生えたキノコをちばてつやに食べさせた

 4月を東京で、まさにページをめくるような心持ちで迎える人は今も昔も多い。「上京」という言葉には、期待と不安、志や覚悟、惜別・郷愁といった様々な感情が濃密に内包されている。物語は人の数だけある。漫画家・松本零士氏(74)の場合。

 * * *

 戦後の混乱期だったこともあって、私の家は相当な貧乏だった。大学の工学部に進みたかったのですが、高校在学中から漫画を描いて学費を稼いでいたくらいですから夢のまた夢。親父も「大学は諦めてくれ」というので、「じゃあ、俺はいい。でも弟は俺が大学に行かせてやる」と大見得を切りました。

 幸い『少女』『少女クラブ』という雑誌で連載が始まっていたので、東京に出て漫画家としてやっていこうと決意したんです。昭和32年、高校を卒業して夏を過ぎた、たしか9月頃のことです。
 
 汽車には福岡の旧小倉駅から乗り込みました。私の家はその線路際に建っていて、列車の振動で崩壊しそうなほどのボロ長屋でした。外に出てきた姉の、猫を抱きながら見送る姿が今も忘れられません。
 
 その時の私の荷物といえば、何もかも質屋にぶち込んで手に入れた片道切符と画材道具だけ。でも不安なんて欠けらもありませんでした。意気揚々、宇宙に飛び出すような昂ぶった気持ちでしたね。
 
 じつは、高校2年の修学旅行で一度東京には行ったことがありました。その時二重橋の交番の近くにある木を撫でて、〈俺はまた来るぞ〉と誓いを立てたんです。上京した時――24時間、汽車に座りっぱなしで東京駅のホームに着くと、その足で真っすぐ二重橋に向かい〈ほら来たぞ〉とその木を撫でたんです。
 
 東京で生活することになったのは、本郷三丁目の山越館という下宿屋でした。斜向かいが“漫画家カンヅメ旅館”として知られた「太陽館」で、手塚治虫さんをはじめ、横山光輝やちばてつやなどと知り合うきっかけになりました。
 
 それからは仕事が忙しくて忙しくて、面倒臭いから8、9か月も風呂に入らない日が続きました。使ったパンツも押し入れに突っ込んでいたんですが、綺麗なキノコが生えてきた(笑い)。図鑑で調べたらヒトヨタケ。さすがに自分で食べる気はしなかったので、ちばてつやのインスタントラーメンに入れたら「美味い、美味い」だって(笑い)。
 
 それにしても人生どう転ぶのかわかりません。当時インキンタムシに罹って、その体験から『男おいどん』を描いたら大ヒットしたんですからね。
 
 今振り返ると、上京した時に乗った汽車が“運命の分岐点”でした。その汽車に乗らなかったら今の私はありません。誰にでも一生に一度、運命を決める瞬間があるということです。
 
 当時、東京に行くのは今生の別れに等しいほど大変なことでした。「九州男子たるもの、志ならずんば死すとも帰らん」の気概と覚悟で故郷を後にしました。
 
 今だからこそ言えることですが、若者は若者であるということだけで羨ましいですね。前途は無限に広がり、たくさんの人との素晴らしい出会いが待っている。「若者よ、いざ旅立たん」といいたいです。

※週刊ポスト2012年4月20日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

上原多香子の近影が友人らのSNSで投稿されていた(写真は本人のSNSより)
《茶髪で缶ビールを片手に》42歳となった上原多香子、沖縄移住から3年“活動休止状態”の現在「事務所のHPから個人のプロフィールは消えて…」
NEWSポストセブン
ラオス語を学習される愛子さま(2025年11月10日、写真/宮内庁提供)
《愛子さまご愛用の「レトロ可愛い」文房具が爆売れ》お誕生日で“やわらかピンク”ペンをお持ちに…「売り切れで買えない!」にメーカーが回答「出荷数は通常月の約10倍」
NEWSポストセブン
王子から被害を受けたジュフリー氏、若き日のアンドルー王子(時事通信フォト)
《10代少女らが被害に遭った“悪魔の館”写真公開》トランプ政権を悩ませる「エプスタイン事件」という亡霊と“黒い手帳”
NEWSポストセブン
「性的欲求を抑えられなかった」などと供述している団体職員・林信彦容疑者(53)
《保育園で女児に性的暴行疑い》〈(園児から)電話番号付きのチョコレートをもらった〉林信彦容疑者(53)が過去にしていた”ある発言”
NEWSポストセブン
『見えない死神』を上梓した東えりかさん(撮影:野崎慧嗣)
〈あなたの夫は、余命数週間〉原発不明がんで夫を亡くした書評家・東えりかさんが直面した「原因がわからない病」との闘い
NEWSポストセブン
テレ朝本社(共同通信社)
《テレビ朝日本社から転落》規制線とブルーシートで覆われた現場…テレ朝社員は「屋上には天気予報コーナーのスタッフらがいた時間帯だった」
NEWSポストセブン
62歳の誕生日を迎えられた皇后雅子さま(2025年12月3日、写真/宮内庁提供)
《愛子さまのラオスご訪問に「感謝いたします」》皇后雅子さま、62歳に ”お気に入りカラー”ライトブルーのセットアップで天皇陛下とリンクコーデ
NEWSポストセブン
竹内結子さんと中村獅童
《竹内結子さんとの愛息が20歳に…》再婚の中村獅童が家族揃ってテレビに出演、明かしていた揺れる胸中 “子どもたちにゆくゆくは説明したい”との思い
NEWSポストセブン
日本初の女性総理である高市早苗首相(AFP=時事)
《初出馬では“ミニスカ禁止”》高市早苗首相、「女を武器にしている」「体を売っても選挙に出たいか」批判を受けてもこだわった“自分流の華やかファッション”
NEWSポストセブン
「一般企業のスカウトマン」もトライアウトを受ける選手たちに熱視線
《ソニー生命、プルデンシャル生命も》プロ野球トライアウト会場に駆けつけた「一般企業のスカウトマン」 “戦力外選手”に声をかける理由
週刊ポスト
前橋市議会で退職が認められ、報道陣の取材に応じる小川晶市長(時事通信フォト)
《前橋・ラブホ通い詰め問題》「これは小川晶前市長の遺言」市幹部男性X氏が停職6か月で依願退職へ、市長選へ向け自民に危機感「いまも想像以上に小川さん支持が強い」
NEWSポストセブン
割れた窓ガラス
「『ドン!』といきなり大きく速い揺れ」「3.11より怖かった」青森震度6強でドンキは休業・ツリー散乱・バリバリに割れたガラス…取材班が見た「現地のリアル」【青森県東方沖地震】
NEWSポストセブン