1950年代、日本映画は絶頂を迎え、東映は年間130本もの映画を制作。全国には7457のスクリーンが存在した。しかしその後の日本映画の凋落はもはや言わずもがな。作家の山藤章一郎氏が、その過程で生まれた奇跡の傑作『十三人の刺客』(工藤栄一監督)にまつわるストーリを追う。
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1960年代に入り日本映画はテレビにとって替わられる。東映は、時代劇ではなく、『日本侠客伝』などの「任侠シリーズ」、『仁義なき戦い』に代表される「実録シリーズ」に活路を見出す。その一瞬の隙間に従来の時代劇とは違う奇跡の傑作が生まれた。『十三人の刺客』工藤栄一監督。嵐寛寿郎、里見浩太朗ほか出演。
今年5月、東映京都撮影所の約1300平方メートルのスタジオが焼亡した。昼下がりから翌朝までの16時間半、赤い炎と黒煙が空に舞い上がった。長い衰退をたどってきた時代劇の息の根を止められた、いわば象徴のできごとである。四条大宮から家並みの軒先をコトコト縫って走る1車両の〈嵐電〉で15分、〈帷子ノ辻〉で降りる。
平安時代、皇后の葬送がこの辺りにさしかかったとき、棺を覆っていた〈帷子=絹、麻の単衣〉が風に吹かれて天翔けたといわれる地名である。ここに、東映以下、大映、松竹ほかおびただしい数の撮影所、プロダクションが櫛比した。日本のハリウッドと呼ばれた。『鞍馬天狗』の相棒・杉作少年の美空ひばりが、『沓掛時次郎』の錦之介が扮装のままで歩いた。
だがいま、駅から撮影所に向かう人の姿はまばらである。スタジオの焼け跡を、前にする。雑草の空き地が広がっているわけではなく、解体されたスタジオが駐車場に変じ、名残りの夏の強い陽を照りかえしている。49年前、『十三人の刺客』も、このスタジオで撮られた。
下級武士、浪人ら13人の暗殺集団が、参勤交替で帰国する将軍の弟一行53騎に襲いかかる映画である。クライマックス延々30分、怒号と悲鳴と絶叫のなか、集団が命をぶつけあう死闘。手持ちカメラがドキュメンタリー手法で追う。画面は激しく揺れ動く。世評は高かった。だが、ヒットはしなかった。のちに、映画、テレビにリメイクされ、今夏、〈大阪新歌舞伎座〉ほかで舞台にもなっている。
メキシコとの国境に近いサンディエゴは米海軍と軍港の町である。サンディエゴの空港から、西海岸の動脈的フリーウェイ15号線を40分ほど北上する。『十三人の刺客』ほか集団時代劇で輝きを見せた里見浩太朗氏(75)は、1年の3か月ほどをこの地で過ごす。ユーカリの木が茂り、プールのある庭で矍鑠(かくしゃく)としていた。
「工藤栄一さんは、従来の大量生産の時代劇とは違う映画を撮りたかったんです。それであえて白黒で、しかもひとりのスターに頼らず、じっくり撮ったのが『十三人の刺客』でした。映画産業そのものが飽きられ始めた時代です。
時代劇は、チャンバラの恰好良さと、勧善懲悪。これに何をプラスしたら新しい観客を呼べるか、結局その答えが見つからず、衰退していった。映画館のドアが閉まらない時代があったんですが」
『十三人の刺客』の俳優、製作スタッフを含め、その時代の映画に携わった者の多くは、いまは亡い。里見氏は数少ない証言者である。『十三人の刺客』のその後のリメイク版に疑義を表わす。
「立ち回りのできる俳優がいないんですね。で、人数だけがやたらに多い。そもそも、侍の作法常識、草履の履き方、上への視線、背中を斬られて死ぬのか、頭を割られたのか、ひとつひとつの表現に、武士道が感じられません。私も工藤栄一さんも、立居から走り方までディテールにこだわり、お手本の俳優もいっぱいいて、あの緊張感が生まれたのです」
※週刊ポスト2012年9月14日号