芸能

作家・安倍公房の「恋人」が安倍の愛すべき素顔を描いた書

【書評】『安倍公房とわたし』山口果林著/講談社/1575円(税込)
【評者】鈴木洋史(ノンフィクションライター)

 * * *
 読み進むうちに浮かび上がってくるのは、ノーベル賞候補とも目された世界的な作家の威厳ある姿ではなく、若く、コケティッシュな女性に溺れた一人の中年男の愛すべき素顔だ。
 
 安部公房(1924~1993)前衛的な作風で知られた小説家にして劇作家、演出家で、多くの小説が30か国以上で翻訳出版され、その作・演出による舞台は国際的に高く評価された。妻子がいて、妻は自分の作品の挿絵、装丁や舞台美術も手掛ける美術家だった。

 本書は、そんな大作家と22歳だった学生時代から23年余り「恋人」関係を続けた女優・山口果林の「自分史」である。これまで自らの口から安部との関係を語ることはなかったが、安部の没後20年にあたる今年、自分の人生を再確認するために執筆したという。ちなみに、芸名「山口果林」の名付け親は安部公房である。

 2人の最初の出会いは山口が18歳のとき。演劇を志す山口が桐朋学園大学短期大学部演劇科を受験したときの面接官が演劇科で教鞭を執る安部だった。短期大学部を卒業し、専攻科へと進んだ2年目の春頃から目を掛けられ、個人的に食事に誘われ始めた。

 当時の安部は学生の間で絶大な人気を誇り、高校時代に山口が芝居を目指すきっかけとなった作家である。しかも、23歳も年上だ。そんな大人がラウンジで牡蠣を食べながら「女性の性器に似ている」と語り、「だんだん書くことが辛くなる」と創作の苦悩を告白するのだ。「小娘」にとってそれは〈夢のような世界〉であり、作家からの誘いを〈誰が断れようか〉と抗いがたく感じるのも無理はあるまい。

 その年の秋、山口を乗せた安部の車はラブホテルに滑り込んだ。具体的には本書に譲るが、山口は少女時代にある「秘密」を抱えており、そのことを安部に告白すると、強く抱き締められ、〈全幅の信頼でついていこうと思いだした〉という。

 そうしたエピソードだけを抜き書きすると、愛に溺れたのは山口のほうだと思えるが、別の事実は安部こそが高揚していたことを物語る。それを象徴するのが本の口絵に使われた若き山口のヘアヌード写真だ。明らかにされていないが、ベッドに横たわって笑う、生々しさ漂うアラーキー風スナップショットの撮影者はおそらく安部だ。相手が同年代の妻なら、果たしてそんな写真を撮っただろうか。

 男と女の関係になってから1年後、山口が妊娠中絶したことも明かされる。〈「オギノ式」でしか避妊をしていなかった。安部公房の言う「今日は大丈夫」とか、「危ない」という言葉を信じていた〉。東大医学部卒の大秀才も若さという誘惑を前に冷静さを失っていたようだ。

 また、安部は〈子供じみたことが好き〉で、山口の前では、ティッシュペーパーをおでこに貼り付け、キョンシーのように跳びはねた。互いに赤ちゃん言葉を使い、「アルツ君」「ハイマーちゃん」と呼び合って冗談のような会話を交わすことも日常だったという。

 滑稽である。若い女性に対する口説き方もその後の言動も、「前衛作家」というイメージからは程遠く、あまりに通俗的である。そのことを軽侮しているのではない。大作家とて一人の凡百な男であることを知り、微笑ましく感じるのだ。そして、飾らない素直な文章で作家のそうした素顔を描いた著者の筆に敬意を表する。  

※SAPIO2013年10月号

関連キーワード

関連記事

トピックス

俳優の松田翔太、妻でモデルの秋元梢(右/時事通信フォト)
《松田龍平、翔太兄弟夫婦がタイでバカンス目撃撮》秋元梢が甥っ子を優しく見守り…ファミリーが交流した「初のフォーショット」
NEWSポストセブン
世界が驚嘆した大番狂わせ(写真/AFLO)
ラグビー日本代表「ブライトンの奇跡」から10年 名将エディー・ジョーンズが語る世界を驚かせた偉業と現状「リーチマイケルたちが取り戻した“日本の誇り”を引き継いでいく」
週刊ポスト
佳子さまを撮影した動画がXで話題になっている(時事通信フォト)
《即完売》佳子さま、着用した2750円イヤリングのメーカーが当日の「トータルコーディネート」に感激
NEWSポストセブン
国連大学50周年記念式典に出席された天皇皇后両陛下(2025年9月18日、撮影/JMPA)
《国連大学50周年記念式典》皇后雅子さまが見せられたマスタードイエローの“サステナブルファッション” 沖縄ご訪問や園遊会でお召しの一着をお選びに 
NEWSポストセブン
豪雨被害のため、M-1出場を断念した森智広市長 (左/時事通信フォト、右/読者提供)
《森智広市長 M-1出場断念の舞台裏》「商店街の道の下から水がゴボゴボと…」三重・四日市を襲った記録的豪雨で地下駐車場が水没、高級車ふくむ274台が被害
NEWSポストセブン
「決意のSNS投稿」をした滝川クリステル(時事通信フォト)
滝川クリステル「決意のSNS投稿」に見る“ファーストレディ”への準備 小泉進次郎氏の「誹謗中傷について規制を強化する考え」を後押しする覚悟か
週刊ポスト
アニメではカバオくんなど複数のキャラクターの声を担当する山寺宏一(写真提供/NHK)
【『あんぱん』最終回へ】「声優生活40年のご褒美」山寺宏一が“やなせ先生の恩師役”を演じて感じた、ジャムおじさんとして「新しい顔だよ」と言える喜び
週刊ポスト
林家ペーさんと林家パー子さんの自宅で火災が起きていることがわかった
《部屋はエアコンなしで扇風機が5台》「仏壇のろうそくに火をつけようとして燃え広がった」林家ぺー&パー子夫妻が火災が起きた自宅で“質素な暮らし”
NEWSポストセブン
1年ほど前に、会社役員を務める元夫と離婚していたことを明かした
《ロックシンガー・相川七瀬 年上夫との離婚明かす》個人事務所役員の年上夫との別居生活1年「家族でいるために」昨夏に自ら離婚届を提出
NEWSポストセブン
“高市潰し”を狙っているように思える動きも(時事通信フォト)
《前代未聞の自民党総裁選》公明党や野党も“露骨な介入”「高市早苗総裁では連立は組めない」と“拒否権”をちらつかせる異例の事態に
週刊ポスト
佳子さまを撮影した動画がXで話題になっている(時事通信フォト)
《佳子さまどアップ動画が話題》「『まぶしい』とか『神々しい』という印象」撮影者が振り返る “お声がけの衝撃”「手を伸ばせば届く距離」
NEWSポストセブン
秋場所
「こんなことは初めてです…」秋場所の西花道に「溜席の着物美人」が登場! 薄手の着物になった理由は厳しい暑さと本人が明かす「汗が止まりませんでした」
NEWSポストセブン