口数が少ないこともあり、同期入団の淡口憲治らとも心を許して話すことは少なかったという。新丸子にあった合宿所から、多摩川園前で乗り換えて、蒲田にある姉の嫁ぎ先に遊びに行くのが、精一杯の気分転換だった。私の実家に近かったこともあって、何度か同行した。
3年目を迎えたが結果が出ず、とうとうフォーム改造を余儀なくされた。その頃から、湯口は妙にふさぎ込むようになっていた。合宿所でも奇声を上げることがあったと聞く。「夜が怖い」とポツリと言ったのは、なじみの新丸子のお好み焼き屋だった。次第に連絡も途絶え、歳月が過ぎた73年3月22日、開幕を前に、湯口の死を知った。享年20。
連絡が取れなくなった後も、そのお好み焼き屋には何度か通っていたらしい。世話好きのおかみさんに、「巨人はオール満点でないとダメな場所ですネ」とつぶやいたという。普段はオヤジと話していた湯口が、そのことに限ってなぜおかみにもらしたのか、オヤジはいぶかって首を傾げていた。
速球だけならばすぐに一軍。だが、いきなり飛び込んだ巨人は完全無比の素材しか受け入れてくれない世界だった。地方での温室育ちから、いきなりプロの世界はあまりに荷が重かったのか、それともフォームをいじられることで自分を見失ったのか。昨年、自由契約になった高卒ドラフト1位の左腕・辻内崇伸同様、地方出身の高卒投手が陥るパターンがそこにあった。
※週刊ポスト2014年1月24日号