ちなみに顔の戦場化とは、一つの顔の上に好悪や愛憎など複数の感情が交錯した状態を示す塩田氏の造語で、かのゴダールに〈自分たちが作ろうとしている映画は結局、グリフィスから一歩も出ていない〉と言わしめたD・W・グリフィス『散り行く花』(1919年)以降、役者の顔は戦場化したという。
一方、〈今や失われたハリウッド映画の話法〉では〈どう感じたかでなく、どう行動したか〉や〈「何が描かれなかったか」という省略〉が、豊かな表現を生んだ。あえて何かを描かないことで、むしろ観客の想像力を働かせるような映画の作り方がかつて存在したことを、塩田氏は繰り返し強調している。
「よく映画や小説にわかりやすさを真っ先に求めたり、わかりやすい=面白い、わかりにくい=面白くないと妙な二分法に陥る人がいますが、重要なのはあくまで面白さなんです。面白さのために必要な情報があればそれは伝える。
ただそれを驚くようなやり方で伝えると面白いのでそうする、というのが本当の表現者の発想です。映画がヒットするかどうかも結局は面白いかどうかに尽きるし、『だよね』という追認より、『そうか!』という驚きや発見があるのが、僕は面白い映画だと思う」
例えば〈寅さんは「おかしなこと」をしていない、ただずれているだけ〉と、氏は〈「場」を異化する〉ために存在した彼ら喜劇役者の役割を説明し、昨今の風潮とは異質の、発見やわかる面白さが本書にはある。
「例えば僕は中学生の時にバンドでベースを弾き始めた途端、それまで聞こえなかったいろんな音が聞こえ始めたことがあって、見えなかったものが見えた瞬間、人はその世界を本当の意味でモノにできるんだと思う。つまり面白いんですね。映画を観ることが現実を見る力と連動するのはそういうわけで、本書で紹介した映画もぜひ本物を観てほしいし、できれば〈金銭の移動〉も伴ってほしいと、切実に思います(笑い)」
他にも〈何かを見ている時には、別の何かを見ることができない〉〈俳優になるには、「無意識」を厚く〉等々、映画という企みが孕む重層性に改めて感激させられる。〈エモーション〉、すなわち情動やサスペンスをいかにやり取りするかをめぐって、作り手と観客が互いの想像力を信じて育んできた100年に亘る甘美な関係を、ここで手放すのはあまりに惜しい。
【著者プロフィール】
◆塩田明彦(しおた・あきひこ):1961年舞鶴市生まれ。立教大学卒。在学中からぴあフィルムフェスティバルに入選するなど、当時同大講師を務めた蓮實重彦氏のもとで黒沢清氏、万田邦敏氏、青山真司氏、周防正行氏らと共に「立教ヌーヴェルヴァーグ」として注目される。1999年『月光の囁き』で劇場映画監督デビュー。他に『ギプス』『黄泉がえり』『カナリア』『この胸いっぱいの愛を』『どろろ』等。映画美学校には1997年の立ち上げから関わる。175cm、83kg、A型。
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2014年4月18日号