そんな華麗なる一族の嫡男として1945年、佐治社長は生を受ける。幼少時の記憶は、やはり“普通”ではない。
「開高さんは、僕が子供の頃からよくうちに来て、(中略)わいわい食事しながら、何しゃべってるのか、子供心にはわかりませんけれども(中略)でも、すごく印象的なことが一つ、開高さんは、『ノーブレス・オブリージュ』ということをうるさくいいましてね。(中略)自覚であり、義務というか、責任というものをしっかり果たさないかんということを何度もいいましたね」(週刊ポスト・2001年6月29日号)
作家・開高健は、同社宣伝部の看板の一人で、前述の山口を独断で採用したことでも知られる。こうした幼少時の体験が、現在の佐治社長の背骨を作りあげているのは間違いない。
1982年に取締役就任。筆者が佐治社長を最初に取材したのは1989年秋のことだった。農林水産省記者クラブで最初に見た時、43歳の若さにもかかわらず、威厳を備えていたことを覚えている。時に“親の七光り”と言われることに対して、葛藤を抱えていないわけではない。しかし、常務時代には、オーナー社長の子息を集め「セブン・ライツ(親の七光りの会)」を結成し、周囲のやっかみを鮮やかにいなした。
1990年には代表取締役副社長に就任。この時点から、主力であるビール、ウイスキー事業で実質的なトップとなる。もっとも、一時代を築いたウイスキーに、かつての勢いはない。ビールは万年赤字で特にアサヒ「スーパードライ」の後塵を拝していた。だが佐治社長はあくまで強気だった。
実はアサヒはスーパードライをヒットさせる以前の1984年半ば、経営危機に直面していた。当時、旧住友銀行から敬三氏に、アサヒを「引き受けて欲しい」と要請があり、敬三氏はこれをやんわり断わったとされる。
こうした経緯があったため、佐治社長は、「アサヒは、オヤジが買おうとしてやめた会社だ。うちが負けるわけない」と、私の取材に答えていた。また、ビールの新製品を巡り、敬三氏と対立することもあったという。
「親父とはよく喧嘩しました。役員会で互いに背を向けていたこともしょっちゅうでしたが息子の喧嘩を正面から受けてくれた。だから私は経営者としての親父を尊敬している」
※SAPIO2014年9月号