「僕が言いたいのは、人は一人では生きられないという当たり前のこと。ところが例外的に平和で豊かな時代が長く続いたので、自分さえよければいいという個人の〈原子化〉が進んでしまった。それは資本主義の要請でもあり、家事でも育児でも介護でも、あるいは高額の耐久財でも共同体内部でお互いに融通し合っていれば消費活動は沈滞する。
家族が個人ばらばらに解体して、生活に必要なサービスも品物も総て自分の金で市場から調達する社会のほうが経済は活性化します。だから官民挙げて“誰にも迷惑をかけないかわりに、誰の面倒もみない”という利己的な生き方を推奨した」
資本主義との好相性の下、家父長制や師弟関係などの〈非対称〉な関係を憎んで〈フェアな競争〉に基づく対等な社会を求めた結果、第一講「父親の没落と母親の呪縛」や格差社会といった答えを生んだ経緯。また、〈家族の誰からも愛されない父親〉〈子供が年収で大人を値踏みする社会〉等々、耳の痛い現状に触れた上で、内田氏が紹介するのが第七講「弟子という生き方」だ。
詳しくは本書に譲るが、非対等な斜め上を仰ぎ見る〈仰角〉の姿勢の安心感と豊かさは理屈抜きに羨ましい。そこでは失敗の〈負けしろ〉が許され、他を蹴落としてでも自分だけは浮上するフェアな生き残りシステムより、ずっと素敵だ。
「僕が道場を持って痛感するのは、師弟関係がいかに高機能な装置かということ。師匠の実力なんか実はどうでもいいんです。“弟子という構え”をとることで人間は自学自習のプロセスに自分から進んで踏み込む。
個人の能力を高めて他人よりも相対的に高い格付けを得て資源分配で有利な立場になるよりも、集団全体のパフォーマンスを上げる方が共同体は機能も復元力も高くなる。集団には幼児も老人も病人も含まれます。生産性の高い人も低い人もいる。いて当たり前なんです。能力にかかわらず全員が共同体のフルメンバーとして自尊感情を持ち、愉快に暮らせるように共同体は制度設計されるべきです」