なぜ日本人と同じように仕分けせず、まるで陰に隠れるようにするのか。私の疑問にベトナム人被災者のリーダーの男性は、
「ベトナム人に来る物資はたくさんあって、日本人(被災者)より多いかも知れない。私たちがそんなにたくさん持っていたら、日本人が怒るでしょう」
身を低くして生きる。ベトナム人難民の生活を偲ばせた。
仕福さんの生き方もベトナム人被災者のそれも、「謙虚な生き方」と私は手放しに賞賛することはできない。敢えて言うのだが、日本社会が外国人居住者にそのような生き方を強制してはいないだろうか。「日本人の目」を気にせず、外国人がこの社会でのびのびと生活できることがあり得べき社会の姿ではないか。
神戸の街は力強く再生している。東北大震災では「絆」という言葉も生まれた。しかし現在、街にはヘイトスピーチのデモが起こり、書店に排外主義を煽る本が山積みされている。仕福さんから王貞治さんの756号を経て、阪神淡路大震災のベトナム人被災者たちが私たちに示した「日本での外国人の生き方」は、今も変わらないのではないか。我々の社会が乗り越えるべき「壁」は厚く高くまだ存在している。