「そもそも問題意識というのは主観と偏見の集合ですし、客観的で中立な学問なんて、学校教育が洗脳してきた、ただの神話なんです。
ところが保守本流に胡坐をかく男ほど自分と違うことを言う相手に、それは偏向だと文句を言う。そのとおり、と女性学は否定しなかった。例えば最も老舗の学問である哲学や歴史学だって男の子がいかに生きるべきかだけを扱い、女は員数外。それだって男目線の偏った男性中心学にすぎない、と言ってきた。
学問の世界には男にしっぽを振る女も、男に洗脳される女もいる中、一人称単数形の問題意識による学問を構築して40年。女性学はセクハラやDVに関して画期的成果を上げた。本書でも国内初のセクハラ訴訟・福岡事件(1989年)や数々の事案に通じる社会学者・牟田和恵さんや、性暴力被害に詳しい精神科医・宮地尚子さんと経緯を振り返ってます。〈痴漢は犯罪です〉という駅のポスターを見た時は本当に感動したもの。お尻を触るくらいは職場の潤滑油とされてきた日本も、遂にここまで来たかって」
「ニッポンのムスメたちはどこへ?」では〈墓守娘〉に関する著書もある臨床心理士・信田さよ子さんと現代の母子を蝕む病理を考え、2章「快楽はどこからくるか」では脳性マヒで車椅子生活を送る小児科医・熊谷晋一郎さんと、〈欲望の主体〉になりたい男と〈欲望される客体〉になりたがる女の性の非対称性について率直に議論した。
特に身体感覚の言語化に長けた熊谷さんは介護者との間で〈他者性をどう飼いならすか〉を語り、〈「予測誤差」と「安心」とのバランス〉が痛みにも快楽にも繋がる話など、発見に富む。
「彼の著作『当事者研究の研究』とはどんな経験かを言語化し、しかも医者だから、語彙が豊富です。介護の間の経験はセックスのメタファーがよくあてはまる。孤立していると思っている当事者が一人称で言語化した知見が普遍性を持つことは多い。女が性をいざ語ってみたら、『えっ私も』『あなたも?』って、その時の驚きと興奮ったらなかった。
ベッドの中にいても、男はここで勃たなきゃとか、女はウブでなくちゃとか、お互い文化や歴史を背負ってる。その私的経験を語る言葉がなかっただけで、私の問題を私が言語化し、自己解放を図る女性学とは、当事者学そのものでした」