さて被疑者が容疑を否定し、自供や物証を欠く中、結果的には現場に残された〈青色紙コップ〉とカレー鍋、さらに同宅で押収した砒素の〈異同識別〉が有罪判決のカギを握った。その後、再審請求中の弁護団は大型放射光施設〈SPring-8〉を用いた東京理科大・中井泉教授(作中では〈仲教授〉)によるこの鑑定を覆す反証を提出。冤罪を指摘する声もあるが、帚木氏は犯行動機も解明できないままカレー事件だけを裁いた〈論理の不均衡〉こそを問題視する。
「あくまでこれは私の意見ですけどね。物証がないと言ったらどちらもないのに、カレー事件は無理やり有罪にして、それ以前の事件では『疑わしきは罰せず』と違う態度を取るのは、さすがに比重が傾きすぎです。
10数年に遡る砒素混入や保険金詐取の実態を精査しなければカレー事件の闇は解明できず、一連の犯行を分断したのがそもそもいけない。それこそ毒には嗜癖性があって、どんな屈強な男性もイチコロにできると噂のトッファーナ水を買い求め、夫の皿に注いだ中世の御婦人方もそう。ひと度毒に見入られた者は、二度と手放せなくなるんです」
沢井が冒頭、母校の解剖学講堂が取り壊されたことを知り、〈将来しか見ない〉と嘆く場面がある。同講堂は昭和20年5月、米軍捕虜8名に行なわれた〈生体解剖〉の証言者であり、かつて海外で〈自分が伝統の中にあり、新しい伝統を築いていく責務を、知らず知らず感じ取る環境〉に学んだ彼には、過去の汚点を厄介払いする愚行に映ったのだ。
「あの石井四郎の母校・京大の医学部資料館でも731部隊の扱いなど皆無に近く、そうやって過去を知らない医者が増えていくんです。
その点、井上先生がかつて各種環境ホルモンや職業疾患を研究された産業医科大の講堂はラマツィーニホールと言って、『働く人々の病気』の著者・ラマツィーニを尊敬する先生らしい。液晶に使われる希少金属がインジウム肺を生むように、毒との格闘は今なお続き、不幸な事件や過去に学ばなければ、歴史も進歩もあったもんじゃありません」
そう憤る帚木氏と別れ、乗りこんだ筑豊電鉄の各駅には、先の世界遺産決定を祝うポスターが並んでいた。同地の炭鉱や製鉄が日本の近代を支えたのが事実なら、氏が『三たびの海峡』に描いた強制連行も事実。それらも含めた蓄積が歴史なのだと、帚木氏は多分に愛情を孕む博多弁の「バカタレ」を本作にもぶつけるのである。
【著者プロフィール】帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい):1947年福岡県小郡市生まれ。東京大学文学部仏文科卒業後、TBS入社。番組制作に関わるが2年で退社し、九州大学医学部に入学、精神科医に。作家としても活躍し、1992年『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞、1995年『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、1997年『逃亡』で柴田錬三郎賞、2010年『水神』で新田次郎文学賞、2012年『蠅の帝国』『蛍の航跡』で日本医療小説大賞等。著書は他に『ギャンブル依存とたたかう』等。169cm、68kg、A型。
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2015年9月11日号