美津さんはその気持ちに応えようと、2001年に初子さんが脳梗塞と脳循環障害を発症し歩行障害を抱えたときにも、介護をし献身的に尽くした。
遺言が書かれたのは、2003年のことだ。そして2007年、初子さんは自宅で転倒して緊急入院する。美津さんは毎日のように付き添っていたが、数か月後に親族のいる宮崎に身を寄せた。
親族の証言によると、美津さんは《よれよれの恰好で現金も5000円しか所持していなかった》という。これについて美津さんは、《初子が入院するやいなや初子の財産を我がものにせんと画策する(娘ふたり)に追い出され》た、と主張している。
初子さんが亡くなったのはその4年後の2011年だった。そこで、初子さんが生前作っていた「一切の財産を美津さんに遺贈する」旨が記載された遺言が見つかった。
娘たちはすでに初子さんの口座から遺産を引き出していたが、初子さんが遺言を託していた弁護士が代理人となり、金銭の返還を訴える、今回の裁判に至ったのだ。
この裁判をよく知る全国紙の社会部記者が言う。
「美津さんからの訴えに対し、全遺産を家政婦が譲り受けることに疑問を感じた娘たちは、“実の娘を差し置いて家政婦に全財産を渡そうとはしないはず”“母親は認知機能が低下していた”と遺言の無効を主張するとともに、“父・定美が死んだときには10億円以上あった財産が、3000万円ほどになっていた。美津さんが母の財産を使い込んでいた”と逆に金銭を支払うよう主張したのです」
(後編に続く)
※女性セブン2016年2月25日号