津波の来る直前、教師たちが児童を引率して目指したとされるのは、新北上川の堤防上にある“三角地帯”だった。あろうことか、子供たちを連れて、高台ではなく、川に向かったのだ。
しかも避難したルートは、学校前に出る県道ではなく、なぜかその先が袋小路になっている民家裏の路地だった。哲也さんは、他の児童たちと小走りで民家の間を抜けて県道に出る直前、津波が川の堤防を越えてきたのを見て、慌てて引き返した。目の前の山をよじ登っている最中に、後ろから津波をかぶった。「哲也!」と叫ぶ声で意識が戻ったとき、体が半分ほど土砂に埋まっていた。哲也さんを掘り出してくれたのは、同じ5年生の友人だった。
山の斜面から2人で津波が渦巻く様子をぽーっと眺めた。
「死んだと思ったのね。死んで、三途の川? ん? と思ったっけ。でも、(新北上)大橋があるし、三角地帯っぽいところもあるから、ここは釜谷かなって思って…」
上によじ登っていった先で、地域の住民や役場の人と合流した。みんなでたき火して、ひと晩過ごした。
「助からなかった命ではなく、助かったはずの命をなぜ守れなかったのか? もっと一緒になって、何がダメだったのかを考えてほしい。子供も大人も人間なのだから、1人の人間として考えてほしい」
2014年12月、中学3年になっていた哲也さんは都内のシンポジウムで、この年の3月に提出された最終報告でも事故の核心に触れなかった市設置の第三者委員会を意識してか、そんな発言もした。
同委員会の報告書に記述があるのは、生還したA教諭が見たとされる「県道を移動する」津波の景色。しかし、哲也さんも避難した人たちも、A教諭の姿を目撃していない。
しかも地域住民によると、A教諭がいたとされる位置からは「県道を移動する津波は見えない」と首をかしげる。そもそも、哲也さんが県道で見た川の堤防を越えてくる津波とも食い違う。説明は辻褄の合わない矛盾や疑問が多く、5年経った今も解明されないままだ。
遺族の多くは、真相を隠そうとしているのではないか──そんな疑念が拭えないでいる。
【集中連載第2回/全4回】
※女性セブン2016年3月24日号