戦争に行かなかった三島は、彼より世代が上の大岡昇平のように戦争と生身でぶつかることはなかった。また美食家になり、でっぷりと太った谷崎潤一郎にも、陋巷(ろうこう)に入り浸り、やせ細って吐血して死んだ永井荷風にも、なれなかった。谷崎や荷風への道を閉ざされ、つまり文豪にはなれなかった三島は、45歳で割腹自殺を選ぶほかなかった。
三島が切腹した1970年11月、23歳だった私は大きな衝撃を受けた。三島と同世代の吉本隆明は辞世の句や檄文のくだらなさはあるにせよ、〈生きているものすべてを「コケ」にしてみせるだけの迫力を持っている〉と『文芸読本 三島由紀夫』で記している。吉本は三島と違って大衆化を肯定した。また自らの高齢化に耐えられなかった三島とは対照的に、吉本は87年の天寿をまっとうした。
吉本は昭和天皇よりも長生きすると宣言して、昭和天皇が亡くなったあとの社会を見届けた。天皇制に終生こだわった三島も生身の昭和天皇がどのように死に、後継天皇はどう継承されるかの儀式を見詰めて天皇論を書くべきではなかったか。私はどうしてもそんな思いに駆られてしまう。
何よりも私がいまの時代に言い知れぬ寂しさを覚えるのは、今上陛下の生前退位について語るべき三島や吉本がいないことである。時代の変化の「語り部」を持たないほど不幸な世の中はない。
三島が危惧した大衆化のなれの果てが、いまの芸能人の不倫問題や都知事のくだらないスキャンダルなのだろう。マスコミは彼らを犯罪者でもないのに極悪人のように吊し上げる。メディアはそうした動きを抑制するどころか煽りに煽るだけで同調圧力は強まるばかりである。
そんな現況の中で生きる私の目には、唐牛の生き方がなおさらすがすがしく映った。唐牛は魚を入れた籠を持ち、長靴を履いて大手町を闊歩した。また唐牛らブント(※注)のメンバーは、国鉄労働組合が労働者の味方だからと“顔切符”で、無料で汽車に乗せてくれた。社会常識を破るのは当たり前というのが唐牛たちの世代の常識だった。いまの日本社会では考えられない風通しのよさである。
【※注/共産主義者同盟。日本共産党の方針に反発する形で1958年に発足した党派組織。以後、日本共産党にかわって全学連を牽引するようになる】