一見、ファッショナブルな服装で、ラップミュージックに合わせて政府に反対するシュプレヒコールを叫ぶSEALDsの若者たちが閉塞感漂う日本社会に風穴を開けてくれるのではないかと期待した人もいるかもしれない。
しかし私はSEALDsに唐牛たちがかつて持っていた天真爛漫さや若々しさや、陽気さを感じない。逆に若いにもかかわらず、老齢化して何もかも悟りきっているかのように見える。
そこにも大きな時代の変化を感じずにはいられない。全学連には機動隊と戦うため空手や武道の稽古をする学生が少なくなかった。しかしSEALDsのメンバーが練習するのはラップやダンスだろう。8.2%だった60年当時の大学進学率は現在、50%を超えた。SEALDsのパフォーマンスは大衆化した社会のひとつの象徴と言えるだろう。
六〇年安保から半世紀以上の歳月が流れた。我々は、安保闘争で傷ついた唐牛をはじめとする若者たちが経済成長を経て、成熟していく社会をどう生きたのかにあまりに無関心だった。
唐牛の生涯を書き終えたいま、私ははっきり言える。
日本の青春期から老年期を生きた彼らの歩みを辿ることは、私たちが生きる昭和、平成という大きな時代の流れをもう一度捉え直す最後のチャンスである。
構成■山川徹
※週刊ポスト2016年9月2日号