【「ひどい目」に遭っていないという負い目】
湾生は、ほかの引揚者に比べて、やや特別だった。財産の持ち帰りは大幅に制限されたが、生命の危険はなく、終戦時は敗戦で荒廃した日本本土に比べ、台湾経済の良さは際立っていた。
映画に出演した群馬県高崎市在住の清水一也は、台湾・花蓮生まれだが、3歳で日本に引き揚げた。台湾の記憶は薄かったが、家族は日本でいつまでも台湾を懐かしがり、「台湾が故郷」という感覚を刷り込まれて育った。家族で郷里の群馬県・高崎に戻って一家で引揚者の寮に最初入ったが、すぐに離れた。
「両親は悲惨な状況で帰ってきた満洲の人たちから大変な話を聞かされ、そこまでひどい目に遭っていなかった両親は、いたたまれなくなったのでしょう」
祖父は移民村の村長だった。日本に帰りたくない村民のため、台湾を接収した国民党政府に直談判した。一度は残留を了承されたが、結局願いは聞き届けられず、泣く泣く、財産や田畑を残して日本に戻った。
村民たちへの罪悪感で、祖父は二度と台湾を訪れなかった。その代わり、清水は台湾に通って日本時代の家族や親族の戸籍を集め続け、台湾と清水家の記録を後世に残そうとしている。
戦後の日本でも、湾生の物語は、ほとんど知られてこなかった。それは植民地統治が「悪」と全面的に認定され、台湾統治を肯定する話が封殺されてきたからだ。
多くの湾生が、台湾生活への追憶を心の中に隠して生活してきた。筆者も台湾報道に長く携わりながら、湾生という存在を深く認識したのはこの数年のことで、「湾生回家」に出会うまではアンテナが十分に働かなかった。昨今の日台関係の接近や台湾ブームによって、湾生たちも声を大にして今まで以上に台湾への思いを語るようになっている。
湾生ほど等身大の台湾を知る日本人はいない。近隣諸国の中で数少ない友人と言える台湾を深く理解する湾生の智慧は、民進党・蓮舫氏の国籍問題でぎくしゃくとした昨今の日台関係にも、もっと活かせる余地があるのではないか。前出の陳宣儒は言う。
「湾生は、戦後の日本でも台湾でも忘れられた存在だった。私の本と映画で台湾の人は湾生を知った。日本の人にも湾生を知って欲しい。彼らは台湾と日本の歴史の象徴なのです」
家倉も竹中も清水も、それぞれ人生の最後のステージであえて台湾に足しげく通い続ける。それは、政治によって引き裂かれた故郷を取り戻す人生最後の試みなのである。そんな湾生の物語に我々は少しでも耳を傾ける必要がある。
(文中敬称略)
●のじまつよし/1968年生まれ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。1992年朝日新聞社に入社。シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連報道に携わる。2016年4月よりフリーに。近著に『台湾とは何か』。
※SAPIO2016年12月号