9月22日、日本バスケット界初となる統一プロリーグ・Bリーグが始動した。そこまでの道のりで、バスケット界再生のためのタスクフォースのチェアマンとして、反目する二つの国内トップリーグを統一するなどの困難な作業を成し遂げたのが、今年で80歳になる川淵だった。その中で、川淵は例えば、トップカテゴリーのB1リーグに参加するためには5000人規模のホームアリーナを持つという条件を押し通した。
「これを否定されたら、Bリーグは存在しえないと思ったからね。興行として成り立たない。それは僕の経験があるからわかること。そういうところでは独裁力を発揮したな」
──それは、いわゆる独裁という意味とは違う気もしますが。
「ナベツネさんなんかは、立場的に大きな力を持っていて、そのなかで自分のやりたいようにやるっていう面もあった。僕は、そういう独裁者ではないからね」
一方で、渡邉に対しては、「感謝もしている」と語る。Jリーグ発足前夜、地域密着を掲げる川淵と、東京ヴェルディの前身、読売クラブを率いていた渡邉は、チーム名に企業名をつけるかつけないかで論争を繰り広げた。だが結果的には、その丁々発止がメディアに取り上げられ、Jリーグの宣伝にもつながったのだ。
「ああ見えて、本来、ナベツネさんは知性と教養の人。そこでは、とてもかなわないんだよね」
昨年、あるワイドショー番組で“サッカー界のレジェンド”三浦知良に、バスケットボール界を何とか束ねようとしていたときの川淵の目は、その渡邉の目に似ていたと、言われたことがある。川淵にその話を振ると「言ってたねえ……」とニコリ。
「大事な話し合いに臨むときは、それこそ、アホなことを抜かしたら徹底的にやっつけてやるぐらいの気持ちでいたからね。『なんだ、この体たらくは!』とか言ったり。体たらくなんて言葉、久々に使ったよ。周りもその迫力に圧倒されてたと思うよ」
2014年12月、国際バスケットボール連盟からタスクフォースのチェアマンに就任して欲しいとの要請を受けたとき、川淵は「俺しかいない」と思えたという。