三島は「序の巻」と「その一」については「定稿」としているが、「その二」以降については「意にみたない点が多く」あると述べている(『赤絵』昭和一七年)。
たしかに、後半部を書きあぐねたのだろう、書き直している箇所がいくつかある。反故だろう和紙を貼って書き換えている箇所もあった。紙が貴重な時代だったことがうかがえる。
「その三」には今回発見された掲載時のものとは違う異稿が残っていて(三島由紀夫文学館蔵)、そこには「昭和十六年七月十九日擱筆(編集部注・書き終わること)」とある。
それが清水たちが修善寺の編集会議で廻し読みしたものの一部なのだろう。三島は清水に七月二八日付の手紙で「扨突然ではございますが、先日完成した小説をお送り申し上げます故、御高覧下さいませ」と書き送っているからだ。
異稿の二一枚が、掲載時に五割増しの三〇枚ほどのボリュームになっている。「その三」の掲載までにあちこち書き直し、かなり書き足していたことも分かった。しかしそれでも「意にみたない点が多く」あったのだ。
おもしろい発見もあった。
いまなら「ちょうど」と書くところを旧仮名遣いで「てうど」と書いている。それが計五所あるのだが、「て」に斜線がうすく入れられ、その横に「ちや」と書きこまれ、「ちやうど」と直されているのだ。
三島自身が直したのなら黒く塗りつぶすのだが、それは控えめに直されていた。おそらく編集長で国文学者の蓮田が手を入れたのだろう。ちなみに三島は後年、『仮面の告白』にもあるこの表記を誤りだと指摘した北杜夫に激怒し、江戸時代の能にあると反駁したという(『小説新潮』平成七年一月号)。しかし国文学者にも馴染めない表記だったのだ。ふつう古語で「てうど」は、調度を意味する名詞である。江戸期のひらがな表記はかなりみだれていた。それを文学少年は鵜呑みにおぼえてしまったのだろうか。