しかし西の怪童はいろいろと大きな問題も抱えていた。まずは3歳に発病した腎ネフローゼという持病。20歳を過ぎてもその病気の状態を見ながらの戦いが続いた。生きているものを切るのはかわいそうじゃ、といって爪も切らない髪の毛も髭も伸び放題。風呂は入らない。頭をときどき師匠の部屋で洗ってもらうのがせいぜいだった。
よほどのことがない限り森は村山を自由にさせていた。その方が村山は魅力的だった。多少はむさくるしくても、将棋指しとして自由に生きる村山は魅力的だった。
ある朝、東京の将棋会館のすぐ前にある鳩森神社を歩いていたら、村山と出くわした。「今日、対局かい?」と聞くと「はい」と言う。「どこに泊まっていたんだい?」と聞くと村山は黙って神社の建物を指さした。「はあ」と私は聞いた、鳩森神社に宿泊施設などない。
すると「軒先を借りて休んでいました」と言う。対局のときはいつもそうしているのだそうだ。猫じゃないんだから、と私が将棋会館に対局者用の宿泊施設があることを教えてやると「大崎さんは何でも知っているんですねえ」と柄にもなくおべんちゃらを言うのだ。
C級からB級、そしてA級へと村山は駆け上がっていく。ついに谷川浩司王将へのタイトル挑戦権を掴むまでに至った。1992年、23歳でのことだ。
大阪に在住していた村山は、この頃東京へ拠点を移す覚悟を決める。1歳下の羽生善治が七冠完全制覇を達成しようとしていた。大阪に居ては置いていかれるばかりで、東京へ出て羽生と同じ空気を吸いたいと考えたのだ。将棋の技術の最先端が東京にあると見抜いた、村山の本能に近い決断であった。