狙いは当たった。1930年代に大倉財閥が設立した大蒙公司は、蒙疆(現在の内モンゴルの中心部)の流通や日蒙間の貿易などを一手に引き受けるにいたる。
自動車輸入や海外支店設立にいち早く着手して“初もの喰い狂”とも呼ばれた喜八郎らしい事業である。
“死の商人”に“初もの喰い狂”。成り上がり者に対する世間の嫉妬が込められているが、喜八郎は著書『致富の鍵』で〈世間から何と言われても自分の思うところは一歩も枉げない、知己は百年の後に一人得ればよい〉と残している。
彼の死後、大倉財閥はなくなってしまったが、帝国ホテルや帝国劇場だけでなく、1900年に創設した大倉商業学校は東京経済大学として、100年以上経った今も存続している。
「新潟という厳しい風土のなかから一旗揚げようと出てきた。そして右肩上がりの時代に素朴な突進力と独自の勘でチャンスをつかんだ。しかしお調子者だったから、足を掬われてしまう……。誰かと似ていませんか?」
とブレンサインさんは笑って続けた。
「そう。私には、大倉喜八郎と田中角栄が、どこか重なるんですよ」
※週刊ポスト2017年1月13・20日号