◆「サウスポー剣法」から「二刀流」へ
松方は晩年まで華麗な立ち回りを見せていたが、その技術は京都での若手時代に身につけている。
「立ち回りは昼休み、夕方休みに飯を二十分で食べたら東映剣会(※殺陣師と立ち回りの斬られ役が所属する東映京都の技術者集団)の方が五、六人待っていてくれて、一緒に稽古をしてくれました。
最初の頃は『サウスポー剣法』っていうのをやっていました。僕は左利きなんで、右手で立ち回りができなかったんです。それで毎日、右手で稽古をしていました。その代わり、今は二刀流が楽にできるんですよ」
一九六〇年代半ば、東映は不振に喘ぐ時代劇を諦め、任侠映画をメインの路線に据える。時代劇の頃は主役が多かった松方弘樹だったが、この時期は脇に回ることが多くなった。そして、一九六九年には大映に移籍。早逝したスター・市川雷蔵の穴埋めを期待された松方は、『眠狂四郎』『若親分』といった雷蔵の当たり役を演じている。
「大映にはレンタルという形でした。東映じゃあ、うだつが上がらないんですよ。上がつかえているから。役も二番手ならまだいいけど、その辺の役は待田京介さんとかがもらっていましたから、その上には行けなかった。それで、東映の岡田茂さんが『ちょっと大映に行ってこい。あそこはスターがいないから、主役を取れるぞ』と。大映だったら主役は勝(新太郎)オーナーしかいませんから、京都には。ですから、喜んでレンタルで行きました」