渡哲也一覧

【渡哲也】に関するニュースを集めたページです。

カッコいい昭和の男たち(1975年『大都会』での石原裕次郎と渡哲也。写真/共同通信社)
石原良純が語る石原軍団「鉄の掟」 仕事も遊びも一生懸命に
 国民的スター・石原裕次郎のもとに渡哲也らが集まって生まれた「石原軍団」。『太陽にほえろ!』(日本テレビ系、1972~1986年)や『大都会』(日本テレビ系、1976年)、『西部警察』(テレビ朝日系、1979年)など、ド派手なアクション路線で人気を博した。ドラマでは男臭いハードボイルドな集団だった石原軍団は、撮影現場では“よく遊ぶ大人の集団”の一面も見せた。『西部警察』PARTIの途中から最終話まで刑事ジョー役で出演した御木裕氏が語る。「渡さんが撮影現場でカマキリとクモを捕まえて、『どっちが勝つかな』と戦わせたことがあった(笑)。実に無邪気というか、遊びも一生懸命にやる集団でしたね」 当時、石原軍団で最年少だった石原良純は、「若いからたくさん食べろ」と地方ロケで先輩たちが残したおにぎり40個を頬張り、夜は宴会の場だった渡の部屋で先輩たちの酒の好みを覚えてレミーマルタンのオンザロックや水割りをせっせと作ったという。「若手は早朝から撮影なので早く寝たいんですが、解散するのはいつも深夜2時すぎ。先輩たちを部屋まで送ると、そこでまた部屋飲みが始まる。誘われたら断われません。ようやく明け方に寝られると思ったら、もう撮影が始まる、なんてこともザラでした」(良純) 入浴の順番にも鉄の掟があった。「地方ロケの時はみんなで大浴場に行くんですが、湯船に浸かる順番も決まっているんです。渡さん、舘さんと入って、下っ端の自分は最後。でも風呂から出るのは僕が最初です。先輩より先に出て、脱衣所で待っていなきゃいけない」(同前) こうした行為は団結力を高める軍団ならではの“遊戯”だった。「今振り返れば、石原軍団の厳しい掟は全部、遊びの延長にあった。確かに末端の人間はつらいけど、仕事も遊びも一生懸命やらないとダメなんです。遊ぶ時は腹をくくって本気で遊ばないと面白くない。 今ならパワハラと言われるかもしれないけど、僕はその分、面倒も見てもらって、『俺に何かあったら絶対に先輩が助けてくれる』と思っていた。今でも僕が舘さんに『どうしてもお金が必要だから1億円貸してください』と言ったら、貸してくれると思うよ(笑)」(同前) 石原軍団は、昭和ならではの男同士の絆でつながっていた。今も語り草となっている1984年の『西部警察パートIII』の最終回では、殉職した大門に木暮課長がこう語りかけた。「大さん、俺はなぁ、お前さんのこと、あんたのこと、弟みたいに好きだった。ありがとう、ありがとう!」 このセリフはすべて裕次郎のアドリブだった。石原軍団を支え続けてくれる渡に対する偽りのない真心が表われている。 しかし、その3年後に裕次郎はこの世を去った。52歳だった。夢を見せ続ける義務 裕次郎の没後は副社長だった渡が社長に就任し、石原プロを支えた。その渡も2020年8月にこの世を去ったが、石原プロは2021年1月まで活動を続けた。そして今もなお、石原軍団の名は語り継がれている。 その理由を石原プロ出身の映画プロデューサー・増田久雄氏はこう語る。「裕次郎さんは決して人の悪口を言わなかった。誰かの悪口が出たら『でもあいつには、こういう良いところもあるよ』と言う方でした。 そんな裕次郎さんの人間力が浸透した魅力ある集団だったから、みんな石原軍団について語りたいんです」 今年還暦を迎えた良純は、今になって分かったことがあると語る。「やっぱり石原裕次郎はみんなの夢だったんですよね。日本が戦後復興し、高度経済成長に入るなかで、日本中の方々が『裕次郎なら、外国に負けない作品を作ってくれる』という夢を石原裕次郎に見たし、それを託した。 そして一度夢を託された人間は亡くなってからも、夢を見せ続けなくてはならない義務があるんだと思う。だから石原裕次郎の意志を受け継いだ石原軍団は、使命を終え、解散するまで“夢を見せ続けよう”と活動を続けたんです」 石原軍団がなくなっても、男たちが残した伝説はいつまでも輝き続ける。(文中一部敬称略)※週刊ポスト2022年2月18・25日号
2022.02.17 16:00
週刊ポスト
裕次郎と渡の下に多くの傑物が集った(1986年『太陽にほえろ!』の撮影を終え、記者会見する裕次郎。写真/共同通信社)
「そこまで仲良しだと…」石原良純が語る裕次郎さんと渡さんの強い絆
 芸能界で光り輝いた大スターであった石原裕次郎。裕次郎を中心として集まった「石原軍団」は、日本の芸能界を席巻したが、そんな彼を支えたのが渡哲也だ。 裕次郎が1962年に立ち上げた石原プロモーションは、当初は『黒部の太陽』や『栄光への5000キロ』(1969年)の大ヒットで景気が良く、裕次郎は六本木に事務所用の土地を探していたという。 だが1970年代に入ると映画産業の斜陽化とともに『ある兵士の賭け』『エベレスト大滑降』(ともに1970年)などの作品が大コケ。10億円近い負債を抱えた石原プロは倒産寸前に追い込まれた。 窮地を救ったのが、1972年に始まったドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)への出演だった。 映画人を自任する裕次郎はテレビドラマへの出演を固辞していたが、周囲の説得もあり『太陽にほえろ!』で警視庁七曲署のボスを演じた。ドラマはたちまちお茶の間の人気番組となった。 そして、苦境の石原プロが浮上する最大のきっかけとなったのが、1971年の渡哲也の加入だ。 日活の後輩である渡が裕次郎と初めて出会ったのは1965年。渡が日活の撮影所に挨拶に訪れた際、裕次郎は立ち上がって握手した。「顔を見つけた順に挨拶をしていって、石原さんが6番目くらいでしたけど、わざわざ立ち上がって挨拶してくれたのは、石原さんだけでした」 裕次郎との初対面を渡はそう振り返っている。 裕次郎、渡の二枚看板で勢いを得た石原プロには、寺尾聰、神田正輝、舘ひろし、峰竜太ら若手の役者が次々と集まった。 裕次郎の甥で、かつて石原プロに在籍した石原良純は、裕次郎と渡の関係は「一心同体」だったと振り返る。「今でもよく覚えているのは、社長(裕次郎)と渡さんと山中湖にゴルフに行った時のこと。濃い霧が出てスタートできず待っていたら、社長がサッと僕らのところに来て、『おいお前ら、テツ(渡)にボールぶつけたら殺すぞ』と言われた。上のふたりがそこまで仲良しだと、下の連中は黙って見ているしかないですよ(笑)」 裕次郎と渡の絆に、多くの男たちが引き寄せられていった。(文中一部敬称略)※週刊ポスト2022年2月18・25日号
2022.02.15 07:00
週刊ポスト
豪快なプレーと繊細な気遣いを見せていたという(写真/共同通信社)
「コースでは僕も無口に」みのもんたが語る ゴルフの師匠・渡哲也さん
 多くの人に愛されるゴルフ。大物俳優のなかでもゴルフ愛好者は多い。舘ひろしや神田正輝など、シングルプレーヤーが数多くいる石原軍団にあって、昨年8月に亡くなった俳優・渡哲也さんもシングルの腕前で知られていた。そんな渡さんを“ゴルフの師匠”と呼ぶのが、フリーアナウンサー・みのもんた氏だ。みの氏が振り返る。 * * * 渡さんとのお付き合いは50年近く前からですね。最初は銀座でよく会っていたけど、僕が文化放送でレギュラー番組を持っていた頃に、「吉永小百合さんをゲストに呼びたい」と言ったら、渡さんが本当に連れてきてくれた。それから“兄貴”と呼ぶようになりました。 最初にゴルフに行くことになったのも、飲んで騒いでいるうちに盛り上がってそういう話になったんです。僕はまだ初心者で、渡さんはイロハから教えてくれた“ゴルフの師匠”でもあります。 夏場にはウチのオヤジから子供までみんな連れて箱根に行って、渡さんと奥様と一緒にゴルフ合宿もやりました。忙しい方だから長くて3泊4日。箱根にある「仙石ゴルフコース」が多かった。 渡さんのゴルフはとにかく豪快。石原軍団はみんな飛ばすけど、渡さんは特にドライバーが得意な飛ばし屋だった。それでいて気配りができる。マナーや謙虚さを大切にしていて、プレーもさることながらそういう面も最高でしたね。 マナーの中で一番言われたのは、“ゴルフは静かにやらないといけない”ということかな。隣のホールの声が聞こえてくるのは一番ダメと教えられました。だから僕もゴルフ場ではデカい声では喋らないし、大声で笑ったりしない。渡さんはどちらかといえば無口な方だからね。弟子も静かにしますよ(笑)。〈夜の銀座で盛り上がることと、朝が早いゴルフは両立しづらいように思えるが、みの氏は「そこも師匠の“厳しい教え”があった」と笑う〉 渡さんから一番厳しく教えられたのは、前の晩の酒の飲み方ですね(笑)。ついつい飛ばして飲んでしまうから、渡さんに「飛ばすのはボールだけ。酒は飛ばしちゃダメだからね」と言われた。渡さんは朝が早い。こっちがいつもは寝る時間に集合なんだから、ゴルフの前の日は飲めないですよ。何から何まで細かく、きちっとした人だった。 渡さんは電話ではなく必ずFAXを送ってくるんです。ゴルフの予定の確認も綺麗な自筆で送ってくれる。そのFAXは今も大事にとってあります。宝物ですよ。 一度、箱根でのゴルフ合宿の時に左手首を痛めてしまったことがありました。骨にヒビが入ってしまい、ギプスをした状態になったので2日目からはプレーができずに、カートに乗ってボールボーイというか、キャディをやらせてもらいました。 その後、左手にギプスをした僕が車で帰ろうとすると、渡さんが「危ないから運転してやるよ」と言って、僕を助手席に乗せて逗子の自宅まで連れて帰ってくれました。 帰りは第三京浜とかが大渋滞します。ノロノロ走っている車の運転席に渡さんがいて、横にみのもんたが座っている。すれ違う車は何なんだと驚いただろうね(笑)。渡さんが運転する僕の車の後ろを、ドライバーに運転させた渡さんの車がついてくる。貴重な休みにそんなことになって申し訳ない気持ちでいっぱいでしたけど、そういう優しい人なんですよ。 ゴルフは性格が出ると言いますが、渡さんの場合はおおらかでしたね。ゆったりしたスイングで遠くへ飛ばす。練習も相当していたと思うけど、そういう姿は見せないんだよね。打つ前の素振りでブンブン振り回すところも見たことがない。スマートなんです。スクリーン越しに観る渡さんと、ゴルフ場で見る渡さんは完全に同じ。かっこいいよね。優しくて、男らしくて、実のある人でした。※週刊ポスト2021年11月5日号
2021.10.28 07:00
週刊ポスト
誰にも分け隔てなく接した石原裕次郎さん(写真/共同通信社)
分け隔てなく接した石原裕次郎さん 宴席では自身がお酒を注いで回った
 日活の看板俳優だった石原裕次郎が独立し、石原プロを設立したのは1963年のことだった。1968年公開の映画『黒部の太陽』が大ヒット。1972年にはテレビに進出し、『太陽にほえろ!』『大都会』(日本テレビ系)、『西部警察』(テレビ朝日系)など人気ドラマを次々と世に送り出した。「石原プロは裕次郎さんあっての事務所だった。みんな裕次郎さんを尊敬していたし、渡哲也さんも自分を殺して石原プロのために尽くしていた。それほど裕次郎さんは慕われる人柄だった」 こう語るのは『太陽にほえろ!』のプロデューサーを務めた岡田晋吉氏である。「軍団」と称されるものの、石原プロは「ファミリーそのもの」(同前)だったという。「渡さんが日活に入ったばかりの頃、日活の食堂に裕次郎さんがいたので、緊張しながら『新人の渡哲也です』と挨拶したら、裕次郎さんは食事の手を止め、わざわざ立ち上がって『石原裕次郎です。頑張ってください』と言って握手し、激励してくれたそうです。当時は後輩は直立不動、先輩は座ったままというのが普通。スーパースターが新米にそこまでしてくれたことに、『すごく感激した』と渡さんは言っていました」(同前) 裕次郎は「軍団」を率いる立場で、誰にも分け隔てなく接した。石原プロの“炊き出し”は広く知られているが、岡田氏にはこんな思い出もある。「石原プロは郊外の調布にあったから、みんなで外で料理して食べていた。私も石原プロを訪れるたびに、カレーや焼きそばを振る舞われました。たまたま食事を済ませてお腹いっぱいでも、断われる雰囲気じゃないから無理やり食べたよ(笑い)。 テレビ局の人も同じ作品を作る仲間だ、同じ気持ちでやろう、と。宴席では、裕次郎さん自身がお酒を注いで回ったりしていましたね」(同前) そんな裕次郎を敬い、慕う気持ちから、神田正輝、舘ひろしといったメンバーが自然と「軍団」の結束を強固にしていったのである。岡田氏がさらに続ける。「怪我で片手が使えない時や39℃の熱を出した時、マネージャーは『休む』と言っているのに、出番があれば本人は来てくれた。一所懸命で、誰よりも汗を流す。一緒に仕事をしたら、すぐにファンになっちゃうよ(笑い)」 裕次郎亡き後は、彼に惚れ抜いていた渡が石原プロを支え続けた。その渡も2020年8月に他界し、石原プロは今年1月に解散した。俳優が経営する制作会社がこれほど長く続いたのは異例中の異例だ。※週刊ポスト2021年6月11日号
2021.06.06 07:00
週刊ポスト
田村正和さん、渡哲也さんも コロナ禍で増加「すぐ知らせない」逝き方
田村正和さん、渡哲也さんも コロナ禍で増加「すぐ知らせない」逝き方
 4月3日に都内の病院で心不全のため亡くなった田村正和さん(享年77)。2018年に出演した『眠狂四郎 The Final』(フジテレビ系)を最後にそっと芸能界から身を引いた田村さんの死が公になったのは、逝去から1か月以上経過してからだった。《兄は幸せな人生を送ったと思います。仕事でもプライベートでも何事も自分のライフスタイルを崩さず全うしたと思います。葬儀も派手にせず静かに見送ってくれと家族に言っていたそうです。生前、兄に関わって下さった方々に、私からも心より厚く御礼申し上げます。 合掌》 自身のホームページでそう心境をつづったのは、俳優の田村亮(75才)だ。 生前の田村さんが、「葬儀も派手にせず静かに見送ってくれ」と願っていたと弟が明かした通り、最後のお別れに立ち会ったのは、ごくわずかな人だったという。「晩年の田村さんは自宅から出ることもなく、病を患い死に臨む姿を見たのは、妻の和枝さんぐらいでした。本人の希望で、訃報は親しい知人にも知らせず、家族だけで葬儀をすませたそうです。死の事実についても、できることならずっと公表しないつもりだったようです」(田村家を知る知人) コロナ禍に入ってから印象的な死に方をしたのは田村さんだけではない。 俳優の渡哲也さん(2020年8月逝去、享年78)や、脚本家の橋田壽賀子さん(2021年4月逝去、享年95)など、コロナ禍に私たちの前から姿を消した著名人たちは、自らの去り際にとことんこだわり、美学を持っていた。 その姿勢は、新しい理想の死に方の到来を物語っている。 訃報をすぐに知らせない──コロナ禍で増えたのは、こんな逝き方だ。 親しい親族や知人、友人は「死に目に会いたい」と思うのが当たり前。しかし現在は、闘病や逝去の事実をごく一部の親しい人にしか伝えない傾向が目立つ。 この背景には、コロナ禍で親族さえも病者と顔を合わせるのが難しくなったという事情がある。どうせ見舞うことができないなら、危篤も訃報も知らせない方がベターだという考え方だ。 前述の通り、田村さんの闘病はずっと伏せられていた。 昨年8月、肺炎で逝去した渡さんも、死が公表されたのは家族葬をすませた後だった。「渡さんは生前、俊子夫人に『おれが死んでもすぐに公表せず、身内だけで葬儀をすませてから公にしてほしい』と伝え、香典や弔問、供え物は一切受け付けないよう申し付けました。誠実で人を思う渡さんだけに、コロナ禍で多くの人に見舞いや弔問の機会を与えて迷惑をかけるのを拒んだようです。 実際、舘ひろしさん(71才)や神田正輝さん(70才)といった石原プロの〝弟分〟ですら、家族葬に参列させませんでした」(テレビ局関係者) こうした傾向は一般人にもみられる。在宅医療にかかわる長尾クリニック院長の長尾和宏医師が指摘する。「私は去年の4月から約160人の患者さんを在宅で看取りましたが、ほとんどのご家族はごく限られた人にしか危篤や訃報を伝えませんでした。 ある企業の社長を看取った際も、一部の幹部にのみ訃報を伝え、社員には時間をおいてから知らせました。コロナ禍において、『訃報をすぐに知らせるのはごく一部の人にだけ』という配慮が広がっています」※女性セブン2021年6月10日号
2021.05.31 11:00
女性セブン
刑事ドラマで一世を風靡(2012年1月)
「ひろし、熱いよ」病床の渡哲也さんに寄り添った舘ひろしの心遣い
 現在、公開中の映画『ヤクザと家族 The Family』で、暴力団の組長を演じた舘ひろし(70才)。ハードボイルドなイメージだが、現役のヤクザを演じるのは初めてという舘が心酔し、背中を追い続けたのが、昨年8月に亡くなった渡哲也さん(享年78)だ。 晩年、幾度となく病魔と闘う渡さんに、舘は寄り添い続けた。直腸がんで渡さんが虎の門病院(東京・港区)に入院していた1991年。入院食は近くにあるホテルオークラの厨房から届けていたが、どうしても冷えてしまう。渡さんが「熱い天ぷらが食べたいんだよな」とつぶやいたのを聞いた舘は、ヒルトンホテル(現キャピトル東急)の天ぷら職人を連れてきて、病院の前にキッチンカーを止め、病室に揚げたてを運んだ。「ひろし、熱いよ」 そう言いながら、渡さんは泣いていたという。「渡さんと舘さんは、かつて1日100本のたばこを吸う愛煙家でした。舘さんはたばこの持ち方も渡さんを真似ていましたね。20年ほど前、渡さんが肺気腫を患いました。渡さんが吸えなくなると、それを知った舘さんはその日を境に、たばこをすっぱりやめてしまった。兄貴分にならった、というよりも、渡さんの体調が回復するように“願掛け”をしたのではないでしょうか」(石原プロ関係者) 舘が渡さんに最後に会ったのは一昨年の7月。それからは、2週間に1度は電話で話していたという。いつも渡さんは「ありがとう。オレのことを気にかけてくれるのはお前だけだよ」と話したという。 映画『ヤクザと家族』の劇中で“子分”役の綾野剛(39才)が、最期の病床にある舘の手を握るシーンに、渡さんと舘の姿が重なる。「病気をしてから、渡さんはゆっくりとしか歩けなくなった。舘さんは一緒に歩くとき、その速さだけでなく、歩幅まで合わせて歩いていた」(舘の知人) 舘は渡さんの「静かに逝きたい」という意思に従い、密葬には参加しなかった──。 今回の映画は、キャストもスタッフも30代、40代が中心。舘はそんな若い仲間の演技にも目を細め、「素晴らしい」と声をかけていたという。 石原プロはこの1月に解散した。舘にとって石原プロ最後の作品が、この映画だった。舘は「渡さんと裕次郎さんの“映画を作る”という夢のともしびを持ち続けていたい」と語った。時代は移り変わる。だが、変わらないものが、人から人へと受け継がれていく。※女性セブン2021年2月18・25日号
2021.02.07 16:00
女性セブン
深夜までサシ飲みも 渡哲也と舘ひろし「兄貴と弟分」の濃密な40年
深夜までサシ飲みも 渡哲也と舘ひろし「兄貴と弟分」の濃密な40年
 孤独な不良少年が親分と出会って“家族”を知る──これは、綾野剛(39才)と舘ひろし(70才)が出演した映画『ヤクザと家族 The Family』のなかの話。それはそのまま、暴れん坊だった若き日の舘ひろしが渡哲也さん(享年78)に出会い、惚れ込み、背中を追う姿と重なる。銀幕の裏側で紡がれた男と男の物語──。 舘は伝説のバイクチーム「クールス」を経て、1976年に俳優デビュー。転機は“お館(やかた)”と慕う渡さんとの出会いだ。東京・青山の秩父宮ラグビー場近くの喫茶店。ドラマ『西部警察』への出演が決まった29才の舘に、渡さんから「記者発表前に、一度会おう」と連絡があった。店には先に渡さんが入っていた。舘の姿を見て、渡さんはパッと立ち上がってこう言ったという。「舘くんですね。渡です」 渡さんにスッと差し出された手を、舘は強く握り返した。駆け出しの俳優に、そんなに丁寧な姿勢の映画スターはそれまでいなかった。挨拶しても机の上に足を置きながら生返事で返されることもざら。雷に打たれたような衝撃を受け、それ以来、撮影現場でも渡さんの姿勢にどんどん惚れ込んでいき、1983年、石原プロに所属することになった。「言うまでもなく石原プロのトップは石原裕次郎さん。しかし、舘さんはあくまで“渡さんの弟分”を貫きました。裕次郎さんにも、“僕は渡さんの背中を見ているので、裕次郎さんの背中は見えない”と言っていたほどです。裕次郎さん亡き後は、それこそ本当の親分、子分のようでした」とは、石原プロ関係者だ。 ロケの際はいつもホテルで部屋飲み。ほかの共演者やスタッフは日付が変わる頃に部屋を出たが、渡さんは「ひろしはまだいいだろ」と引き留めた。夜中の3時、4時まで2人で飲むのは当たり前。舘は2時間ほど横になって急いで現場に向かったが、渡さんはゆっくり昼前に顔を出したという。渡さんにとっても心を許せる“舎弟”だったのだろう。 渡さんは寡黙なタイプ。豪放磊落で知られる勝新太郎さんが石原プロを訪ねると、渡さんはいつも舘を呼んで相手をさせたという。舘が勝さんの酒席のエピソードに詳しいのは、そういう事情だった。「演技について渡さんが舘さんにアドバイスしたのは、一言だけだったそうです。それは、『ひろし、芝居なんかしちゃいけない』。舘さんは、裕次郎さんも渡さんも、自分も含めて石原軍団は“大根役者ぞろい”とよく言います。 その心は、“スクリーンに存在するだけで人を惹きつける存在感”が大切だということ。『西部警察』はビルが爆破され、車がひっくり返るだけなのに、裕次郎さんと渡さんがたばこをくわえトレンチコートを着て歩くだけで魅力的な作品になる。いちばん必要なのは演技のテクニックではない。それを渡さんは舘さんに伝えようとしたのです」(芸能関係者)※女性セブン2021年2月18・25日号
2021.02.06 16:00
女性セブン
舘ひろし、初の組長役 「このご時世でもやるべきだと感じた」
舘ひろし、初の組長役 「このご時世でもやるべきだと感じた」
「なんだ? オレのタマ(命)でもとってみるか?」。舘ひろし(70才)の口元に浮かぶ笑みが消えるのと同時に、右手に握った湯飲みの水が、敵対組織の幹部の顔面をびっしょりと濡らしていた。舘の咆哮が響く。「このチンピラが!」──。 公開中の映画『ヤクザと家族 The Family』で舘が演じるのは暴力団の組長。無頼の生活を送る若き不良の綾野剛(39才)を“ヤクザという家族”に迎え入れるが、時代の流れのなかで、組員やその家族までもが「ハンシャ(反社)」として追い詰められていく。冒頭は、普段は穏やかな舘が凄みを見せる重要な場面だ。「舘さんが徹底的にこだわったシーンでした。湯飲みを持ち上げるタイミングや所作に迫力を持たせようとすると、敵対ヤクザ役の豊原功補さん(55才)にうまく水がかからない。何度も何度もリハーサルをし、撮影しては床やテーブルを拭いたり、壁を乾かしたり、衣装を着替えたりを繰り返し、舘さんも何度もモニターをチェックして鬼気迫るシーンが完成しました」(映画関係者) ハードボイルドなイメージの舘だが、現役のヤクザを演じるのは、これが初めてだという。たしかに代表作の『あぶない刑事』をはじめ、舘といえば刑事役。舘は「自分のイメージを壊すリスクもある。石原プロとしてもこのご時世で“ハンシャ”の役はやらせたくなかった。それでもこの役はやるべきだと感じた」と語っている。本作品で監修・所作指導をした作家の沖田臥竜さんが明かす。「舘さんと綾野さんが親子盃を交わす『盃事』のシーンで、舘さんは“セリフが多すぎないか”と違和感を持ったそうです。他人の大人が“親子”になろうという神聖な儀式では、言葉は少ない方がいいと感じたのでしょう。私から、“現実には盃事の最中は無言を貫く親分もいれば、よく話す親分もいる。舘さんがどういう親分を演じたいかでしょう”と助言すると、舘さんはじっと考えて、セリフをごくシンプルにし、インパクトのあるものに変えた。舘さんは自分の“親分像”に渡哲也さん(享年78)を重ねているのだ、と納得しました」 舘自身、雑誌のインタビューでこう語っている。「この役を演じるうちに、渡さんを追っているような気がしていた。渡さんならこう演じただろうとか、渡さんならこんなふうにしゃべっただろうとか」 さらに初日舞台挨拶で「誰に観てもらいたいか」と問われると、「亡くなった渡さん」と感慨深げに語った。※女性セブン2021年2月18・25日号
2021.02.05 11:00
女性セブン
舘ひろしが石原裕次郎さん、渡哲也さんとの思い出を振り返る
舘ひろし 石原さん、渡さんに言われた「芝居なんかしちゃだめ」
 映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、映画『ヤクザと家族 The Family』(1月29日全国公開)に出演する舘ひろしが語った、『あぶない刑事』に主演するにあたって参考にしたこと、石原裕次郎さん、渡哲也さんに言われた芝居をすることについての言葉を紹介する。 * * * 舘ひろしは一九八六年、テレビドラマ『あぶない刑事』(日本テレビ)に主演。さまざまなガンアクションを繰り広げている。「僕はいろんなところから盗むんですよね。『あぶない刑事』でやっていたのは、ドアをバーンと開けて敵のアジトに入って銃を構える時に、必ずしゃがむこと。これは『007 ドクター・ノオ』のジェームズ・ボンドです。 カジノでバカラをやっていて、自分の部屋に戻る。すると、部屋の奥から物音がするんで、まず拳銃を出し、ドアを開け、しゃがむ。ドアがいきなり開いたら、相手は自分の目線の高さを見るわけですよね。ところが、しゃがんでいるとすぐに見えない。ほんの短い時間ですが、その間にこちらは先手を打てるわけです。だから、しゃがんで入る。それが僕には魅力的に見えました。 それから、銃を構える時に正面に構えることは、なるべくしませんでした。斜めに構えることで、相手の弾丸が当たる面を少なくした方がいいだろうと。そういうことを考えながらやっていくのが面白かった。 いろんな映画を見て、いろいろ盗む。僕のお芝居は多分ほとんどどこかの盗作ですよ。スティーブ・マックイーンの『ブリット』とか、これ以外にないという車の降り方をするんです。そういうのを参考にしました」 演技経験のない状況から俳優のキャリアを積んできた舘にとって、石原裕次郎や渡哲也の姿が一つの目標となる。「俳優にはお芝居よりも大事なことがある気がするんです。それは石原さん、渡さんからも言われたことです。『ひろし、芝居なんかしちゃだめだよ』って。 二人ともお芝居は下手ですよね。僕も含めて、うちはみんな下手です。でも芝居はセリフを言ったりカメラの前で動いていれば、なんとかなるんです。きっとそれは大切なことではない。 究極は、芝居をしないでそこに存在している、ということではないかと思います。映画を観た時の存在感。大事なのは、その映画の中に生きている石原裕次郎さん、渡哲也さんを感じさせることなんですよね。 たとえば、『西部警察』はストーリーも大した話ではなくて、爆破して車がひっくり返るだけです(笑)。でも、最後に石原さんと渡さんの二人が港をバックにトレンチコートを着て歩くだけで説得力がある。どんなストーリーでも、最後に二人が歩けば納得しちゃう。俳優って、究極はそういうことだと思うんです。 あの二人のような俳優でありたい。圧倒的な存在感。俳優って、ファーストカットでスクリーンにドーンと登場した時に決まると思うんです。少々芝居が下手でも、この圧倒的な存在感とか格好良さみたいなものがあれば、もっちゃうんですよね。 ホンをもらって芝居をするのではなく、人生丸ごと演じちゃえ。お二人は僕にそう言いたかったんだと思います。その中で何かを切り取っていけばいい。 二人とも人生を演じきった。僕は、そこまでは演じ切れていませんね」【プロフィール】春日太一(かすが・たいち)/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』『鬼才 五社英雄の生涯』(ともに文藝春秋)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮社)など。本連載をまとめた『すべての道は役者に通ず』(小学館)が発売中。撮影/五十嵐美弥※週刊ポスト2021年1月29日号
2021.01.24 16:00
週刊ポスト
舘ひろしが俳優人生のターニングポイントを振り返る
舘ひろし 人生変えた渡哲也さんとの出会い、「華がある」という言葉
 映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、出演映画『ヤクザと家族 The Family』の公開を控えている舘ひろしが、役者を始めたきっかけ、忘れられない渡哲也との出会いについて語った言葉をお届けする。 * * * 舘ひろしはロックバンド「クールス」のメンバーとしてデビューした後、一九七六年に映画『暴力教室』に出演、俳優としてのキャリアをスタートさせる。「芸能界に入るつもりは全くありませんでした。歌を歌う、映画に出るなんてことは、どちらも僕の頭の中にはなくて。 うちは親父が医者だから、医者になれと言われていたんですが、勉強もしないで医者になんてなれないんですよね。医学部受験に失敗して、それから建築の勉強を始めました。 その頃、原宿で暴走族仲間とよく行った喫茶店で声をかけられました。最初は、東映のプロデューサーから『映画をやれ』と言われたんですが、『映画なんてやらないよ』と返しているうちに、レコード会社から『レコード出しませんか』と話が来て、みんなと一緒にやるなら、まあいいかなと。それで、誰もバンドなんてやったのはいないのに始めたんですよ。 ですから、ここから俳優になろうと決めた──というのはなくて、いつのまにか知らないうちに嫌々やっていました」 一九七九年にテレビドラマ『西部警察』(テレビ朝日)に出演、これをきっかけに石原裕次郎率いる石原プロモーションに参加することになる。「東映、それから角川の映画に出た後、石原プロの『大都会PARTIII』に出ないかという話になったんです。でも、その時は全くやる気がなくて、『テレビはやらないよ』とお断りして。そしたら一年後に今度は『西部警察』をやるから、どうしても欲しい、と。それで『半年だけ』という約束で『西部警察』に入っていきました」『西部警察』で主演の渡哲也と出会う。この出会いが、その後の俳優人生を決定づけることになる。「一番のターニングポイントは渡さんと出会ったこと。それが僕の人生を大きく変えました。 初めて会った時のことは今も覚えています。それまでも東映で俳優さんたちとは会っているわけです。誰かは言いませんが、すごく軽んじられました。『今度よろしくお願いします』と挨拶しても『おうおう、頑張れや』とたばこ吸いながら返されたり。でも、渡さんは違った。『西部警察』に出るにあたり絵画館前で記者会見をやったんです。その前に渡さんから『二人で会いたい』という連絡があって、絵画館手前の秩父宮ラグビー場近くにある喫茶店で会いました。 待ち合わせの喫茶店に行ったら、渡さんはすでに来ていて、僕を見つけたらパッと立ってね。『舘くんですね、渡です』と言って握手してくれたんです。そんな俳優、それまで一人もいませんでした。それだけに凄く衝撃があり、嬉しかった。『西部警察』をやっていると渡さんだけが『ひろし、お前には華があるな』と言ってくれたんですね。その言葉だけを頼りに今もやっている感じです。そんなこと言ってくれる俳優、いませんでしたから。 その後も渡さんはいつも作品を見てほめてくれました。いつも僕に自信をつけてくれるんです」【プロフィール】春日太一(かすが・たいち)/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』『鬼才 五社英雄の生涯』(ともに文藝春秋)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮社)など。本連載をまとめた『すべての道は役者に通ず』(小学館)が発売中。撮影/五十嵐美弥※週刊ポスト2021年1月15・22日号
2021.01.05 19:00
週刊ポスト
歌舞伎俳優の坂田藤十郎さん(享年88、Getty Images)
渡哲也さん、三浦春馬さんほか2020年に亡くなった名優たち
 今年も多くのスターが亡くなった。数々の名作、名演を残して2020年に亡くなった俳優を振り返る。●志賀勝さん(俳優 4月3日死去 享年78) 1960年、東映京都に入社。映画やドラマで斬られ役、殺られ役などを演じる大部屋俳優で結成された「ピラニア軍団」のメンバー。迫力のある風貌と存在感で『仁義なき戦い』『ビー・バップ・ハイスクール』『借王』など数多くの作品で重宝された。●三浦春馬さん(俳優 7月18日死去 享年30) 7歳の時、NHK朝ドラ『あぐり』でデビュー。『14才の母』(日本テレビ系)などで頭角を現わし、20歳でフジテレビの月9ドラマに主演。今年7月、シングル発売や撮影中のドラマ、公開前の映画を複数抱える中での突然の訃報は衝撃を与えた。●渡哲也さん(俳優 8月10日死去 享年78) 1971年、日活から石原プロに移籍。角刈りで大門警部を演じたドラマ『西部警察』(テレビ朝日系)が大ヒット。『くちなしの花』で2度『NHK紅白歌合戦』に出場。最後の仕事はCGで再現された石原裕次郎と共演した宝酒造「松竹梅」のCMだった。●岸部四郎さん(タレント 8月28日死去 享年71) ザ・タイガースのメンバーとして人気を集め、解散後はドラマ『西遊記』の沙悟浄役、『ルックルックこんにちは』(ともに日本テレビ系)の司会などで活躍。1998年、総額5億2000万円の負債を抱え、自己破産。晩年は“いじられキャラ”としてバラエティ番組にも重宝された。●坂田藤十郎さん(歌舞伎俳優 11月12日死去 享年88) 妹に中村玉緒、妻に扇千景を持つ人間国宝。上方歌舞伎の再興に尽力し、紫綬褒章や文化勲章にも輝いた。2002年、京都のホテルで51歳年下の舞妓と密会。バスローブから自身の陰部を露出させたところを『FRIDAY』に撮られて話題に。※週刊ポスト2020年12月25日号
2020.12.28 07:00
週刊ポスト
渡哲也さん 舘ひろしとの遅すぎる再会と墓移設の家族愛
渡哲也さん 舘ひろしとの遅すぎる再会と墓移設の家族愛
 都内の閑静な住宅街の一角にある、平安時代に創建された古刹。境内には著名人の墓も点在している。ひときわ大きな敷地に、彩りにあふれた花が供えられた2基の墓が建っている。その一方に眠るのは、8月10日に亡くなった渡哲也さん(享年78)だ。9月16日に四十九日法要が行われ、納骨も終わった。墓前で手を合わせるファンがいてもおかしくないが、不思議と墓参者の姿は見当たらない。「渡さんは“静かに送ってほしい”という遺言を残していましたから、四十九日法要も、その後の納骨も、ご家族と限られたかたたちだけでひっそりと行われたんです。ファンのかたも近所に住む人も、ここに渡さんが眠っていることは知らないのではないでしょうか」(同寺の檀家女性) 遺言が守られたことで葬儀に参列できなかった石原軍団のメンバーも、10月5日現在墓参りには来ていないという。「舘ひろしさん(70才)をはじめ、渡さんを“兄貴”と慕っていた石原軍団の面々がお墓参りに行っていないのは、自分たちが顔を出すことで騒ぎになることを避けて、“静かに”という渡さんの遺志を尊重するためなんです。当然、手を合わせたい気持ちはありますが、いまはがまんしている。いわば、団長の遺言を守り続けているんです」(芸能関係者) そんな中、渡さんとともに石原軍団を支えてきた舘と神田正輝(69才)は、ひっそりと“再会”を果たしていた。「月命日にあたる9月10日、舘さんと神田さんは渡さんの自宅を訪れ、納骨前の遺骨にやっと対面できたようです。線香をあげ、会話するように長時間手を合わせていたようです」(前出・芸能関係者) 渡さんが静かに眠る墓は、家族に対する愛であふれた墓でもある。「渡さんのお墓のすぐ横に、もう1つお墓が建っているのですが、それは奥さんである俊子さんの実家のお墓なんです。そもそもこのお寺は俊子さんの実家の菩提寺で、兵庫県の淡路島出身の渡さんは、地元にあったお墓を2007年にここに移しているんです。その際、自分のお墓の横に、俊子さんの実家のお墓も新しく建立しました」(前出・檀家女性) 渡さんは結婚4年目に膠原病となり、その後も直腸がんや急性心筋梗塞などを患い、俊子さんとの結婚生活の大半は病との闘いとともにあった。「大病を繰り返す中で渡さんは、献身的に看病を続けてくれた俊子さんに感謝していました。でも渡さんは口下手で、それを素直に口にすることができなかった。自分の病状を冷静にみたとき、奥さんを残して逝く可能性を感じた渡さんは、少しでも墓参りが楽なようにと墓の移設を決めたのです。移設した2007年は、石原裕次郎さん(享年52)が亡くなってちょうど20年目でもありました。いまでいう“終活”のひとつでもあったようです」(渡さんの知人) 自分の家の墓を新たに建てる人は多いが、同時に妻の実家の墓石まで新しくする例は少ないという。それほどまでに、渡さんの俊子さんに対する愛が深かったのだろう。 四十九日から2週間後の9月30日、裕次郎さんの妻で石原プロモーション会長の石原まき子さんが、次のようなコメントを発表した。《遺言に従いご家族、会社が徹底して故人の希望に従い、密葬を8月14日に執り行い、四十九日法要を9月16日に家族のみで執り行いました事を報告とさせていただくと共に故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます》 周囲の思いに守られるように、渡さんの墓はひっそりとたたずんでいた。※女性セブン2020年10月22日号
2020.10.10 16:00
女性セブン
(写真左上から時計回りに)荒井晴彦、森達也、白石和彌、井上淳一の各氏
『仁義なき戦い』で激論!いま続編を撮るなら主演は誰にするか【ミニシアター押しかけトーク隊第2回】
 コロナ禍で苦戦する全国の映画館を応援しようと、4人の映画人がオンライン・トークショーを行っている。『ミニシアター押しかけトーク隊「勝手にしゃべりやがれ」』と題したイベントでは、賛同した劇場で上映された作品について、荒井晴彦(脚本家、映画監督)、森達也(映画監督、作家)、白石和彌(映画監督)、井上淳一(脚本家、映画監督)の4氏がオンラインで縦横無尽に語る。その模様は、上映直後の映画館の観客が観覧できるほか、YouTubeでも公開されているが、ここではそれを活字化してお届けします。最初の作品は、『仁義なき戦い』。白熱の後編です(文中一部敬称略)。「おれ、やくざ、嫌いだもの」井上:荒井さんは深作欣二さんの演出を見ていて思うことはありますか。笠原和夫さんは最初、『仁義なき戦い』を深作さんが撮るのをいやがったんですよね。荒井:深作さんが笠原さんに電話して、「脚本を一行も変えないから、おれにやらせてくれ」と言ったというのね。井上:その前に『顔役』(1965)で深作さんが笠原さんの書いたホンをこんなんじゃ撮れないとめちゃめちゃ直した挙げ句、体調を崩して、石井輝男に監督が交代するということがあった。荒井:そうそう。でも映画を見て、「間違っていた。深作でよかった」って言っていますよね。井上:みんながほめる金子信雄なんですけど、最初は三國連太郎さんにオファーしたらしいんですよね。それが断られて金子さんになったら、ああいう山守を演じて、笠原さんは、いくらなんでもやり過ぎだろうって、あそこまでやったらさすがに神輿が軽過ぎて担ぐ奴はいなだろうって。もう一個、実録にしては、やくざを美化しすぎだろうとも言っているんですが、当時、そういう評論とかはあったんですか。荒井:いや、それはわかんない。ただやくざ映画に対する否定的な雰囲気はあったから、あったのかなあ。でも「キネマ旬報ベストテン」でやくざ映画が上位(『仁義なき戦い』が2位、『仁義なき戦い 代理戦争』が8位)にきたのは初めてじゃないかな。それまではやくざ映画とロマンポルノはベストテンの圏外だった気がする。ロマンポルノがキネ旬ベストテンに入った時に、ベテランの映画評論家は選考委員を辞めるということがあった。井上:それまでやくざ映画に見向きもしなかった朝日新聞がはじめて映画評で取り上げ絶賛したとも、笠原さんが書いてましたね。森:さっき井上さんが『仁義なき戦い』を初めて見た人はどういう感想を持つだろうって言ったのはぼくも興味あるところで、今はもうやくざというのは反社会的勢力なわけでしょ。当時におけるやくざの位置と今の位置とはぜんぜん違う。それこそ『仁義~』のときには実録だから、自分をモデルにした役を俳優が演じるとき、太秦の撮影所の中で、「わしはそんなこと言わん」とか「そこでハジキを撃ったんじゃ」とか(笑)演技指導までしたっていう話があるけれど、いわば共同制作ですね。今なら大変な問題になります。基本的には反社会的な存在だから、テレビの画面においても彼らは顔を出せない、必ずモザイクの入る存在です。別にルールじゃない。自主規制です。 40年以上も前だけど、例えばテレビドキュメンタリーの世界では伝説的な存在であるRKBの木村栄文が撮った『祭りばやしが聞こえる』(1975)は、九州のテキ屋の親分と組員たちを撮っています。もちろんノーモザイク。でもそんな作品はもう作れないと誰もが思っていた。だから3年前に東海テレビが『ヤクザと憲法』(2016)というドキュメンタリーで、大阪の指定暴力団「二代目東組」に密着して放送したとき、テレビ業界の人たちは僕も含めて、大きな衝撃を受けたんです。何だよ撮ってもいいのかよって。『ヤクザと憲法』は放送後に再編集して映画になったけれど、最初の印象は、やっぱりやくざたちがみんないい顔しているんです。『仁義~』は当然みんな俳優さんたちがやっているんだけど、当時は、距離が近かったんじゃないのかな。今、『ヤクザと憲法』を見てもそのままキャラクターがピラニア軍団として『仁義なき戦いに』に出てきても全く違和感がない存在で、いろんな意味で『仁義なき戦い』のなかでは作りものなんだけど、それが反転してリアルになってしまっているみたいな不思議な印象を、今回『仁義~』を再見しながら、あらためて感じました。白石:ほんとうに、じゃあ、ここで撮影しますって言ったら、その地元の組の人が交通整理しに来てくれて、「任しといてください」って言って、ぜんぶやってくれるっていう。井上:それを言ったら、われわれの師匠の若松孝二も若い時は新宿の安田組にいて、撮影現場の交通整理をしていて、助監督になった人ですからね(笑)。荒井:それで面白い話で、ニッポン・コレクションという日本映画祭でフランクフルト映画祭へ若松さんと一緒に行ったときに、飛行機の中で隣で映画を見ているんだよ。何を見てんのかなと思ったら、「荒井、これ面白いな」っていうから「なんですか」って覗いたら、『仁義~』なんだよ。「今頃見てるんですか。深作さん、お友達じゃないですか」って言ったら、「おれ、やくざ、嫌いだもの」って(笑)。『孤狼の血』養豚場の大きな意味合い井上:あれは2005年か。白石:30年ぐらいずっと若松さん、深作さんと仲がいいと言っていたのにひどいなあ(笑)。井上:森さんが『仁義なき戦い』にあまり反応しなかったというのは、やくざ映画というジャンル自体、嫌いだったんですか。森:いや、嫌いじゃないですよ。でも大学生の頃はもっとウェルメイドなストーリーテリングで見せるみたいな映画ばかり見てたような気がします。荒井:『ゴッドファーザー』(1972)なんかはどうですか。森:だめですね。もっと単純に人の機微みたいなものは違うところで描けるんじゃないかなというのがあったから。暴力シーンがひょっとして嫌いだったのかなあ。あの頃はニール・サイモンとかウディ・アレンばかり見ていたから。井上:へええ、意外。森:恥ずかしいね。こういう話は。弱点を今、言ってしまったような気がするけど。昔です。もう30年以上前ですから。井上:でもこういう話っていいですね。高校生の初デートで『仁義~』を見たいって言われて『燃えよドラゴン』を選んだり、ニール・サイモンが好きって三谷幸喜かっていう(笑)。白石さんはどうなの。やくざ映画って。中・高生の時にVシネが全盛でいっぱいやくざ映画があっただろうけど。白石:当然そこから『仁義~』を見ているんですけど、東映さんも実録ものもわりと早い段階でネタがなくなっちゃうじゃないですか。そこからこの世界観を利用して『資金源強奪』(1975)とか『暴走パニック大激突!』(1976)とか、より劇画化になっていった。それがけっこう好きで、そこからさらに派生していったのが『県警対組織暴力』(1975)で、好きで見ていましたね。井上:昨日もぼくたち、渋谷ロフト9でトークをやったんですけど、その中で最後に荒井さんが「お客さんはバカ様です」と言ったことに絡んだ人がいて、「映画は娯楽なんだ」って批判されたりしたんだけど、『仁義なき戦い』を見ていても、組織というものがいかに脆弱なものであって、それでも組織に頼らなければならない人間がいかに滑稽であるか。その組織の最たるものが国家で、組織の犯す最大の過ちが戦争であり、戦争の中で一番犠牲になるのが若い人たちだよという。そういうことを、娯楽であるやくざ映画でやろうとしているわけじゃないですか。任侠映画だって、絶対にシャブは売らないという古い価値観を守ろうとする昔ながらの組と金のためなら手段を選ばずという近代的な組織との対決という、近代への抵抗、資本主義へ懐疑をやっている。ある時期までの時代劇だってそうじゃないですか。時代劇の形を借りて、世の不条理を撃つ。そういうことは荒井さんの周囲の映画青年たちは読み取って、映画を見たら同世代で話していたわけですよね。でも、今はそうやって読み取ってもくれないし、読み取れる「何か」を描いている映画もない。娯楽という言葉が完全に一面的になっている。荒井:当時、映画の見方で、たとえば“企業内抵抗”という言葉があってね、作家が会社のお金で撮る中でどれぐらい会社の要請に抗って、自分の作家性、政治的主張を出しているのか。それが評価の基準だったね。だから深作さんの『誇り高き挑戦』(1962)は、ラストで鶴田浩二がサングラスを外して国会議事堂を見る場面に深作さんの反米・反権力を読んでいくという。国会が悪いという社会性っていうか。だから、昔からやくざ映画という形を借りて、何か言う人は言っていたような気がするね。笠原さんは『やくざの墓場 くちなしの花』(1976)でやくざを描くとき、被差別の問題、在日朝鮮人の問題は避けて通れない。それが描けないなら俺はもうやらないとは言ってましたね。それから『広島死闘篇』で梶芽衣子の役もたしか被差別の女性として書いているんだけど曖昧にされるんだ。井上:『広島死闘篇』の梶芽衣子は、村岡組という広島の大きい組の組長の姪っ子なんですが、鉄砲玉でチンピラの山中正治(北大路欣也)に惚れてしまう。笠原さんは、村岡一族が被差別部落の出身で、だからこそ梶芽衣子は金看板のやくざである山中に執着するというテーマをやろうとしたって言っていましたね。森:最初はそういうホンだったんですか。実録だから、実際にそういう人だったわけですか。ああ、それは知らなかった。井上:しかも『広島死闘篇』の山中に関しては、ほんとうは時間軸でいえば、一作目と同じ敗戦直後なんですね。でもこれからのシリーズ展開もあるし、闇市をもう一度作るのはお金がかかるしで、昭和30年ぐらいからの話にしてくれと会社から頼まれて、戦争に行き遅れた元軍国少年がゼロ戦の代わりに拳銃で予科練の歌を歌いながら人を殺していくという純情が見えなくなった、とやはり笠原さんが書いています。荒井:『やくざの墓 くちなしの花』でも梶芽衣子がシャブ中になる渡哲也の彼女の役をやるんだけど、在日の設定じゃなかったかな。それで「日本人は信用できない」っていう笠原さんの書いたセリフを、深作さんは「警察は信用できない」って変えちゃうという、そういう壁がある。でも『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』(1975・山下耕作監督)では柳川組っていう在日の強力な組をやってるじゃない? 井上:あの映画も在日という言葉は一言も出てこないけど、ファーストシーンでチンピラ同士の殴り込みの時に、キムチがバーンと飛んだりしますからね。森:『孤狼の血』だって養豚場がけっこう大きな意味あいで出てくるじゃないですか。もしかしたら、そういうことを匂わせてるのかなってちょっと考えました。白石:いや、もう完全にねらっています。荒井:もうちょっとハッキリやろうな(笑)。井上:『孤狼の血』はレンタルで並んでいるんで、ぜひ、ご覧になっていない方は見ていただきたいんですけど。養豚場に関しては、セリフでハッキリ書いていても、それを切らざるを得なかったとか。白石:そこまでセリフは書いていないんですけど、やっぱりそういう地域性とかどこからそういうやくざの人たちが出てきたのかって当然突き詰めていくと、そこに当たりますよね。それと『孤狼の血』は、『仁義なき戦い』の世界観をお借りして、昭和63年の正月、昭和と平成の切れ目ぐらいの設定でやっているんですけど、一番、悩んだのは出てくる人たちが戦争をひきずっているかどうかっていうことですね。『仁義なき戦い』は当然、それが如実に当たり前にあって、それが見つけられるかどうかというのが難しかったですね。「弾はまだ残っておるがよう」井上:今、配信の方で質問を受け付けていますが、『仁義なき戦い』でとくに印象に残っているセリフはありますかという質問ですが、いかがでしょうか。森:やはり最後の菅原文太が「山守さん、弾あ、まだ、残っているがよう」ですね。これはいろんな意味で使えますよね。井上:実際に、文太さんは亡くなる直前に沖縄で講演をして最後に「安倍さん、弾はまだ残っておるがよう」と政権批判を込めて言ったんですよね。白石:やはり『広島死闘篇』の大友勝利が名セリフマシーンで、「あれらはオメコの汁で飯喰うとるんで!」っていう下品な最高のセリフを吐きまくっていますよね(笑)。荒井:それは『県警対組織暴力』でもやっているよね。笠原さん、東映に入る前にラブホテルみたいなところで働いていて、それで食ってたみたいなところがあるからね。井上:ぼくはやはり「神輿は軽い方がええんよ」ですね。それこそ、安倍政権にも通じるみたいな(笑)荒井:井上と白石にとって若松さんは神輿じゃなかったの?白石:別に神輿ではないですよ。荒井:俺や足立(正生)さんは神輿の感じでやっていたけどね。いかにうまく乗せるかって。井上:荒井さんの時代と違って、僕たちの頃は若松プロもそんなに仕事もしていなかったし、だから疑似親子関係という意味では、親分、子分みたいなことがあったかもしれないですけど、あまり神輿という感じはなかったなあ。白石:ぼくもまったく同じ意見です。荒井:足立さんも俺もそうだけど、若松さんは面白いし魅力的な人なんだけど、やはり批評的に見ざるを得ない。井上はゴマすりテープなんか作っていたぐらいに献身的だったから。井上:これ、見てる人は『仁義なき戦い』の話なのに、若松って誰なんだと思いませんか(笑)。森さんなんかはちなみに今の話でいうと、実生活で山守みたいな人とああいう関係になったことはあるんですか。森:ぼくは最初テレビだし、テレビの世界でああいう位置にいた人はほぼいない。だってテレビに失望してやめるつもりでテレビから排除されて映画の世界に来てしまったという感じだから。尊敬できる人はいるけど、師匠はいないです。井上:これから上映される『広島死闘篇』で笠原さんは、ほんとうは北大路欣也扮する山中正治が刑務所の中でカマを掘られるシーンを書きたかったというんです。カマを掘られて男性性を蹂躙された人は、逆にシャバに出てから鉄砲玉になりやすいと。荒井:いや、ようするに男だっていうことをどっかで証明したくて、女のところに行くんだけど、勃たないと。で、上の人に殺りに行けと言われたら、よし、男を売れるっていんで、すぐ行くということは言っていますね。井上:一度笠原さんに聞いたことがあるんですけど、菅原文太の広能昌三のモデルだった美能幸三さんに取材に行ったときに、美能さん、刑務所でカマを掘りなれてるから笠原さんを口説こうとするんですって。ずっと太ももを触られて、でも取材しなくちゃいけないから、手を払いのけられなくて、どうやってこの危機を逃れようと思いながら取材したんだって(笑)。荒井:俺、笠原さんに言われたことがあるよ、海軍もそうだったって。君なんかねえって。井上:今、やくざ映画をやるんなら、そういうことができると面白いですね。『広島死闘篇』の時はあまりに山中のモデル(実際は山上)が広島でスター過ぎるから、美能さんにやっちゃいけないと言われたと。荒井:それとやくざは男の世界っていうけど、女に近いという風に言ってるよね。妬み、嫉み、裏切り、やくざって根は女なんだよって笠原さんは言っていたよね。井上:じゃあ、この映画は作りとしてほんとうに女だけの世界に広能昌三という男がひとり入っているんですかね、主役ということもあるけど、文太さんだけはそう作ってないですよね。荒井:それはモデルの美能さんに遠慮しているっていうか美能さんの意見もだいぶあったみたいだから、最初に書いたホンは女との別れのシーンで終えようとしたら、美能さんから、「俺はこんなこと、しとりゃあせんぞ」と言われて、ああいうラストになったと言っていましたね。井上:ラストの葬式のシーンは、女との話で終われなかったから、ああなったということですか。荒井:そうそう。井上:最初、『仁義~』は松方弘樹さんが広能で、坂井鉄也が菅原文太さんだったですね。でもシリーズにしたいから、文太さんが死ぬと困るんで、逆にして今の形になったんですよね。荒井:あと、美能さんの役というのは動かないんだよね。だから主役たりえないんじゃないかって笠原さんは思っていたんじゃないかな。井上:だって『仁義なき戦い 完結篇』 なんて、ずっと広能は刑務所に入っていますからね。荒井:それと若い頃は『広島死闘篇』が一番いいな、好きだなって思っていたけど、自分がシナリオを書くようになってから見たり読んだりすると『代理戦争』っていうのは一番すごいな。電話だけで若い連中が死んでいくという。井上:ちなみに森さんは『仁義なき戦い』の5本のなかではどれが一番お好きですか。森:印象だけですけど、ぼくも『代理戦争』です。具体的にどこって憶えてないけど。荒井:井上、『仁義なき戦い』は4部作っていうんだよ。笠原さんが書いた4本が『仁義なき戦い』。井上:ああ、5本目は笠原さんが『頂上作戦』(1974)までで描き切ったということで、高田宏治さんに資料を全部渡して、代わったんですよね。ちなみに白石はどれが好きなの?白石:ぼくは『広島死闘篇』のアメリカン・ニューシネマ感とかはいまだに見直してもすごい、刺さるものがあります。ああいうのって、やろうと思ってもなかなかできないですね。荒井:当時、驚いたのは、俺、やくざが自殺するっていうのに衝撃を受けたんだ。渡哲也の石川力夫が自殺する『仁義の墓場』(1975)はこのあとだから。いつも原爆ドームで終わるということがいい白石:最後に『仁義なき戦い』の続編をつくるとしたら、主演を誰にしますかっていう質問なんですけど。井上:白石から言ってみる?白石:いやいや、散々、いろいろ考えて『孤狼の血』である程度、答えを出したつもりなんで。井上:松坂桃李ってことか。白石:でもまだまだちゃんとやってもらえれば人材は豊富だと思いますね。井上:荒井さんは誰にします?荒井:石井隆の『GONINサーガ』(2015)をやっている連中ならみんなできんじゃないの。東出昌大とか柄本佑とか。森:今の質問は『仁義なき戦い』の続編ということであれば、その主演、文太さんの位置というのは狂言回し的なところがあるじゃないですか。彼は動かない。で、まわりがどんどん動いていく。だからそういうキャラクターで誰がいいのかなって思ったけど、少なくても、やっぱりねという人にはしたくない。意表を突きたいですね。だから、たとえばジャニーズ事務所の誰か、とかね。井上:ぼくは狙って言うと、ウーマンラッシュアワーの村本大輔かな。ああいう政治漫才やる人がやったら面白くないですか。そういうものを内に秘めた人が。ちょっと狙い過ぎだけど。荒井:あと、やっぱり『仁義なき戦い』は最後、いつも原爆ドームで終わるということがいいよね。深作さん、笠原さんがやろうとしたのは戦争なんだと。深作さんは『仁義なき戦い』の前に『軍旗はためく下に』を撮っていて、これが左からの天皇批判だとしたら、間に『仁義~』があって、その後に笠原さんのホンで『あゝ決戦航空隊』(1974・山下耕作監督)がある。これは右からの天皇制批判なのね。つまり深作さんと笠原さんのかなり真摯な戦争映画の間にはさまっているのが四本の『仁義なき戦い』なんだよね。(了)◇構成/高崎俊夫 ◆劇場情報 このトークライブが行われたのは「シネプラザ サントムーン」です(於・2020年6月28日)。静岡県駿東郡清水町玉川61-2(http://cineplaza.net/theater/)【プロフィール】●荒井晴彦/1947年、東京都出身。季刊誌『映画芸術』編集・発行人。若松プロの助監督を経て、1977年『新宿乱れ街 いくまで待って』で脚本家デビュー。以降、『赫い髪の女』(1979・神代辰巳監督)、『キャバレー日記』(1982・根岸吉太郎監督)など日活ロマンポルノの名作の脚本を一筆。以降、日本を代表する脚本家として活躍。『Wの悲劇』(1984・澤井信一郎監督)、『リボルバー』(1988・藤田敏八監督)、『ヴァイブレータ』(2003・廣木隆一監督)、『大鹿村騒動記』(2011・阪本順治監督)、『共喰い』(2013・青山真治監督)の5作品でキネマ旬報脚本賞受賞。他の脚本担当作品として『嗚呼!おんなたち猥歌』(1981・神代辰巳監督)、『遠雷』(1981・根岸吉太郎監督)、『探偵物語』(1983・根岸吉太郎監督)など多数。また監督・脚本作品として『身も心も』(1997)、『この国の空』(2015)、『火口のふたり』(2019・キネマ旬報ベストテン・日本映画第1位)がある。●森達也/1956年、広島県出身。立教大学在学中に映画サークルに所属し、テレビ番組制作会社を経てフリーに。地下鉄サリン事件と他のオウム信者たちを描いた『A』(1998)は、ベルリン国際映画祭など多数の海外映画祭でも上映され世界的に大きな話題となった。続く『A2』(2001)で山形国際ドキュメンタリー映画祭特別賞・市民賞を受賞。は東日本大震災後の被災地で撮影された『311』(2011)を綿井健陽、松林要樹、安岡卓治と共同監督。2016年にはゴーストライター騒動をテーマとする映画『Fake』を発表した。最新作は『新聞記者』(2019・キネマ旬報ベストテン・文化映画第1位)。●白石和彌/1974年、北海道出身。中村幻児監督主催の映像塾に参加。以降、若松孝二監督に師事し、『明日なき街角』(1997)、『完全なる飼育 赤い殺意』(2004)、『17歳の風景 少年は何を見たのか』(2005)などの若松作品で助監督を務める。2010年『ロストパラダイス・イン・トーキョー』で長編デビュー。2013年、ノンフィクションベストセラーを原作とした映画『凶悪』が、第38回報知映画賞監督賞、第37回日本アカデミー賞優秀監督賞・脚本賞などを受賞。その他の主な監督作品に、『日本で一番悪い奴ら』(2016)、『牝猫たち』(2017)、『彼女がその名を知らない鳥たち』(2017)、『サニー/32』(2018)、『孤狼の血』(2018)、『止められるか、俺たちを』(2018)、『麻雀放浪記2020』(2019)、『凪待ち』(2019)など。●井上 淳一/1965年、愛知県出身。大学入学と同時に若松孝二監督に師事し、若松プロ作品に助監督として参加。1990年、『パンツの穴・ムケそでムケないイチゴたち』で監督デビュー。その後、荒井晴彦氏に師事。脚本家として『くノ一忍法帖・柳生外伝』(1998・小沢仁志監督)『アジアの純真』(2011・片嶋一貴監督)『あいときぼうのまち』(2014・菅乃廣監督)などの脚本を執筆。『戦争と一人の女』(2013)で監督再デビュー。慶州国際映画祭、トリノ国際映画祭ほか、数々の海外映画祭に招待される。ドキュメンタリー『大地を受け継ぐ』(2016)を監督後、白石和彌監督の『止められるか、俺たちを』で脚本を執筆。昨年、監督作『誰がために憲法はある』を発表。
2020.10.04 16:00
NEWSポストセブン
あああ
渡哲也さん 石原軍団の姿なき家族葬は「遺言」を守った結果
 苦楽を共にしたからこそ、「故人の遺志」は尊重したかった。遺言に忠実に執り行われた家族葬が、物議をかもしている。《葬儀につきましては、静かに送ってほしいという故人の強い希望により本日、家族葬というかたちで執り行わせていただきました》 石原プロモーションが、渡哲也さん(享年78)の訃報を発表したのは8月14日。亡くなってから4日後のことで、渡さんの葬儀が近親者のみでしめやかに営まれた後だった。だがその葬儀に、渡さんを兄として慕い、師と仰いでいた舘ひろし(70才)をはじめ、石原軍団の姿はなかった。「これは妻の俊子さんが、『静かに送ってほしい』という渡さんの遺言を守った結果なんです。舘さんは“せめて遺骨の前で手を合わせたい”と、事務所の幹部にお願いしたそうです。でも俊子さんはそれを認めなかったんです」(石原プロ関係者) この振る舞いが、「舘さんが不憫だ」「非情」として物議をかもしている。だが、俊子さんが頑なに渡さんの遺志を守り、譲らなかったのには理由がある。 渡さんが俊子さんと出会ったのは、大学2年生のときだった。渡さんは、1学年下で大手鉄鋼会社役員の令嬢である俊子さんに一目惚れ。交際に発展して、1971年にふたりだけでハワイで結婚式を挙げている。 この年、渡さんはそれまで所属していた日活を退社して石原プロに入社。1987年に石原裕次郎さん(享年52)が他界すると、跡を継いで石原プロの社長に就任し、長く事務所を支え続けた。「渡さんは膠原病で9か月の長期入院を強いられたり、直腸がんや大腸がんなどを患って、闘病生活を幾度となく送っています。撮影中に大けがをしたこともありました。そんな渡さんを傍で支えていたのが、俊子さんなんです。俊子さんは、自分の体調も省みずに石原プロの運営に苦心する夫の姿を、何十年と見ていたんです」(俊子さんの知人) 2011年に社長を辞任し、2015年には急性心筋梗塞で緊急手術を受けると、車いすを使いながらの生活を余儀なくされた。そんな状態ながら、2017年には相談取締役として再び石原プロの経営に参加する。「車いすに加えて、酸素吸入器も手放せない状態だったようです。俊子さんはそんな夫と生活する中で、“残された時間を家族のために使ってほしい”という思いを抱くようになっていました。それでも渡さんは最期まで、来年1月に解散することが決定している石原プロの“清算”に尽力した。せめて、亡くなってからの時間だけでも“誰にも邪魔されたくない”と思ったのではないでしょうか。 あのふたりは、渡さんが“おい”と呼べば俊子さんが“はい”と駆けつける、亭主関白を絵に描いたような夫婦でした。断固、夫の遺志を尊重して貫いたというのも俊子さんらしい」(前出・俊子さんの知人) 批判の声もあるが、ふたりの人生を象徴するかのような俊子さんの振る舞いだったのだ。 2017年3月に亡くなった渡さんの弟・渡瀬恒彦さん(享年72)の妻も夫を静かに見送った。派手なことを嫌った故人の遺志により、近親者のみによる家族葬が営まれた。「渡瀬さんは2015年8月に胆のうがんが見つかり、入退院を繰り返しながらも仕事を続けていました。亡くなる前は激痛を伴う肺気腫を発症していましたが、それでも亡くなった翌月に控えていたドラマ『警視庁捜査一課9係』(テレビ朝日系)のせりふを全部覚えていて、亡くなる前日にも病室を訪れたスタッフと撮影の話をしていたようです」(テレビ局関係者) 最期まで仕事に情熱を燃やす一方で、葬儀についても生前から妻・い保さんと話し合っていたという。「戒名はいらない。棺のまわりは渡瀬さんが好きだったラン科の黄色い花、オンシジュームで取り囲み、遺影もい保さんの誕生日に撮影したものを使うと決めていたようです」(渡瀬さんの知人) 棺の中には、い保さんの手で家族の手紙や家族写真が納められたという。※女性セブン2020年9月17日号
2020.09.05 16:00
女性セブン
あああ
『西部警察』伝説 壊した車両は1話あたり平均20台
 今でも人気を獲得している刑事ドラマ。昭和の時代に遡ると、『太陽にほえろ!』や『西部警察』シリーズに代表される刑事ドラマで、石原裕次郎さんや渡哲也さんなどの大スターが、時に過激なアクションを披露し、時に涙を誘う名演で魅了した。これらのドラマはいかにして作られたのか。その舞台裏に迫る! 昭和の刑事ドラマにはどんな作品があったのだろうか。「テレビ放送がスタートした4年後から刑事ドラマが作られ始めましたが、現在と同様の1時間ドラマの形で放送されたのは、昭和36年から始まった『七人の刑事』と『特別機動捜査隊』。当時は高度経済成長期。地方から集団就職者が押し寄せて東京の人口は急増。団地が次々と建設され、隣人との関係が希薄になり、犯人の素性特定に時間がかかるようになりました。そんな社会背景をもとに犯罪をリアルに描いたドラマが作られるようになったのです」(社会学者・太田省一さん・以下同) この流れを変えたのが、昭和47年から14年続いた名作『太陽にほえろ!』だ。「それまでは犯罪自体をリアルに描いてきましたが、刑事という“人間”にスポットを当てたのはこの作品から。銃を撃つことに戸惑う刑事や犯人の背景に同情してしまう刑事の葛藤や、男同士の友情などを描き、青春ドラマの要素を加えたのです」 刑事ドラマにアクションと青春の要素を詰め込んだスタイルはその後も受け継がれ、アクションものでは『西部警察』シリーズが大ヒット。『西部警察』には数多くの伝説がある。壊した車両は約4680台(1話平均20台)、封鎖した道路は4万500か所、壊した家屋や建物は約320軒。派手な爆発シーンで知られ、使った火薬の量は全部で約4.8トン。ケタ外れのスケールが人気を支えた。 青春ものでは『俺たちの勲章』などが人気を集めた。当時は学生運動も下火になり、情熱を失った“しらけ世代”が、松田優作さんや中村雅俊が演じる若者に共感したのだ。 その後、時代はバブル期に突入。刑事ドラマにも時代の華やかさを反映した軽妙さが求められ、『あぶない刑事』シリーズのヒットにつながった。※女性セブン2020年9月17日号
2020.09.05 16:00
女性セブン

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