吉野さんは昭和2年、福島県に生まれ、18歳で土浦(茨城県)の予科練(海軍飛行予科練習生)に志願したという。
「福島から土浦までは歩いて行ったんだよ。でも、2~3か月で終戦を迎えてな。飛行機を見ただけで終わっちゃって悔しかった」
終戦後は、土浦から仕事を探して各地を渡り歩き、横須賀に辿り着いた。
「昔は横須賀も賑やかだったんだよ。軍港があって外人の街だったから、アメリカさん相手に働ける女がいっぱい集まるわけだ。当時は仕事なんてなくて、客引きをやったんだよ。外人の男を女のところに連れていって、上がりを取る。儲かったんだよ」
客引きを生業にした吉野さんは、「一番多いときで、7人の女の子を抱えていた」と当時を振り返る。
「ママさんにして、色んなお店をやらせてさ。毎日別の女の家に帰って、1週間で7人の女とヤってたわけだ。精力もお金もあったからな、ワハハ。当時は、ヤクザ者でもアメリカさんでも全然恐くなかったな。喧嘩して何度か死にそうになったよ、刺されたりしてな。ワハハ」
腕や腿に刀傷があると語る吉野さんだが、「相手を思いやるセックス」観へと転向したきっかけは何だったのか。
「若い時は自己満足だから、相手のことを考えない。オレみたいに7人も女をもってみれば分かるよ。みんな幸せにしようと思っても、女はそうじゃない。他の女のところにいるって分かってて、1週間待つんだから。
客引きを辞めてから不動産を始めたけど、人間は金儲けじゃないんだよな。60歳ぐらいになって気づいたけど、金儲けして欲張っても心が豊かにならない。人のためにならなきゃ何にもならないだろ。そう思うと、出会ったどの女もみんな愛おしくなってくるんだ。特に、生涯連れそうウチの奥さんはね」
横須賀の「性の伝道師」か、はたまた「希代のドン・ファン」か──かくして吉野さんは、ヴェルニー公園に今日もフラリと現われる。
※週刊ポスト2017年3月17日号