そもそもジビエ肉は味の個体差が大きい。以前ハンターから「(雑食の)イノシシなんかはうちの近所でも山ごとに味が違う」という話を聞いた。大量消費の文脈には乗せづらい肉なのだ。
「駆除」と「産業」が両方成り立つ仕組みを、どの規模で作るのか。食肉としてのクオリティには、狩猟の時期やエサも含めた場所はもちろん、猟の方法、と畜・解体、保存までのすべての工程(とスピード)が肉質に関わってくる。ジビエでは基本的に全工程を猟師自身が行うのだが、現状、猟師の知識や解体技術に差があるとも言われる。
以前、山を訪れたとき仲間内で一目置かれているというベテランの猟師に「この山のイノシシはうまいですか」と尋ねたら、「うまい、まずいで語ってるうちは、まだ半人前」とニカッと笑いながら喝破されたことがある。曰く「シカやイノシシは、面白いかどうか」。ベストの猟をしてなお、味が違う。それがジビエなのだ。
ビストロやフュージョン料理(各種料理のジャンルや手法を融合させた料理)店でも、ジビエ肉を出す店も増えた。食肉としてのジビエに対する理解は、食べ手の側でも進んできている。ならばもう一歩進めて、ジビエ肉を食用に回すとき、その背景を添える仕組みは作れないものか。群生する草花や樹木、その森林は針葉樹なのか広葉樹なのか。昼は暑いのか、夜は寒いのか──。
先日、瀬戸内海に浮かぶ小さな島のみかんを食べ荒らしたイノシシを食べた。脂身からは確かにみかんの柑橘の香りがした。その個体が野を駆けた風景を知れば、調理も変わり、味の感じ方も変わる。作り手も食べ手もただ消費するのではなく、深掘りした体験を積み重ねる。そうして食は文化へとつながっていく。